祝・追放100回記念 9巻   作:高見南純平

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第436話

「もうお戻りになられろ! 海神よ!」

 

 シーサーペントの背に必死にしがみつくララクは、渦を巻く濁流に呑まれながらも声を張り上げた。目の前を塞ぐのは、銀色の光をまとった海神の上半身。両腕は山脈のように巨大で、振り下ろされる度に水が爆ぜ、衝突音が雷鳴のように響き渡った。

 

 ゴゴゴゴォォォ──ッ。

 

 海そのものが崩れ落ちてくるような轟音。耳の奥まで振動が入り込み、鼓膜が破れるのではないかという痛みにララクは顔を歪める。息を止めている肺はすでに悲鳴を上げていたが、それでも手を離さなかった。

 

 それはすでにララクが勝利を掴んでいたからだ。咥えられた祠には、当たり前だが誰も祈ってはいなかった。魚人の信者たちは武器を放り出し、泡を散らしながら逃げ去っていた。祈祷を支える声が消え、海神の形は崩壊を始める。銀の体は粒子のように砕け、腕も顔も輪郭を失い、濁流の中に溶けていった。

 

 その隙を突いて、シーサーペントは全身をしならせる。鞭のようにしなる体が、海の抵抗を断ち切る。巨体が振動するたびにララクの骨まで衝撃が走り、指が千切れそうになった。それでも離すものかと、力の限り掴み続ける。

 

 銀の濁流を突き破った瞬間、視界に光が飛び込んだ。

 

「ジュロオオオオオォオオオオ!」

 

 祠を咥えたまま、海の大蛇が咆哮する。その声は海中を震わせ、海面を突き抜けて空へと轟いた。

 

「はぁ! テロは終わりだ!」

 

 ララクは叫び、濡れた金髪を大きく振り払った。飛沫が散り、太陽の光を反射して無数の粒がきらめく。肺に空気を流し込むと、熱と塩の匂いが喉を焼くようで、それすらも幸福に思えた。人間にとっての味方はやはり、海ではなく天だった。

 

 シーサーペントは水柱をあげながら、巨大な放物線を描いて空中へ跳び出した。空気が一気に肌を撫で、冷え切った体が太陽の熱に包まれる。ララクは震える腕で前を押さえつけながら、眼下に広がる街の様子を確認した。

 

 荒れ狂っていた海はようやく静まりつつある。しかし水位はまだ高く、通りは半ば水没している。砕けた石造りの建物、折れた塔、瓦礫の浮かぶ水面。人々の叫び声が風に乗って届き、都市全体が混乱と恐怖に包まれていることを実感させる。

 

「……あれは教会……」

 

 視線の先に、かつて訪れた海神教の教会があった。かつては荘厳な屋根が象徴だったその建物は、今や半壊し、瓦礫が水面に崩れ落ちていた。尖塔は折れ、装飾の彫刻も無残に砕けている。

 

 ララクは息を呑んだ。そして、自分が飛び出した広場が、教会のすぐ近くであったことに気づいたのだった。

 

 ララクは水飛沫を振り払いながら、眼下の広場に視線を落とした。そのとき、ひときわ鮮やかな衣をまとった人物と目が合う。距離はあるが、顔に見覚えがある。この国で数少ない知り合いのひとりだった。

 

「シーサーペント!? それに祠じゃないか! っと、ララク!」

 

 驚愕の声を上げたのは、王子レガヴァだった。広場で側近たちと共に水没した市街の人々を救助していたところだったらしい。整った顔立ちに緊張が走り、その瞳は祠を咥えたシーサーペントからララクへと移り、驚きの三点をきっちり確認していた。

 

 すぐそばにいた側近ティノラは頭を抱え、「もう腹いっぱいだぜ、あいつのやりたい放題には」と呻くように言った。脳裏に浮かんでいたのは、つい先日、トライデントバトリアで宝貝を瞬間移動させたあの光景だった。思い出すだけで頭がくらりとする。

 

 別の側近タンバリィは、眉をひそめながらララクの姿を凝視していた。

 

「あれ、【ヒストリーサモン】かな……?」

 

 彼女の口から推察がもれる。さらに脳裏をよぎったのは、自分も最後に参加させられた首長疑竜アトランティの召喚だった。鱗が輝き、巨躯が湖から飛び出してきて、それを沈めたあの光景。(あれも呼び出せるのだろうか)と、心の奥で確信にも似た予測が膨らんでいった。

 

 それぞれ、空に舞う沈船シーサーペントの巨体に驚愕しつつも、同時に海神の顕現が終わったことを悟り、胸の奥に安堵が広がっていった。暴威を振るった神が消えたという事実は、誰にとっても救いであった。

 

 だが、その中にひとりだけ違う表情を浮かべる者がいた。広場にて教徒退治に加わり、捕縛されたクラブスたちを背に立っていた人魚の女。離島の果樹園主セオリアという名を持ちながら、この場では王女レーマとして振る舞ってきた存在だった。

 

 ピンク色の長い後ろ髪を二つに結ったその髪型は、幼少の頃の王女の面影を呼び覚ます。だが今、その瞳は沈船シーサーペントに釘付けだった。祠を咥えたまま海から飛び出した大蛇は、巨躯を広場の上に影のように落とし、その口を開いて祠を地へと落とした。誰もが望んでいた回収の瞬間。

 

 だが、セオリアの心は歓喜とは真逆の方向へと傾いていた。冷えた海水が溢れ出し、足元を覆う。瓦礫も混じり、鋭く肌を刺す。だが彼女は気にもしなかった。視線はただ祠とシーサーペント、そしてそれを率いるララクに奪われていた。

 

「……あぁ……は、あぁ……」

 

 喉から漏れ出た声はかすれ、涙が頬を伝う。瞳孔は開き、汗が滲む。膝が耐えきれずに崩れ落ち、その両手で頭を抱え込む。声は荒くない。しかし震える吐息の奥に、心が壊れていく音がはっきりと響いていた。

 

 その異変に最初に気がついたのは、王子レガヴァだった。駆け寄り、姉を案じる表情で肩に手を置く。

 

「姉君! どうなされましたか! すぐに救護隊を……!」

 

 触れた手の下から伝わるのは、常の姫らしい温もりではなく、氷のような冷たさと絶え間ない震え。その感触にレガヴァの心臓は跳ねた。ただ事ではない。これは肉体の傷ではなく、心を削る何かだと直感した。

 

 次に耳にした言葉は、彼に信じがたい衝撃を与えた。

 

「……王子……。申し訳ございません。王女は、レーマ王女は。海に帰られました……」

 

 その声は震え、かすれていた。だが言葉自体は鮮明であり、あまりに明確すぎた。レガヴァの呼吸が止まる。側近たちも一様に絶句する。

 

「……!? な、何をおっしゃるのですか……! 姉君は今ここに、私の手に……!」

 

 混乱が言葉を支配する。彼は意味を理解しながらも、同時に理解を拒絶していた。目の前にいるのは姉のはずなのに、姉ではないと告げられる矛盾に、脳が追いつかない。

 

 そこへララクが駆けてくる。広場に足をつけ、荒い息を整えながらセオリアの様子に目を向けた。彼の視線にも映ったのは、力なく崩れ落ちる人魚の姿だった。

 

 次に発せられた彼女の言葉は、ララクにとってもすぐに意味を理解できるものではなかった。だが、それでも伝わってくる真実があった。

 

「……私は、レーマ王女の足元にも及ばない、ただの人魚です……」

 

 それは、自分を縛り続けていた偽りの殻を壊す告白だった。彼女の名はセオリア。母親が愛情を込めて与えた、ただの一人の人魚としての名。それを口にした瞬間、彼女の心を覆っていた王女としての虚像が、砕け散る音がした。

 

 広場に響く海の大蛇の咆哮。振動が石畳を揺らす中、セオリアは震えながらも悟った。思い出さずにはいられなかった過去と、離さなければならない今。王女という役割から手を放す時が来たのだと、覚悟を刻むしかなかった。

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