その子の寝顔は、吸い込まれるように綺麗だった。薄く濡れた桃色の髪が頬に貼りつき、小さく震える胸が規則正しく上下している。しばらく息を潜めて見つめていた。光の加減で、髪の一房一房が宝石のように輝き、心を掴まれるような感覚があった。
母はとりあえず砂浜で見つけた彼女を抱き上げ、息があることを確認するとすぐに言った。「家に運ぼう。低体温症になっていると思うから、お湯を沸かさなきゃ」
母は手際よく動いていた。回復スキルを少しだけ持っていることもあって、狭いコミュニティで暮らしていたせいか、医学の知識も少し身についていたのだろう。私も、病院に行かずとも母の看病で風邪やかすり傷を治してもらった経験があったから、母の指示を受けながら手を動かせば十分に役に立てると感じていた。
家に運び、濡れた体を拭き、かすり傷を確認する。ひどい傷もあったけれど、母のスキルで何とか処置できた。幸い、重症ではなかった。
倒れている人を目の前で見るのは初めてで、私の胸はざわついていた。けれど、昔から母の手伝いは得意だったし、母の指示を受けながら動けば、混乱している余裕は少しずつ消えていった。
その子は私と同い年くらいで、背格好も似ていた。髪型は私は短く紺色だが、彼女は鮮やかな桃色で、顔つきもあまり似ていなかった。寝巻をそっとかけると、布はぴったり合い、ベッドに寝かせて落ち着かせることができた。母曰く呼吸は問題ない。
「私の看病だと、ここが限界だねぇ。このまま起きなければ、近くの病院に連れて行こう」
母の声を聞きながら、私は心の中で小さくうなずいた。砂浜でこの子を見つけたあの瞬間から、胸の奥が妙に張り詰めていた。外から差し込む朝の光が、濡れた床や毛布のしずくに反射して細かく揺れ、部屋全体が淡い波模様に包まれている。湿った空気の匂いと、微かに焦げた薪の香りが混ざる中で、静かな緊張がゆっくりと流れた。
すると、彼女は目を開けた。赤色の瞳がゆっくりと私を捉え、半分眠ったまま、けれど確かにこちらを見ている。光に反射して、水面のように揺れる瞳。瞳の色は少し私と似ていた。もっと私は濃いけれど。
小さく、かすかな声が漏れた。「……ん……」
私は思わず手を動かさずに見守った。指先に伝わる毛布の柔らかさ、微かに聞こえる呼吸のリズム、そして自分の心臓の音さえも気になるほど、静寂の中に集中していた。母もそっと手を添え、毛布をかけ直す。その手は温かく、落ち着いた力を持っていて、自然と胸の緊張がほどけていく。
「人魚だから助かったんだね。人間だったら、酸素不足で手遅れだったかも」
母は少し小難しい事を言っていて、私はその全ての意味を理解できてはいなかった。けれど母の優しげな表情から、もう彼女は無事なんだという事は察する事ができた。
私は目の前の子を見つめながら、砂浜や嵐の後の海の匂い、濡れた髪に残る塩の感触、微かに伝わる温もりをひとつひとつ感じ取った。胸の奥に、まだはっきり形にならないけれど、強い高鳴りが小さく跳ねている。
これが、彼女との出会いだった。静かで、けれど確かに心を揺さぶる、初めての瞬間。柔らかい光、母の温もり、そして新しい命の匂いが混ざり合い、部屋の空気のすべてが私の中に染み込んだ。
だけど彼女は見た目には分からない後遺症を抱えていることが分かっていく。
母が「視界は良好かな? 私たちの事は分かるかな?」と手を振る。
すると彼女は「お人魚さん」とぼそっとつぶやく。その言い方はどこか上品で、柔らかく、風に乗って微かに耳に残った。私は思わず口元が緩み、胸の奥がほんのり温かくなるのを感じた。状況がどうなのか正確には分からなかったけれど、その声の響きに、自然と笑みがこぼれた。
そのあと、彼女が手を振り返した。ぎこちなくも一生懸命な仕草で、指先の動きや小さな肩の揺れまで、すべてが愛らしくて仕方がなかった。ぬいぐるみを家に置いていたわけではないけれど、初めてお人形がやってきたときのような、不思議な気持ちが胸に広がる。
私はそっと近づき、手のひらを向け返そうとした。柔らかな光の中で、二人の手がゆっくり近づく。そのわずかな距離に、妙な安心感と心の高鳴りが混ざり合った。海の匂い、湿った髪の香り、そしてこの小さな生命の温もりが、目に見えない糸のように私の胸を満たしていく。
そして色々と体の健康を母がチェックしていて、とある質問をした。突飛でも何でもない。
「さぁて、可愛い子ちゃん。お名前は入れるかな?」
母は病人を見る目から、徐々に迷子を見るような目になっていった。その眼差しには、優しさと慎重さが混ざっていて、小さな命をそっと抱きかかえるような温かさがあった。日差しが差し込む部屋の中、淡く揺れるカーテンの影が母の肩越しに彼女の小さな体に落ちて、私の胸の奥にも柔らかい光が差し込むようだった。
「……お名前、可愛い子ちゃんの……私の……」
彼女は海オウムみたいに言われたことを繰り返す。その声のぎこちなさや、言葉を探す様子が、どこか愛らしく、私は思わず微笑んだ。小さく震える肩、指先の緊張感、呼吸のリズムからも、まだ体が完全復活していないことが伝わってきた。けれど、その愛らしさの裏に、名前を言えないもどかしさが隠れていることも、母はすぐに感じ取っていた。
「……そっか。目覚めたばかりだしね。元気になろう、そして徐々に思いだしていきましょう」と母は言いながら、「触りますよ~」とつぶやき、彼女の乾いた髪と頭を優しく撫でた。髪の感触は少しざらついていたけれど、母の指先の温もりが伝わって、緊張していた体も少しだけ柔らいだ。私にしてくれるのと同じ仕草だ。嫉妬の気持ちはなく、逆にうれしかった。姉妹が増えたようで、胸の奥が温かくなる。ベッドの上で小さく丸まる彼女を見下ろすと、守らなければという気持ちが自然に湧き上がった。
こうして、彼女はこの家で過ごすことになった。窓の外から差し込む海風と、穏やかに揺れるカーテン、床に散らばる小さな足跡。それら全てが新しい日常の予感を運んできた。いつまでも「かわいい子ちゃん」では落ち着かないから、名前をつけることになった。
私は強く心に決めて言った。「絶対に名前担当は私!」
三日三晩、悩みに悩み、ついには少しやりすぎて10文字くらいになりかけたけれど、最終的にシンプルで呼びやすい「ハピナ」と命名した。名前を呼ぶたびに、彼女の目が少しずつ輝き、口元が緩む。その反応を見ているだけで、胸の奥に小さな幸福がゆっくり広がっていった。
こうして、私たちは三人家族になった。母の穏やかな笑顔、ハピナのぎこちない仕草、そして私の胸に広がる小さな喜び。それぞれの温もりがひとつに混ざり合い、海風に揺れるカーテンの向こうから差し込む光と、床に落ちる影の中で、家は静かで、でも確かな幸福に包まれていた。