王城の謁見の間。
天井高く掲げられた蒼紋の旗が、外から流れ込む潮風にわずかに揺れ動いている。磨き上げられた大理石の床は冷たく光を返し、広間の両脇に並ぶ巨大な窓には、精緻なステンド硝子がはめ込まれていた。そこには歴代王族の姿が描かれている。槍を掲げる王、幼子を抱く女王、誇り高き姫君たち。外光を受けた彩りは、広間に淡い青や赤を落とし、肖像画が光そのものとなって王族を見守っているかのようであった。
蒼濤派閥アスビアヘルムを退けたその日、兵士たちはなお救助や復旧に追われていた。だがこの広間には、別の重荷が横たわっていた。
玉座に坐す王ボセニア。その傍らに控える若きレガヴァ王子。
そして玉座に謁見するのは、片膝をつき深く頭を垂れる人魚の女性セオリア。その後ろに、支えとなるよう静かに立つララクとゼマ。
広間は広い。だが人影の少なさと、窓から差し込む色彩が荘厳さを増幅させていた。青の光は玉座を照らし、赤の影は謁見する者の肩を焼くように落ちる。重苦しい静寂の中、セオリアの唇が震えながら開かれる。
「……私は、王女をお守りできませんでした……。いかなる処罰も受けます……」
その声はかすれ、しかし一語一語が重く大理石に響いた。
彼女はすでに全てを語っていた。幼き日の記憶。嵐の夜に起きた惨事。レーマ王女が海に消えた瞬間。
その残酷な真実を、王と王子の前に告げ終えたのである。
ステンド硝子の青と赤が揺れる中、沈痛な沈黙が流れた。
王族の面差しは深海に潜るように陰り、光を失っていた。
目の前の娘は王女によく似ている。だが本人ではない。その事実が否応なく胸を裂く。しかも彼女の口から伝えられた内容は、疑う余地のない鮮烈さを持ち、同時に酷薄な現実を突き付けていた。
「……どうして……どうして姉上は嵐の中を……!」
堪え切れず声を上げたのは、レガヴァ王子であった。
声には怒りよりも困惑が強く滲んでいる。
嵐の恐ろしさを誰よりも知っていたのは、他ならぬ姉のはず。遭難の記憶も、王家の責務も理解していた。それなのに、なぜ自ら嵐の海に飛び込んだのか。
王子の胸に渦巻く疑念は、愛ゆえに膨れ上がっていた。
沈黙を破り、セオリアが恐る恐る顔を上げる。
「……私はあの時から、海が不得意になりました。足がすくんで……人魚なのに、波に抗えなかった。でも、王女は違いました。彼女は波風に負けない強い意志を持っていたんです。そしてその体で……」
言葉はそこで途切れた。喉が詰まり、吐息が震え、声はそれ以上続かなかった。
静寂を割るように、玉座から低く響く声が広がる。
「……そうか。レーマは、この国に一刻も早く戻ろうとしたのだな。私どもに会いに……いや、この国そのものに、か」
ボセニア王の声音は深く、威厳と悲嘆を共に孕んでいた。
「幼き折から、あの子は常に品位を保とうと己を磨いていた。ふっ……レガヴァが生まれてからは、その覚悟はさらに確立されていたのだ」
王の瞳には、沈痛の奥に誇りの光がかすかに宿っていた。悲しみを抱えながらも、娘が最後まで王家と国を愛し抜いたと受け取れたことで、わずかな救いが差し込んでいたのだ。
ステンド硝子に描かれた歴代の王族たちが、その言葉を肯うように広間を彩っていた。
その言葉に、レガヴァ王子の瞳から大粒の涙が溢れ落ちた。
「姉上は聡明な方だった。そうだ……覚悟は、とうの昔にしていたんだ……。ほんの、ほんの一瞬でも、姉君が生きていた姿をまた見れた……それが、残酷な事実の証明だったとしても……」
震える声を整え、王子は膝を折り、片膝をつくセオリアを真っ直ぐに見据えた。
「セオリアさん。姉君と、共に過ごしてくれたこと……まことに感謝する」
その声音には涙の震えが混じりながらも、確かな誠意が込められていた。
王子は確かに見たのだ。セオリアの中に、亡きレーマ王女の面影を、姉が確かにそこに生きていた瞬間を。
「……私はなにも……」
セオリアの声はかすれていた。胸の奥に積もった罪の重さが、言葉を小さく押しつぶす。
そのとき、彼女の傍らに立つララクが、静かに息を吐き出し、言葉を重ねる。
「そうでしょうか。……王女様はようやく帰ってこれたんじゃないですか?
この場所に。家族の元に。あなたの、前に」
視線が、セオリアの横から逸れていく。ララクは玉座の方を見ていた。自然に導かれるように、セオリアもまた俯いていた顔を上げる。
セオリアはその光の揺らめきに目を奪われた。
ふと気づけば、光の層の向こうにひとりの姿が浮かんでいた。
桃色の髪を持ち、柔らかく光を受けながらふたつに結われている。水に濡れた貝殻のように淡く煌めくその髪は、揺らめく光の層にとけこむようにきらめいていた。瞳はあわい赤。深海の奥に秘められた焔のようにやさしく、しかし確かな意志を宿している。
少しふっくらとした頬は幼さを残し、その温もりと親しみを伝えてくる。母のようでもあり、姉のようでもあり、幼き日々に求めてやまなかった存在の姿がそこにあった。
ハピナであり、同時にレーマ王女でもあった。
その姿は、ずっと心の奥底で呼び続けてきた面影と重なっていく。
セオリアは息を呑んだ。胸が強く震え、目を逸らそうとしても逸らせなかった。懐かしさと痛みが同時に押し寄せ、心が揺さぶられる。けれどもその姿は、恐怖や拒絶を超えて彼女の視線を引き寄せ続ける。
そして自然と彼女に声をかけていた。ずっと抱いていた後悔を。彼女の行く末を。
「……あの時、私は行ってらっしゃいを言えなかった。
ねぇハピナ。ただいまは、言えた?」
柔らかな声が、光の波間から響いた。
その瞬間、彼女は微笑んだ。深い海を覆う雲が裂け、陽の光が射し込むような笑み。そのぬくもりが、セオリアの暗く沈んでいた胸の奥をあたたかく解き放ち、押し込めていた痛みを溶かしていく。
やがて、その姿は静かに色彩の海へと溶けていった。
揺らめく光に包まれ、波が静かに引くように輪郭を薄れさせ、最後には幻のように消えてしまう。残響のように、その笑みだけが心に刻まれた。
残されたのは、ステンド硝子に刻まれていたひとりの少女の絵。
そこには幼い日の彼女の姿が、変わらぬ笑顔で時を止めていた。透きとおる光を背に、無垢な面影が永遠の中に封じられている。
セオリアは両膝をつき、全身から力が抜けていくのを感じた。
張り詰めていた何かがほどけ、胸の奥から押し流されていくようだった。頬を伝う涙は確かにあったが、それは悲嘆の涙ではなく、長い鎖から解き放たれるような静かな涙だった。
色硝子の光は柔らかく揺れ、セオリアを包み込むように、静かに抱きしめ続けていた。