ララクは上空へと移動した。だが視線の先にある海神の姿はなおも巨大で、その頭部はさらに高みにあった。空を覆い尽くすような存在感が圧し掛かってくる。その下で海神を操るのは、地上に立つ人魚ワネット。もっとも地上といっても、すでに街は水に沈み、海と一体化していた。彼女は濁流をものともせず、素足で水面を踏みしめ、冷たさをそのまま受け止めていた。
「その力、もしかして【水操作】ですか?」
ララクは声をかけた。問い自体はどうでもよい。重要なのは、時間を稼ぐこと。荒れ狂う海流の中で息を整え、次の手を考えるために必要な間だった。
「わ、私に話しかけるなぁーーーーーーー!! 今、海神様を全身全霊で感じているんだ……!」
叫び返したワネットの瞳は虚空を仰ぎ、ララクを見ることすらしなかった。熱に浮かされた信者のそれ。視界には神しか存在していない。
(こ、この人、ボクを狙ったのは偶然!? ただ自分の力を使いたいだけなのかっ)
ララクは驚愕する。祠を探す自分を妨害するために送り込まれたと思っていた。いや、そういう意図もあったのかもしれない。だが今目の前にいる彼女は、過激派閥の中でもさらに独自の信仰を持ち、己の力を試すために海神へ身を委ねている。標的はララクではなく、ただ神を操るための通過儀礼にすぎないのかもしれなかった。
「海神様、僅かな時ではございますが、このワネットに身をゆだねてください!」
ワネットは両腕を広げ、身を海へと傾ける。海面がうねりを上げ、轟音を響かせながら隆起していった。その盛り上がる波に、彼女はためらいもなく素足で立つ。水の抵抗を受けるどころか、その揺れを足場に変え、大地のように安定している。
直後、海神の巨腕が振り下ろされるのと同時に、周囲の波が一斉にララクを目がけて襲いかかってきた。水塊は牙をむく獣のような勢いを持ち、巨大な拳は空気を震わせる。
「海上戦か……!」
ララクは気を引き締めた。ワネットの意識が自分に向いていないことが逆に不気味だった。あれほどの力を操りながら、ララク自身を狙っているわけではない。ただ海神を動かす流れの中で、偶然そこにいた敵を押し流す――そんな感覚すら漂っていた。
彼女が海神を使役できる理由。
【水操作】
効果……水を自在に操る事ができる。
自ら水を生み出すことはできない。単体で使うには条件が厳しく、扱いづらいとされるマイナースキル。ララクも所持していなかった。だが、この海の国では無尽蔵に存在する海水がある。その一点で、スキルは絶大な力へと変貌する。
「あーーーーーー、この日のためにレベル上げをしておいてとてもよかった。過去の自分へ感謝だ!」
歓喜を叫ぶワネットの姿は、狂信者というよりも、力に酔いしれた子どものようですらあった。だが彼女が操っているのは、憧憬の対象であったはずの海神そのもの。信仰と力とが融合し、彼女を突き動かしている。
ララクは深く息を吐いた。目の前にいるのはただの教徒ではない。神を背負った存在。あなどれば、一瞬で海に呑み込まれる。
都を離れ、ララクは広がる海の上空へと飛んだ。下方に広がる青い海面は光を反射してきらめき、潮風が顔を叩き、耳に鋭い音を残す。波は高く盛り上がり、所々で白い飛沫を舞い上げていた。
後方に目を向けると、人魚ワネットが波の上に立っていた。ボードなどはなく、波そのものを踏みしめているかのように、素足で波の頂に体を安定させ、自由自在に運ばれていく。水面の揺れや飛沫に全身が濡れても、彼女は微動だにせず、波に合わせて体をしなやかに揺らす。追いかけているのか、波と戯れているのか、それとも海神を操る過程で生じた遊戯なのか、ララクには判別できなかった。
眼下に目を戻すと、空中を裂く拳が迫る。巨大な拳が振り下ろす空気の衝撃が耳を突き、次の瞬間、水面から盛り上がる波がララクに向かって押し寄せた。単独で襲う拳と、波が別々の軌道で迫ってくる。飛沫が弾け、光が乱反射して視界が揺れる。
「っふ (規模はすさまじいが、物量がある分、回避の余地はあるな)」
ララクは思考を巡らせつつ体をひねり、空中で軌道をずらす。海神の拳は轟音を立てながら虚空を切り裂き、波は水の塊として押し寄せる。体の周囲を飛び散る水飛沫が鋭く肌を打つが、ララクは勢いを殺さず飛び続けた。
しかしこのままでは、目的の祠を探すために水中へ潜ることは不可能だった。海神の力と、ワネットの水操作による海の狂騒が、行く手を阻んでいる。
ララクは空中で一瞬体勢を整え、波と拳の間に立つ虚空を見定める。その瞳には冷静さが戻り、次の一手、反撃の構えを取ることを決意していた。