「わ、かれ……? どこにも、行かないよね? ここに、私といるよね。だってこんなに、そっくりなんだよ」
私の声はかすれていた。頬が熱くなり、胸の奥からせり上がる不安が喉を締めつけていた。嵐の唸り声が家を震わせる中、赤い瞳がこちらを真っ直ぐに見つめ返す。その瞳は確かに私と同じ色で、同じ形だった。だからこそ、離れてしまうなんてありえないと思った。
「……セオリア。理解しないし、納得しないと思うけど……いうよ。私はね、ハピナじゃないんだ。ううん、それはさすがに悲しいか。名前も気に入ってる。あなたの事も大好き。でも……私はね、この国の王女なの。レーマっていうんだ。教科書にも書いてあったでしょ、ル・マリネの王族」
その声は幼い響きを残しながらも、不思議な落ち着きと威厳が混ざっていた。言葉が一つ一つ丁寧で、聞いたことのない大人びた調子だった。嵐の中でも揺らがない声音に、私は返事を失いかけた。
けれど、離島育ちの私は新聞も読まないし、王族の顔を知ることもなかった。遭難の話題が世間を騒がせていたとしても、ここには届かない。だから目の前の少女とその名前を結びつけることができなかった。
「おもしろくないなー。ハピナだよ。幸福を運ぶ」
私はつい、唇をとがらせて言い返した。胸の奥から込み上げてきたのは怒りに近い感情だった。嘘をつかれたような、見捨てられたような、そんなやり場のない悔しさだった。
「……そうね。だから、国民にも知らせないと。まずは母様にだね」
彼女は静かに立ち上がり、扉に歩み寄った。手をかけて押し開くと、嵐の風が轟音とともに流れ込み、カーテンが大きくはためいた。壁に掛けた布が落ち、机の上の器が震えて音を立てた。
その小さな背中が風に押されて揺れるのを見た瞬間、心臓が凍りついた。このまま行ってしまえば、二度と戻らない気がしてならなかった。嵐の向こうに消えてしまう彼女の姿を想像しただけで、胸が苦しくなった。
だから、気づいた時にはもう彼女の手を握っていた。小さな手のひらをぎゅっと掴み、爪が食い込むほどに力を込めた。
……そうだ、ここが分岐点だった。
変えられるとしたら、ここで彼女を見送りたかった。けれど私はそうできなかった。後になって何度も後悔した。何度も考えて、ようやくたどり着いたのは一つの答えがあった。
もっと彼女の気持ちを汲んであげればよかった。そう思う反面、それを理解するには私はあまりにも幼すぎた。彼女と過ごした日々は、私にとってかけがえのないものだった。失いたくない、大切な宝物だった。
もし神にそういう力があるのならば、あの出来事は最初から定められた残酷な運命だったのかもしれない。
「やだ、いかないで! ここにいて! 私が、ずっと側にいる!」
涙が視界を滲ませ、声が嗚咽に途切れそうになりながらも、必死に叫んだ。私は全力で彼女の手を引いた。その手の温もりが、嵐の冷気の中で唯一の支えだった。
「やだ、いかないで! ここにいて! 私が、ずっと側にいる!」
必死の声を張り上げる私に、彼女は静かに首を振った。
「セオリア、違うの。私は……ここで立ち止まってはいけないんだよ」
「わかんない! そんなの! ここにいればいいの! 母さんだって、ずっと一緒に暮らしていいって言うよ!」
私の言葉は子供の駄々のように繰り返しになっていった。どれだけ彼女が真剣に言っても、心に届く前に「嫌だ」という気持ちが先に出てしまう。
「セオリア……お願いだから、わかって」
「いやだ! 絶対いやだ!」
言い返すうちに、彼女の顔にも苛立ちが滲んでいった。普段はおっとりしていたハピナ──いやレーマが、唇を噛み、眉を寄せる。
「子供みたいにわがままを言わないで! これは……私がしなくちゃならないことなの!」
「子供だからいいんだよ! 子供だから、絶対離れちゃだめなんだ!」
互いに譲らず、言葉がぶつかり合った。嵐の轟音が家を揺らし、窓の外で木々がしなって倒れそうになっている。そんな中でも、私たちの声は重なって響いた。
ついに彼女は私の手を振りほどいた。力強さは、もう病人のものではなかった。
「ごめんね、セオリア……!」
怒りと焦りと決意を混ぜた瞳でそう告げ、彼女は嵐の中へ飛び出していった。
扉が開いた瞬間、荒れ狂う風と潮の匂いが容赦なく吹き込んだ。私の髪は乱され、呼吸すらままならない。外では波が岸を叩き、白い飛沫が夜空にまで舞い上がっていた。
彼女は迷いなく港の方へ走った。あの先には王都へ繋がる航路がある。王国に帰還して、自分の存在を伝えるつもりなのだろう。
私はただ追いかけることしかできなかった。けれど、足がもつれて砂浜に倒れ込んだ。膝に痛みが走り、砂に手をついて必死に顔を上げる。
その時、彼女は一瞬だけ振り返った。私が転んでいるのを見て、瞳に揺らぎが浮かぶ。だがすぐに苦しい表情を浮かべ、顔を背けて波打ち際へ駆け込んだ。
そして──彼女は荒れ狂う海へ身を投じた。
水飛沫を大きく上げたあと、体が光に包まれる。脚は尾びれに変わり、背に透き通るような鰭が生える。遊泳形態だ。彼女は嵐を切り裂くように、一気に加速して沖へと進んでいった。
「ま、待って!」
私は必死に立ち上がり、波に足を踏み入れた。けれど、容赦なく打ち寄せる波に押され、砂ごと足をさらわれる。冷たい海水が腰まで迫り、体を強く揺らした。
風が耳を裂き、波が胸を押し戻す。前に出ようとしても、足がすくんで動けなかった。
その間にも彼女の背は小さくなっていく。嵐の海をものともせず、必死に港を目指して。
私はただその光を見失わないように、震えながら立ち尽くすしかなかった。