祝・追放100回記念 9巻   作:高見南純平

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第442話 

 嵐の前触れの風が、島全体をざわめかせていた。低い雲が重く垂れ込み、木々の葉がひたすらにざわついている。そんな中で、私と母は必死にハピナを看病していた。

 

 昼前からハピナの震えが強まり、母に抱えられるようにして離島の病院へ向かった。潮風に混じる砂が頬に叩きつけられ、歩くだけでも体力を削られるような天候だった。病院は小さく、島で唯一の診療所に近い。医者は薬を出してくれたけれど、それが効いているようには見えなかった。

 

「心理的なものかもしれません」

 医者はそう言った。

 

 母は帰り道で、小さくため息をつきながら呟いた。

「トラウマかもね。それも、体の奥に、脳の奥に刻まれた」

 

 ハピナが嵐の後に私たちの前へ現れたことを考えれば、その言葉は不思議と納得がいった。彼女自身は覚えていない。けれど、嵐に飲まれたことを予測するのは難しくなかった。

 

 家に戻ると、母と私は交代でハピナの看病にあたった。熱でほてった顔をそっと冷たいタオルで拭い、汗で濡れた髪を手で優しく押さえる。布団の上に座らせ、手で支えながら温かいスープを口元に運ぶ。ハピナは震えながらも、湯気と香りにつられて少しずつ口を開けた。

 

「ゆっくりでいいよ、焦らなくていい」

 私は彼女の肩を抱き、頭を撫でながら声をかける。

 

「ハピナ、守るよ」

 その言葉に、彼女は小さく頷いた。抱き寄せると、震える体が私に伝わり、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。

 

「耳をさわりたい」

 か細い声でハピナが言う。私は顔を寄せ、耳を差し出した。普段は冷たい人魚の耳ヒレに、彼女の体温がじんわりと伝わる。手のひらに伝わる熱で、震えた体の温もりまで感じられた。

 

 母はそっと隣で、タオルで背中や腕の汗を拭き取りながら、スープの残りを温め直してくれる。私たちが手を休めると、ハピナは少し安心したように目を細め、わずかに吐く息が落ち着きを取り戻していくのを感じた。

 

 小さな体を抱き、温かい液体を口に運び、汗を拭きながら、嵐の中で必死に守る時間。冷たい風が窓を叩き、家全体が揺れるように音を立てても、私たちはただハピナの側にいた。

 

 すると、ひときわ強い風が家を叩きつけた。壁がきしみ、天井の板が低くうなる。次の瞬間、屋根に貼られていた小さなガラスのひとつが、ぱきん、と鋭い音を立てて割れた。冷たい風と細かい雨が隙間から吹き込み、部屋の空気を一気に荒らす。

 

 母はそれを察知したのか、布巾で汗を拭いていた手を止め、すぐに立ち上がった。

「園の様子を見てくるよ。すぐ帰ってくるから、ハピナのお守り人してくれる?」

 

「うん、もうしてるもん!」

 私は胸を張って返事をした。昼間からずっとハピナの看病をしていたから、母の言葉に迷いはなかった。けれど同時に、果樹園の保護が後回しになっていることも分かっていた。嵐の前に仕上げなければ、明日の実りは失われてしまう。母は短く頷くと、外套を羽織り、扉を開けて出ていった。

 

 ばたん、と扉が閉じる瞬間、外の荒れた光景が切り取られたように室内へ入り込む。灰色の空と、横殴りの雨、うねる風の音。それらが一瞬だけ強烈に目に焼き付いた。

 

「……嵐……」

 

 ハピナがかすれた声でつぶやく。掴んでいた私の耳から力が抜け、細い指がするりと落ちた。震えも少し弱まり、頬に赤みを帯びていた熱がわずかに下がったように見える。不思議と呼吸も安らいでいて、先ほどまでの必死さが和らいでいた。

 

「水のもっか。補給、補給」

 

 私は小声で自分に言い聞かせるように呟き、コップを用意するためにベッドを離れた。台所から水をくんで振り返った時、目に入った光景に思わず息を呑んだ。

 

 ハピナが立っていた。

 

 さっきまで布団に沈み、熱と震えに苦しんでいたのに。背筋はまっすぐ伸び、目元の影は晴れている。顔立ちは同じはずなのに、纏う空気が別人のように澄んでいて、大人びたものに感じられた。

 

 今思えば、この瞬間から彼女は「彼女」ではなくなった。いや、正確には本来の自分を取り戻したのだろう。

 

「……水は良いかな。……セオリア。思い出すときは……こんなに一瞬なんだね。時と記憶は不可思議だ」

 

「? ど、どしたの? ま、まだやすまなくちゃ」

 母と約束した通り、私はまだハピナを守る気でいた。けれど、目の前に立つ彼女はもう、さっきまでの弱々しい少女ではなかった。

 

 いつか記憶が戻ることはあるだろうと頭では分かっていた。けれど、子供だった私はそんなことすっかり忘れていた。

 

「ありがとう、あなたと母様には感謝しきれない。……きっと拾われなければ、家族にならなければ、死亡していたと、思う」

 

 声は確かにハピナのもので、可愛らしさも幼さも残っていた。だが話し方や語彙は、これまでの彼女とは違っていた。のほほんとした性格に見えていたけれど、今のそれは比べものにならないほど落ち着いていて、静かに響く大人の声色だった。

 

「? ……っは、よく分かんない。でも、お元気になったんだよね!」

 私は混乱を振り払うように声をあげる。

 

「うん、心身ともに、復帰することができたよ。記憶の引き金は、当時の再現だったんだ」

 

 その言葉の意味を、このときの私は理解できなかった。彼女が震えていたのは病気ではなく、嵐という衝撃で脳が混乱し、記憶を呼び起こしていたからだったのだ。

 

「じゃ、じゃあ母に伝えなきゃ」

 安心した私は、水の入ったコップを置き、家を飛び出そうと一歩踏み出した。

 

 だが、その瞬間。ハピナの次の言葉が私を止めた。幼い私にも分かる、いや幼いからこそ鋭く突き刺さる衝撃的な言葉だった。

 

「そうしよう。……生活の保護と治療への感謝。そして、今までお世話になったと。別れとは、悲しみの同意語だけど」

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