アリ・ヤシンは書店の棚の前で立ち尽くしていた。2025年の川口市、雑多な商店街の小さな書店。埃っぽい空気の中、アリの視線は一冊の本に釘付けだった。『C++プログラミング入門』。表紙は無機質で、厚さはアリの拳ほどもある。日本円で2300円。高価だ。仮放免の身で、工事現場のわずかな賃金しか得られないアリにとって、2300円は一日の食費を削る覚悟が必要だった。それでも、アリは本を手に取った。プログラミングは、父が夢見た「新しい未来」を築く鍵だと信じていた。クルディスタンの山で、父は言った。「知識は武器だ、アリ。どんな爆弾よりも強い」
レジで金を払い、アリは本を鞄に詰める。外は曇り空、川口の街はいつもより静かだった。休日の朝、工事現場の喧騒から解放されたアリは、昨日訪れたカフェに向かった。ネオンの看板が薄暗い店内を照らす、クルド人街の片隅にある小さな店だ。アリはカウンターの隅に座り、コーヒーを注文。店員の若い日本人女性は無愛想にカップを置く。アリは気にせず、本を開いた。C++のコードが並ぶページに目を落とす。変数、ループ、関数――まるで別の言語、別の世界。勉強に熱中するアリは、時間を忘れた。
「おい、若者! いつまで居座るんだ!」突然、太い声が響く。アリは顔を上げる。カウンターの奥から、がっしりした体格の男が現れた。50代、浅黒い肌、濃い眉――クルド人の顔だ。アリは驚き、クルド語で呟く。「あなた、クルド人?」男は目を丸くし、笑顔を浮かべる。「お前もか! ハハ、こんなところで同胞に会えるとはな!」男は店長のアブドゥル、川口で10年カフェを営むクルド人だった。「トルコのマルディン出身だ。お前は?」「ディヤルバクル……アリ・ヤシンです」アリは答える。互いにクルド語で話す喜びが、アリの胸を温めた。だが、アブドゥルの目はすぐに曇る。「仮放免か? 辛えよな、日本は」
アブドゥルはコーヒーをお代わりしてくれた。「俺も昔は仮放免だった。10年かかったが、永住権を取ったよ。だが、クルド人であることは変わらん。この国は俺たちを客扱いするだけだ」アリは頷く。工事現場での差別、電車での視線、仮放免の不条理――日本は平和だが、クルド人にとっての「家」ではない。アブドゥルは続ける。「お前、勉強熱心だな。何を夢見てんだ?」「新しい未来……クルディスタンの未来」と、アリは呟く。アブドゥルは黙り、遠くを見る。「クルディスタンか……気をつけろ、若者。夢は炎になる」
カフェの隅で、別の男がアリを見ていた。50代、クルド人の特徴を持つが、スーツを着て落ち着いた雰囲気だ。男は近づき、クルド語で話しかける。「アリ・ヤシンだな。俺はカディール。永住権を持つクルド人だ」アリは警戒するが、カディールは穏やかに笑う。「お前の噂を聞いた。ディヤルバクルで父親を失った若者。俺もだ。だが、日本で戦うなら、頭を使え。力だけじゃクルディスタンは生まれん」アリは眉をひそめる。「戦う? 俺はただ……」カディールは遮る。「昨日、マヒルジャンと会ったろ? あいつは危険だ。だが、お前には何かがある。考えろ、アリ。何をしたい?」
アリは言葉に詰まる。マヒルジャンの言葉――「新しいクルディスタン」「力で」――が頭をよぎる。カディールは名刺を渡し、去る。「いつでも連絡しろ。俺たちは同胞だ」アリは名刺を握りしめる。胸の炎が、ざわめき始める。
一方、神奈川県川崎市の繁華街。美咲の家は、商店街の角にある小さな雑貨店だった。看板には「佐藤商店」とあり、かつては近隣の住民で賑わった。だが、バブル崩壊と新型コロナウイルスのパンデミックが、店を衰退させた。56歳の父、泰造はカウンターで帳簿を睨む。売上は減り、借金が膨らむ。「美咲、大学なんて行かなくていい。店を手伝え」と、泰造は苛立つ。美咲は黙って頷くが、心は重い。彼女もまた、閉塞感に苛まれていた。川崎の街は、かつての活気を失い、外国人労働者と地元住民の軋轢が目立つ。クルド人、ベトナム人、中国人――彼らの存在は、泰造にとって「迷惑」だった。
美咲は部屋に戻り、昨夜のことを思い出す。アリ・ヤシン。クルド人の少年。路地裏で彼女を助けてくれた、がっしりした体格の少年。カタコトの日本語で「ダイジョウブデスカ」と笑った顔。美咲は微笑む。あの瞬間、アリはただの「外国人」ではなく、人だった。だが、テレビをつけると、ニュースが流れる。「川口市でクルド人による暴動が頻発。地元住民の不安が高まる中、保守派の田中一郎議員が『外国人追放』を主張……」美咲の胸が締め付けられる。アリはそんな人じゃない。だが、両親に話せば、「クルド人と関わるな」と怒られるだろう。彼女は黙ってテレビを消した。
泰造が部屋に入ってくる。「美咲、明日は店番だ。外国人客には気をつけろよ。特にクルド人。あいつらはトラブルメーカーだ」美咲は反発したい衝動を抑える。「……うん、分かった」彼女は窓の外を見る。川崎のネオンが、冷たく光る。美咲の心に、アリの顔が浮かぶ。彼はどこで、何を思っているのだろう?
川口市、カフェ。アリはC++の本を閉じる。頭の中は、マヒルジャン、カディール、アブドゥルの言葉で渦巻いている。「新しいクルディスタン」「力で」「頭を使え」。父の顔が、炎の中で笑う。ニュースが流れる。「川口市で、クルド人コミュニティと地元住民の衝突が再び発生。田中一郎議員は、外国人労働者の規制強化を……」アリは拳を握る。田中一郎。日本第一党。クルド人を「脅威」と呼ぶ男。胸の炎が、抑えきれなくなる。
カフェを出る。アリは川口の川辺へ向かう。黒い水面が、街の灯りを映す。父の声が聞こえる。「知識は武器だ、アリ」だが、マヒルジャンの声も響く。「力で、クルディスタンを築くんだ」アリはカディールの名刺を見つめる。永住権を持つクルド人。彼は戦いを否定したが、目は炎を宿していた。アリは呟く。「クルディスタン……ここで、俺たちの国を」川の向こう、川口の街が静かに燃える幻を見る。戦争の種が、アリの心に根を張り始めた。