ララクは勢いよく透き通った海へと身を沈めた。都市に近いとはいえ、ここは浅瀬などではない。底知れぬほど水深は深く、青の闇が果てなく広がっている。耳に届くのは自分の心臓の鼓動と、水の重圧が押し寄せる音だけだった。
ただ、奇妙な静けさがあった。周囲に魚の姿がない。普段なら群れをなして泳ぐはずの小魚も、大型の影も一切見えない。嵐の前に逃げ惑ったかのように、生命が不自然なほど遠ざかっていた。
「いそげ! 【クイックスイム】 +【ウォーターライド】!」
掛け声と共に、ララクの両腕は水を切り裂き、足裏から噴射された水流が推進力を生み出す。クロールの動作と相まって、その速さは魚群を追い越すどころではない。まるで矢のように、一直線に王都の方角へと突き進んだ。
水をかき分け、海流に乗りながら走るように進んでいくと、やがて景色が変わる。広大な海中に、王都の地下構造が姿を現した。
埋め立てられた都市の下、海中に張り巡らされた巨大な柱。その間には水が通れるよう空間が残され、壁の一部には硝子細工が施されていた。光が反射し、青の世界に淡い煌めきを散らしている。完全に海を奪うのではなく、共存を目指した造り。その思想が建造物の一つひとつに刻まれていた。
(これが……海の国……か)
ララクの胸に複雑な思いがよぎる。アスビアヘルムの主張には一理あると、かつては思っていた。自然は本来の姿のままが望ましい。だが、こうして目の前に広がる都市は、自然を壊すのではなく、融け合うことを目指して積み重ねられてきたものだ。その努力を、破壊の名のもとに打ち砕くことは、決して許されない。
その瞬間、海流が荒れた。頭上から押し寄せる揺らぎが、海底にまで伝わってくる。巨大な力が、上空の波を荒れ狂わせている。海神が暴れている証拠だった。
(祠を起点に召喚されるのだとしたら……荒れの中心部に、痕跡があるはず……)
ララクの体が止まる。周囲の水流が渦を巻き、浮かんでいるだけでも体が引き裂かれそうな抵抗を与えてくる。呼吸を整え、波の中心を見据える。
すると、その荒れ狂う波に乗って人影が迫ってきた。最初は黒い影が揺らめいて見えただけだったが、次第に輪郭が浮かぶ。遊泳形態の人魚たち。甲殻をまとった雑種の魚人。甲羅をきしませながら泳ぐ者もいれば、波を斜めに駆けるように突っ込んでくる者もいる。数は少なくない。どれも海を本拠に生きる者たちだ。
その中でも一際目立つ影があった。鋭い三角の背びれ。逞しい腕。シャークス族の男。泳いでいるというよりも、波そのものと一体化して滑走するかのような動きで、ララクに迫る。
水の抵抗をものともせず、彼らはララクの周囲を取り囲み、通りざまに爪や鰭で肌を裂いていく。鋭い衝撃が体を走り、そこに海神の力が上乗せされているせいか、ララクの体には確かなダメージが刻まれていった。
(っく、この波を平然と……!)
荒れ狂う流れの中を滑るように泳ぐ姿に、ララクは息を呑む。まさしく海と共に生きる者たち。アスビアヘルムの信徒という名にふさわしい。自分にも【遊泳力上昇】の補助はある。だが、この状況下では追いつけない。都市を破壊するほどの波を足場にし、自在に乗りこなしている彼らを前にして、ララクは己の未熟さを痛感していた。
(ボクは未熟すぎるな。デューンさんなら、ここでも……)
脳裏に浮かんだのは、かつての仲間・遊泳槍デューン。単純なステータスだけなら、自分の方が上。けれど彼には積み重ねた経験があった。体の細やかな動きで流れを制御し、水の抵抗を力に変える術。ララクが本格的に水中を潜り始めたのは、この国に来てからのこと。海を乗りこなす度量はまだない。
そんな思考を遮るように、シャークス族の男が前に躍り出る。牙を剥き出しにし、波を割って吠えた。
「突き飛ばされた、っが、やはり海は素晴らしき世界だ! 人間よ! 在るべき世界への復興を、邪魔はさせない!」
迫力ある声に泡が散り、視界を乱す。ララクはその顔を見て、驚きの声を漏らした。
「この人、あの時の!? ……当然、参加してるか」
トライデントバトリアで相対した過激派の鮫男。確かに一度は撃退したはずだった。だが今、こうしてぴんぴんしている。
意外だった。だが、同時に思い出す。あの時、自分は水中戦の難しさに翻弄された。撃退できたのは力の差があったからに過ぎない。本質的には、まだ海に適応できていない。
(そうだ、ボクはまだ海を乗りこなせる度量なんてないのかもしれない)
スキル【ファントム化】を使えば、こんな敵たちは問題にもならないだろう。しかし、それは莫大な魔力を消費する。今日はすでに【テレポート】を使用している。これ以上、燃費の悪い選択は取れない。
ララクは決意を固め、胸に手を当てた。
「こういう時は、得意な奴に任せることにします。ボクにはその力はある。来てくれ、【ヒストリーサモン】!! シーサーペント!!」
水中に光が渦を巻き、ララクの傍らに魔力が集結する。泡を巻き込みながら長大な形を形作り、やがて白と青の鱗をまとった大蛇が顕現した。
その姿は、かつて港町で討ち取った海の怪物・シーサーペント。深海の恐怖が、今はララクの味方として姿を現す。