祝・追放100回記念 9巻   作:高見南純平

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♯20 人魚の記憶
第437話 


 私は望まれない形で、母の中に芽吹いた。昔から父親はいなかった。顔も名前も知らない。私のスキル画面に映る種族の欄が人魚だから、父親も母親と同じ人魚、ということぐらいしかわからなかった。

 

 母親が書いた「大人になったあなたへ」という手紙の中で、父親は名も知れぬ蛮族で、母親は襲われたという事を知った。胸を突くほど衝撃的だったけれど、想像の中の可能性のひとつでもあったから、取り乱すことはなかった。むしろ私は、そんな経緯で生まれた私を抱きしめて育ててくれた母に感謝しかなかった。

 

 母はミカンのような鮮やかなオレンジ色の髪をしていた。陽射しを受けるたびに光を散らし、果樹園の木々の緑の中でひときわ目立つ。羨ましかった。私の髪は濃い紺色で、海の底を思わせるような暗さがあったから、幼い私はなんとなくそれを嫌っていた。

 

 あの頃、私は10歳を少し過ぎたばかり。学校には行かず、母と一緒に果樹園の世話をしていた。広がる畑には、リンゴやオレンジやブドウが季節ごとに色を変えて実をつける。木々の間を抜ける風は果実の甘い匂いを運び、光に透けた葉は、海面に反射する波光のようにきらきら揺れた。

 

「ほら、この艶のある赤が、食べごろって合図だからね」

 木の枝からリンゴを摘み取った母は、陽の光にかざして私に見せてくれた。

 

「かぶりついていい?」と無邪気に聞いた私に、母は目尻を下げて笑った。

「もっとおいしい食べ方があるでしょ」

 

 母は仕事が終わり自宅に帰ると、包丁でリンゴを薄く切って白い皿に並べてくれた。瑞々しい果肉が光に透け、刃先から滴った果汁が皿の上に小さな光の粒を散らす。それを口に含むと、歯ごたえは軽く残り、舌の奥に甘酸っぱさが広がっていく。噛むたびに香りが膨らみ、果汁が喉を潤して、終わりのない幸福感に包まれた。

 子供の頃の記憶だけど、今でもよく口に入れているから、鮮明に記憶が残っている。

 

 私は母とずっと2人で過ごしていた。母は果樹園から離れることは少なく、人との関わりといえば、商人が果物を取りに来るときくらい。だから私にとっての世界は、果樹園と母、そのふたつだけで満ちていた。

 

 それでも十分だったような気がする。だって大好きな母とは仲良しで、夜は一緒に布団に入ってくれた。母はよく、人魚が主人公の絵本を読んでくれた。けれど家事も仕事も全部ひとりでこなしていたから、読みながら先に寝落ちすることの方が多かった。私は子供ながらにそれを理解していたから、電気をそっと消して、母を起こさないように静かに眠った。

 

 あぁ……思い返すと、あの時の私は心が満たされていた。目を閉じる前の時間でさえ、宝物のように楽しめていた。

 

 海はすぐ近くだったから、釣りや漁に出ることも多かった。潮風を受けながら網を引くと、胸が広がるような解放感があった。狩りも得意で、勉強も得意だった。文武両道なんて言葉を知ったのはもっと後だけれど、子供の私にはとにかく身体を動かすことも机に向かうことも苦ではなかった。

 

 よく母が「優秀ですな、セオは」と言って、オレンジ色の髪を揺らしながら私の頭を撫でてくれた。私は自分が特別に優れているなんて思ったことはなかった。それでも母のその言葉だけは、不思議と心に沁み込んで、今も胸の奥に残っている。

 

 けれど、どこかに寂しさはずっとあった。その正体が何なのか分からず、母に相談することもできなかった。ただ、笑っていれば消えるものだと信じていた。

 

 けれど、すぐに知ることになる。私へのかけがえのない贈り物は、嵐の後に訪れたのだ。

 

 ひどい嵐になると、私たちは決まって果樹園を守るために動いた。果樹園は親戚から受け継いだもので、長い歴史があり広さもある。だから一つひとつの木にカバーをかけていく作業はとても骨が折れた。丈夫な麻布を広げ、枝に絡めて固定し、風で飛ばされないよう石や縄で重しをつける。母は手際よく高い枝に布を渡していったけれど、背の小さい私にはどうしても届かない場所が多く、脚立を持ち出して必死に腕を伸ばした。

 

 私は爆弾系統のスキルしか持っていないから、便利な支援はできない。だから力仕事も段取りも自力でやるしかなかった。足場が揺れるたびに心臓が跳ねたけど、それでもやり切ろうと踏ん張った。母は私の肩に手を置き、小さな回復スキルで体力を少しだけ戻してくれた。そのわずかな温かさが支えになった。

 

 その夜、雨と風で家全体が揺れた。壁を叩く音、窓を引き裂くような風の唸り。私は母の腕にしがみつきながら眠りについた。母の体温が近くにあるだけで、嵐の轟きが少し遠くなった気がした。

 

 そして朝。嵐は夜のうちに過ぎ去り、厚い雲を押し流していた。目の前には一面の青空。濡れた果樹園の葉からは雫がこぼれ、陽を受けて無数の光を散らしていた。昨日必死に守った布の一部は風で剥がれていたけど、木々はまだ立っていた。

 

 母と一緒に果樹園を見回りに出る途中、私は何気なく視線を下へと向けた。家は島の高い場所にあるから、遠くの砂浜まで一望できる。そこからさらに進めば港町がある。その道筋を目に焼きつけて育った私だったが、その日だけは違った。

 

 波の引いたばかりの砂浜に、何かが横たわっている。揺れる海藻かと思った。でもすぐに違うと分かった。胸の奥が跳ねる。

 

「……!! お母さん! ひ、人!」

 

 声が裏返り、思わず指を差した。母が目を細め、次の瞬間に息を呑んだ。

「? ……っあ! 子供……?」

 

 私たちは足を取られながら坂を駆け下りた。濡れた草に滑りそうになりながらも止まれなかった。砂に出た時、潮の匂いが強く鼻に差し込んだ。

 

 そこに倒れていたのは、海藻や砂に絡め取られ、ボロボロの服を着た女の子だった。髪は桃の果実のように鮮やかなピンクで、濡れた光がまとわりついていた。

 

 私と母は顔を見合わせた。生きているのか、それとも──。その一瞬の息苦しい沈黙が、心臓を強く締めつけた。

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