第425話
王城近くの開けた水路。長い橋がかかっていたが、その半分はすでに崩れ落ち、砕けた石材が泡立つ流れに沈んでいた。その頭上を覆うかのように、人の姿を取った海の神が暴れまわっている。荒波を起こすだけでは飽き足らず、その巨大な拳で都を打ち砕き、屋根も壁も無惨に崩していく。
そこには、この国の王ボセニアと多くの兵士たちがいた。海の神に抗い、必死に矛や魔法を繰り出してはいたが、圧倒的な力の前に次々と飲み込まれていく。怒涛の水飛沫が兵士たちを覆い、呼吸すらままならない。
「早急に祠を探し出すのだ! 遠隔で海神を呼び出すことはできない。都中、海中、すべてが範囲内だ!」
王は声を張り上げ、指示を飛ばした。だが現実は非情だった。波はあまりにも強く、魚類種であっても深く潜ろうとすれば押し戻され、あるいは見当違いの方向へと流されてしまう。
そんな混沌の中心へと、ただ一人向かう影があった。ララクだ。
「海神様をお目に掛かれたのは光栄ですが……こんな形は神も本望ではないでしょう」
空へ届かんばかりに伸びる海神の巨体を仰ぎ見ながら、破壊され尽くした石床の上を駆け抜ける。轟音と水飛沫に包まれ、視界は揺らぎ、足場は常に崩れ落ちていく。だが彼は走ることを止めなかった。
祠がどのようなものか、ララクには分からない。ただひとつ理解しているのは、その存在が海神を縛り、召喚者の命令に従わせる鍵だということだ。
神であるはずの存在が、人間の教徒の命令を聞いてしまう。そこに宿るのは、祠という装置の特異性か、それとも神自身に課せられた不可思議なルールなのか。走りながら、ララクはその理を測りかねていた。
(そろそろ海へ潜るか。ゼマさんにも探して貰ってはいるけど、おそらく海中に設置してあるんじゃ)
ララクは息を整えながら思考を巡らせた。地上を嫌う蒼濤派閥アスビアヘルムの存在。そして、人魚や魚人が深く関わっていることを踏まえても、召喚の儀式が海中で行われている可能性は高い。祠があるとすれば、地上よりもむしろ暗く深い水底だと見ていた。
だがララクはあくまで人間だ。常に荒れ狂う魔の海域と化した海へ飛び込み、暗中模索で探し続けるのは、効率的ではないし、あまりにも危険だった。
水路の縁まで駆け寄り、飛び込もうとしたその時だった。
ごうっと空気を裂く音が耳を叩く。海神の拳が、徐々にララクへと迫ってくるのが見えた。
「!? ボクを、狙い撃ち!?」
今まで無差別に都を破壊していたはずの海神が、標的を決めたかのように、一直線に自分へ攻撃を放ってくる。しかし、巨大な顔に見える部位は特にこちらを見ていない。焦点を持たない眼差しのまま、無機質に振り下ろされていた。
咄嗟に足を止め、全身をひねって後方へ大きく跳ぶ。直後、ララクが立っていた地面が轟音と共にえぐれ飛んだ。水飛沫が滝のように降り注ぎ、砕けた石が辺りに散らばる。
ただ拳が振り下ろされた衝撃だけでこれだ。まともに食らえば、肉体など跡形もなく潰されるに違いない。
(水圧で殺されそうだ……)
冷や汗が背筋を伝う。特に今は、回復の支えとなるヒーラーすらいない。たった一撃の油断が、即座に命を奪いかねない状況だった。
「あ────────ー! なんて罪深いんだろう! 私は……! で、でもこの胸の刺激は、すんばらしぃ!」
狂気を帯びた叫び声が、波音を突き抜けてララクの耳を打った。耳障りであるはずの響きが、逆に異様なほど鮮明に迫ってくる。目を凝らせば、瓦礫と水流の間に立つ女の姿があった。紫と紺、そこに真っ白が交じり合う布を全身にまとい、頭にはアスビアヘルムを象徴するベール。信徒特有の威圧感が漂う。
さらに目を引いたのは、彼女の耳だった。魚の鱗が尖って伸びたような形状。水飛沫に濡れて光るその輪郭は、彼女が人魚であることを強く物語っていた。
「……あなたが仕向けたんですね」
ララクは低く呟いた。海神の攻撃が突如として自分へと向けられた不自然さ。その真因が、この女の存在であると直感で理解できた。神の巨腕が動くたびに、彼女の周囲の水が反応している。無関係であるはずがない。
女はララクの視線を受けても怯まず、むしろ恍惚とした笑みを深める。
「海神様、このワネット、一心不乱にあなた様を動かさせていただきます。業の深い所業、ですが、故に何ものにも代えがたき刺激と体験……!」
その声は熱に浮かされた祈りに似ていた。やがて、彼女の足元にあった水が逆巻き、渦を巻く。波が、意思を持つように彼女の体へと絡みついていく。身体は完全に水に呑まれているはずなのに、ワネットは苦悶の色ひとつ見せず、頬を赤らめ、背筋を震わせていた。
「分かりやすい変態が来ましたね」
ララクは鼻で息を吐き、冷淡に言い放つ。その奇怪な快楽に酔う姿は、戦場に似つかわしくない。だが彼女の力は紛れもなく脅威だった。水そのものが、海神の力を媒介にして支配下に置かれている。
「あ──────、王都転覆が終わってしまえば、海神様ともさようなら。あ────、もどかしい! 教徒故の、愛深き悩み!」
女の絶叫に合わせるかのように、空気が湿り気を増した。次の瞬間、海神を抱え込むかのような膨大な海水の塊が蠢き、ララクめがけうねりを上げた。水の壁が押し寄せ、退路を奪い尽くす。
ララクの体は抗う間もなく呑まれた。
(っぐ。なんだこの、不可思議な痛みは……!)
全身を突き破る感覚。単に水圧に押されているのではない。海水そのものが刃と化し、体の内側に突き刺さってくる。皮膚が裂けるよりも深く、骨や臓腑を直接抉られているかのようだ。これが神の力。常識では測り得ない暴威が、容赦なく人間の肉体を苛んでいた。
「【ウィンドライド】!」
ララクは苦痛に顔を歪めながらも、反射的に両足へ魔力を集中させる。次の瞬間、足裏から突風が爆ぜ、凄まじい推進力で体を水の檻から吹き飛ばした。耳をつんざく轟音が響き渡り、飛沫が空に散る。
「はぁっ……! はぁっ……!」
荒い息をつきながらも、勢いを殺さずに空中へ逃れる。
「【空中浮遊】!」
叫びと同時に体がふわりと浮き、天空で静止した。眼下にはなおも波を操り、狂喜に酔いしれるワネットの姿。彼女の笑みは恐怖よりも陶酔に満ち、信仰を歪めた熱情が戦場をさらに狂気へと染め上げていく。