嵐の前触れの風が、島全体をざわめかせていた。低い雲が重く垂れ込み、木々の葉がひたすらにざわついている。そんな中で、私と母は必死にハピナを看病していた。
昼前からハピナの震えが強まり、母に抱えられるようにして離島の病院へ向かった。潮風に混じる砂が頬に叩きつけられ、歩くだけでも体力を削られるような天候だった。病院は小さく、島で唯一の診療所に近い。医者は薬を出してくれたけれど、それが効いているようには見えなかった。
「心理的なものかもしれません」
医者はそう言った。
母は帰り道で、小さくため息をつきながら呟いた。
「トラウマかもね。それも、体の奥に、脳の奥に刻まれた」
ハピナが嵐の後に私たちの前へ現れたことを考えれば、その言葉は不思議と納得がいった。彼女自身は覚えていない。けれど、嵐に飲まれたことを予測するのは難しくなかった。
家に戻ると、母と私は交代でハピナの看病にあたった。熱でほてった顔をそっと冷たいタオルで拭い、汗で濡れた髪を手で優しく押さえる。布団の上に座らせ、手で支えながら温かいスープを口元に運ぶ。ハピナは震えながらも、湯気と香りにつられて少しずつ口を開けた。
「ゆっくりでいいよ、焦らなくていい」
私は彼女の肩を抱き、頭を撫でながら声をかける。
「ハピナ、守るよ」
その言葉に、彼女は小さく頷いた。抱き寄せると、震える体が私に伝わり、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
「耳をさわりたい」
か細い声でハピナが言う。私は顔を寄せ、耳を差し出した。普段は冷たい人魚の耳ヒレに、彼女の体温がじんわりと伝わる。手のひらに伝わる熱で、震えた体の温もりまで感じられた。
母はそっと隣で、タオルで背中や腕の汗を拭き取りながら、スープの残りを温め直してくれる。私たちが手を休めると、ハピナは少し安心したように目を細め、わずかに吐く息が落ち着きを取り戻していくのを感じた。
小さな体を抱き、温かい液体を口に運び、汗を拭きながら、嵐の中で必死に守る時間。冷たい風が窓を叩き、家全体が揺れるように音を立てても、私たちはただハピナの側にいた。
すると、ひときわ強い風が家を叩きつけた。壁がきしみ、天井の板が低くうなる。次の瞬間、屋根に貼られていた小さなガラスのひとつが、ぱきん、と鋭い音を立てて割れた。冷たい風と細かい雨が隙間から吹き込み、部屋の空気を一気に荒らす。
母はそれを察知したのか、布巾で汗を拭いていた手を止め、すぐに立ち上がった。
「園の様子を見てくるよ。すぐ帰ってくるから、ハピナのお守り人してくれる?」
「うん、もうしてるもん!」
私は胸を張って返事をした。昼間からずっとハピナの看病をしていたから、母の言葉に迷いはなかった。けれど同時に、果樹園の保護が後回しになっていることも分かっていた。嵐の前に仕上げなければ、明日の実りは失われてしまう。母は短く頷くと、外套を羽織り、扉を開けて出ていった。
ばたん、と扉が閉じる瞬間、外の荒れた光景が切り取られたように室内へ入り込む。灰色の空と、横殴りの雨、うねる風の音。それらが一瞬だけ強烈に目に焼き付いた。
「……嵐……」
ハピナがかすれた声でつぶやく。掴んでいた私の耳から力が抜け、細い指がするりと落ちた。震えも少し弱まり、頬に赤みを帯びていた熱がわずかに下がったように見える。不思議と呼吸も安らいでいて、先ほどまでの必死さが和らいでいた。
「水のもっか。補給、補給」
私は小声で自分に言い聞かせるように呟き、コップを用意するためにベッドを離れた。台所から水をくんで振り返った時、目に入った光景に思わず息を呑んだ。
ハピナが立っていた。
さっきまで布団に沈み、熱と震えに苦しんでいたのに。背筋はまっすぐ伸び、目元の影は晴れている。顔立ちは同じはずなのに、纏う空気が別人のように澄んでいて、大人びたものに感じられた。
今思えば、この瞬間から彼女は「彼女」ではなくなった。いや、正確には本来の自分を取り戻したのだろう。
「……水は良いかな。……セオリア。思い出すときは……こんなに一瞬なんだね。時と記憶は不可思議だ」
「? ど、どしたの? ま、まだやすまなくちゃ」
母と約束した通り、私はまだハピナを守る気でいた。けれど、目の前に立つ彼女はもう、さっきまでの弱々しい少女ではなかった。
いつか記憶が戻ることはあるだろうと頭では分かっていた。けれど、子供だった私はそんなことすっかり忘れていた。
「ありがとう、あなたと母様には感謝しきれない。……きっと拾われなければ、家族にならなければ、死亡していたと、思う」
声は確かにハピナのもので、可愛らしさも幼さも残っていた。だが話し方や語彙は、これまでの彼女とは違っていた。のほほんとした性格に見えていたけれど、今のそれは比べものにならないほど落ち着いていて、静かに響く大人の声色だった。
「? ……っは、よく分かんない。でも、お元気になったんだよね!」
私は混乱を振り払うように声をあげる。
「うん、心身ともに、復帰することができたよ。記憶の引き金は、当時の再現だったんだ」
その言葉の意味を、このときの私は理解できなかった。彼女が震えていたのは病気ではなく、嵐という衝撃で脳が混乱し、記憶を呼び起こしていたからだったのだ。
「じゃ、じゃあ母に伝えなきゃ」
安心した私は、水の入ったコップを置き、家を飛び出そうと一歩踏み出した。
だが、その瞬間。ハピナの次の言葉が私を止めた。幼い私にも分かる、いや幼いからこそ鋭く突き刺さる衝撃的な言葉だった。
「そうしよう。……生活の保護と治療への感謝。そして、今までお世話になったと。別れとは、悲しみの同意語だけど」