正義とはどこにあるのだろうか?   作:アサシン・零

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第1話「灰の記憶」

冷たい汗が額を伝う。アリ・ヤシンは目を覚ました。暗い部屋に響くのは、自分の荒い息遣いだけだ。目の前に、父の顔が浮かんでいた。クルディスタンの山間の村、爆音と血、父の叫び声。「アリ、走れ!」――6歳のあの夜、父は瓦礫の下で息絶えた。トルコ軍の空爆だった。記憶はいつも同じ場面で途切れる。父の目が、炎に焼かれる前にアリを見つめた瞬間。

 

アリはベッドから起き上がり、額を拭った。狭いアパートの窓から、川口市の雑多な街並みが覗く。2025年、日本のこの街は、クルド人難民の集まる場所だった。だが、ここは故郷ではない。平和を求めて母と妹のサラとともに逃れてきたはずの日本は、アリに冷たい視線と不条理な壁を突きつけるだけだった。

 

時計は朝6:30を指していた。アリはキッチンへ向かい、母が用意した簡素な朝食――ピタパンとハーブのスープを口にする。サラはまだ寝ている。母は疲れた目でアリを見送る。「気をつけてな、アリ」と、クルド語で呟く。アリは頷き、言葉を返さない。仮放免の身分では、正規の仕事に就けない。企業は「外国人」を雇わず、ビザの不安定さがアリを縛る。今日も、工事現場での肉体労働が待っている。

 

京浜東北線に揺られ、京葉線に乗り換える。電車の中、吊り革を握るアリの横で、スーツ姿の日本人たちがスマートフォンを眺める。彼らの視線はアリを避ける。クルド人の特徴――浅黒い肌、濃い眉、がっしりした体格――が、まるで罪のように感じられる。アリは窓の外を見つめた。川口から東京へ向かう高架線の下、コンクリートの街が広がる。日本は平和だ。だが、アリにとっての平和は、父の死と引き換えに失われたものだ。

 

工事現場に着くと、汗と埃の匂いが鼻をつく。川口市郊外の工場地帯、新たな物流倉庫の建設現場だ。ここでは、クルド人、ベトナム人、ドイツ人――日本社会の底辺に追いやられた者たちが働いている。クルド人の同僚、アフメドがアリに笑いかける。「お前、昨日も遅くまで働いてたろ? 死ぬぞ」アリは苦笑いで返す。「死ぬなら、意味のある死に方をしたい」その言葉に、アフメドの笑顔が凍る。冗談ではなかった。

 

12時、昼休憩。ベトナム人のトランが持参したフォーを分け合い、ドイツ人のハンスがビールを隠れて飲む。クルド人たちはクルド語で語り合い、日本の労働環境を呪う。「仮放免じゃ、まともな給料もねえ」「日本人は俺たちをゴミ扱いだ」アリは黙って聞く。彼らの怒りは、アリの胸に燻る炎と共鳴する。昼食後、コンクリートを運び、鉄骨を組み上げる。汗と埃がアリの肌にまとわりつくが、彼の目は遠くを見ていた。クルディスタンの山、父の笑顔、そして炎。

 

夜7時、現場を後にする。京葉線と京浜東北線を乗り継ぎ、川口市のアパートへ戻る。アリはいつもなら母とサラの待つ部屋で静かに夜を過ごす。だが、この夜は違った。理由もなく、足が外へ向かう。川口の裏通り、ネオンと雑音が混じる夜の街を歩く。アリは自分の衝動を理解できない。ただ、胸の奥で何かが疼いていた。

 

路地裏で、男の声が聞こえた。「おい、嬢ちゃん、遊ぼうぜ」アリは足を止める。暗い路地の先に、若い日本人女性が三人組の男に囲まれていた。彼女は怯え、鞄を握りしめている。男たちは笑い、彼女に迫る。アリの血が騒いだ。父の叫び声が耳に蘇る。「走れ!」――だが、今のアリは逃げない。

 

「おい、やめろ」アリはクルド語訛りの日本語で叫んだ。男たちが振り返る。体格のいいアリを見て、一瞬怯むが、すぐに嘲笑う。「なんだよ、ガイジンかよ」「クルド人だろ? 帰れよ」アリは拳を握る。次の瞬間、男の一人がナイフを抜いた。だが、アリは速かった。工事現場で鍛えた腕で男の手を叩き落とし、ナイフを奪う。残りの二人に体当たりし、地面に叩きつける。「二度と近づくな」と、アリは低く唸る。男たちは這うように逃げ去った。

 

女性が震える声で言う。「あ、ありがとう……」彼女は高校生くらい、制服のスカートが少し汚れている。アリはカタコトの日本語で答える。「ダイジョウブデスカ?」彼女は頷き、名前を名乗った。「美咲……本当に助かった。あなた、名前は?」アリは一瞬迷い、答える。「アリ。クルド人」美咲は驚いた顔をするが、すぐに微笑む。「アリさん、ありがとう。また会えたらいいな」彼女は去り、アリは彼女の背中を見送った。胸の疼きが、わずかに和らいだ気がした。

 

だが、その夜の出会いはまだ終わらない。美咲を助けた路地の近く、別の男がアリに近づいてきた。浅黒い肌、鋭い目――クルド人だ。「お前、アリ・ヤシンだろ?」男はクルド語で話す。「俺はマヒルジャン。トルコのディヤルバクル出身だ」アリは警戒しながら頷く。「どうして俺を知ってる?」マヒルジャンは笑う。「川口のクルド人の間で、お前の噂は有名だ。父親を内戦で失った奴。俺もだ」彼の目は、炎のような光を帯びていた。「日本は俺たちを犬扱いする。だが、俺たちはクルド人だ。新しいクルディスタンを、ここで築ける」

 

アリは息を呑む。マヒルジャンの言葉は、アリの胸の炎に油を注ぐようだった。「クルディスタン……ここで?」マヒルジャンは頷く。「日本は平和だ。だが、俺たちには平和がない。なら、俺たちで作るんだ。力で」アリは言葉を失う。父の死、川口の冷たい視線、仮放免の不条理――すべてが頭を駆け巡る。「考えさせてくれ」とだけ言い、アリはマヒルジャンと別れた。

 

カフェのテレビがニュースを流す。「川口市で外国人による騒動が頻発。地元住民の不安が高まる中、保守派の田中一郎議員が『外国人追放法案』を提案……」アリはテレビを睨む。田中一郎。日本第一党。クルド人を「脅威」と呼ぶ男。胸の炎が、さらに燃え上がる。

 

アリはコーヒーを飲み干し、カフェを出る。夜の川口は、静かで冷たい。だが、アリの心は熱く、ざわめいていた。マヒルジャンの言葉が、頭から離れない。「新しいクルディスタン」。それは、父が死に、母が涙し、サラが怯える世界を変える夢だった。だが、その夢は血と炎でしか生まれないのだろうか?アリはアパートへの道を歩く。川口の川が、街の灯りを映して黒く光る。その水面に、父の顔が浮かぶ気がした。

 

 

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