祝・追放100回記念 9巻   作:高見南純平

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第444話  

「ハピナ! 戻って来てよ! ハピナ────ー!」

 声が砂浜に吸い込まれ、荒れ狂う波と風の轟音にすぐにかき消される。喉が張り裂けそうなほど叫んでも、返事はない。必死に手を伸ばしても、海の向こうにはもう彼女の小さな姿しか見えなかった。

 

 私は砂に膝をつき、立ち上がろうと足を掻くたびに砂に取られて転ぶ。冷たい砂が肌に張り付き、潮風が頬を叩きつける。夜空は黒雲に覆われ、光のない闇が一面に広がっていた。白波が砕ける音が耳を突き刺し、胸の奥はぎゅうっと締め付けられる。呼吸は浅く、手先や足先が冷たくしびれていく。心臓は胸を突き破ろうと暴れ、視界の端がにじんで揺れた。

 

 その時、背後から声がした。

「セオリア、そんなに砂だらけになって……怪我するよ」

 

 振り返ると、そこに母が立っていた。乱れた風に髪が大きく揺れ、濡れた衣服が体に張り付いている。それでもその瞳の奥には揺るぎない強さが宿り、嵐に呑まれそうな闇の中でひときわ明るく光を放っているように見えた。嵐の砂浜で、ただ一人、確かな存在としてそこに立っていた。

 

「……ハピナは、なんで海に……?」

 母の問いは風にかき消されそうになりながらも、私の耳に届いた。

 

「き、記憶が戻ったって。で、かえんなきゃって……」

 声を絞り出した瞬間、胸の奥がざわついた。恐怖と焦燥が入り混じり、息が詰まる。掴んだ砂が指の間からこぼれ落ちる。心の中で「嫌だ」という言葉が何度も何度も反響した。

 

 母は小さく息を吐き、私の肩にそっと手を置いた。嵐に吹き荒れる砂浜で、その手の温もりは驚くほど確かだった。冷え切った体の芯にまで伝わり、私を地面につなぎとめた。

 

「セオリア、あなたはここにいて」

 

「だ、だめ……私も行く! 一緒に助ける!」

 

 私は立ち上がろうと必死に足を動かし、海へ向かって手を伸ばした。荒れる風が体を押し返しても、砂に足を取られても、それでも前へ出ようとした。

 

 だが母は、私の肩を押し留めるように優しく力を込めた。その声は不思議と嵐の中でも澄んで聞こえた。

「セオリア、あなたがここにいないと……私、安心できないよ」

 

 胸が強く震え、喉がつまる。私は涙を浮かべながら、震える声で問いかけた。

「……連れ戻してくれる?」

 

 母はうなずき、嵐に揺れる髪を払うように首を振り、静かに、そして力強く言った。

「ええ。あの子をちゃんと抱きしめて、戻ってくるから。だから、セオリア……あなたはここで待っていて」

 

 その言葉を聞いた瞬間、膝から力が抜けた。私は砂に座り込み、冷たい砂と潮風に全身をさらしたまま、母の背を見上げる。目の前の海は怒り狂ったように波を叩きつけ、白い飛沫が夜闇を裂いて舞い上がった。潮の強烈な匂いが鼻を刺し、胸の奥まで入り込む。

 

 母は波へと踏み込み、白い飛沫を切り裂きながら進んでいく。その背中は、嵐の砂浜にただひとつ立つ灯火のように見えた。だが同時に、遠く、儚く、指の先から滑り落ちていく光のようにも感じられた。

 

 風と波に押され、手を伸ばしても届かない。私は砂に足を取られ、立ち上がることもできず、ただ必死にその背を追い続けた。耳には砕け散る波の轟音と、唸る風の音だけが鳴り響き、心臓の鼓動すらかき消されていった。

 

 母の姿が海の闇に沈んでいく瞬間、胸の奥に冷たい虚無が広がった。砂に指を食い込ませ、必死にその残像を追う。だが目の前にあるのは、荒れ狂う白波と闇だけだった。

 

 そして、そんな淡い希望はすぐに打ち砕かれることになる。

 

 大人の人魚である母のほうが、当然泳ぎの能力は高かった。だからすでに海へ飛び出していたハピナに、母はあっという間に追いつきそうになった。波を蹴り、潮を裂くように進む母の背中を見て、私は胸の奥で少しだけ安心した。風は強いけれど、人魚である二人ならばきっと問題ない。そう、思えたのだ。

 

 だけど、その安心は長くは続かなかった。海の深い青の中で、水面が不自然に膨れ上がる。突然、港の方から、信じられないほど巨大な存在が姿を現した。

 

「ジュロオオオオオオオオオ!!」 空気を震わせるその咆哮が、海と風と闇に混ざり、私の胸を突き抜けた。

 

 目に飛び込んできたのは、沈船シーサーペント、その名を知っていたわけではない。ただ、目の前に現れた巨大な大蛇は、気色の悪い白と青の鱗に覆われ、爬虫類的で、不気味さが全身から滲み出ていた。口からはみ出た牙が、暗い海面に影を落とす。渦巻きが海に生まれ、二人はあっという間にその中心へ引き込まれ、姿が見えなくなった。表情も、声も、私には届かない。想像するしかない。

 

 胸の奥で恐怖が炸裂した。二人はどれだけ怖かっただろう。私なんかの不安とは比べものにならないほど、海の暗闇の中で、何が襲ってくるかわからず、絶望に押し潰されただろう。そのけたたましい咆哮だけが、空気を裂き、耳に焼きつく。

 

 そして静寂。渦巻きが海に沈むと、二人の声はもう聞こえなかった。私は砂浜に座り込み、冷たい風に体を押さえつけられながら、ただ泣きじゃくった。

「……かえ、って、きてよ……」

 

 水面が再び膨れ上がった。だがそこから現れたのは、赤く染まった口を持つ大蛇そのものだった。私の叫びが、波と風に飲み込まれる。

「……っあ、やぁああああああああ!」

 

 その瞬間、私は悟った。母も、ハピナも、もう二度と私の元には帰らない。残されたのは、あの娘に似せた自分だけ。果樹園に一人、孤独に残された。

 

 時間は無情に流れ、私は一人で大人になった。幾度となく自分を責め、鏡を見るたび、あの恐怖と喪失が鮮明に呼び起こされる。あの日の海、嵐、あの化け物、そして、大切な二人が同時に失われた瞬間。髪は、あの娘がいなくなってしまうようで、切ることもできなかった。人と接するときは、母が使っていた帽子で自分を覆い隠した。

 

 私は、ハピナを、レーマ王女を、自分の中に留め続けた。隠そうとした。だが、あの子になれるはずもなかった。大蛇の影を思い出すたび、恐怖と喪失が鮮明に胸を締めつける。

 

 あの日、すべてを失った瞬間の痛みは、今も心の奥でくすぶり続けていた。

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