2025年8月17日、夕暮れ。川口市のアパートで、アリ・ヤシンはノートパソコンの前に座る。アブドゥルからもらった中古のPCは、C++のコードを打ち込むための新たな武器だ。『C++プログラミング入門』を片手に、画面に映る「Hello, World!」の文字を見つめる。工事現場の埃と汗にまみれた一日を終え、この時間だけがアリの世界を広げる。インターネットは、クルディスタンの山を越え、父の死を超える可能性を秘めていた。
アリはネットニュースを漁る。『川口新報』のページが目に入る。「川口市でクルド人コミュニティが急増。地元住民との軋轢が問題に」。記事の下に、コミュニティの情報が載っている。運営者は「マヒルジャン・オザン」。アリは息を呑む。あの夜、路地裏で出会った男。クルド人の誇りと「新しいクルディスタン」を語った、炎のような目をした青年。アリの手が震える。記事には、川口駅前の雑居ビル4階で毎週開催される集会の詳細がある。今日、夜まで運営されている。
アリは母とサラに告げる。「コミュニティに行ってくる。クルド人の集まりだ」母は不安げに言う。「マヒルジャンだろ? あいつは危険だ。アリ、戻ってきなさい」だが、アリは首を振る。「俺たちの居場所を見つけるんだ。父さんのために」サラが小さな声で呟く。「お兄ちゃん、気をつけて……」アリは鞄にPCを詰め、川口駅へ向かう。
川口駅前の雑居ビルは、ネオンと雑音に囲まれた6階建ての古い建物だ。エレベーターは軋み、4階の扉を開けると、ざわめきが聞こえる。部屋には20~30人のクルド人、男女が集まっていた。壁にはクルディスタンの旗、テーブルにはクルドの伝統的なお茶や菓子。マヒルジャンが壇上に立つ。「同胞よ! ようこそ!」彼の声は、部屋を一瞬で静める。アリは後ろに立ち、様子を窺う。マヒルジャンの目は、炎のように燃えている。
「日本は俺たちを犬扱いする。仮放免、差別、低賃金――俺たちの誇りを踏みにじる!」マヒルジャンの言葉に、拍手と叫び声が上がる。「トルコの政権も同じだ。クルド人を殺し、俺たちの故郷を奪った。日本もトルコも、俺たちを抑圧する敵だ!」アリは胸が熱くなる。父の死、川口の冷たい視線、工事現場の監督の侮辱――すべてがマヒルジャンの言葉と共鳴する。だが、心のどこかで、カディールの声が響く。「頭を使え」
集会の参加者が次々と不満を吐き出す。「日本人は俺たちを犯罪者扱いだ!」「仮放免で仕事も自由に選べない!」「トルコに帰れば死が待ってる!」アリは黙って聞く。すると、柑橘系の香水の匂いが漂う。隣に、17歳ほどのクルド人女性が立つ。ロングヘア、鋭い目。「アリ・ヤシンだろ? 私、レイラ。マヒルジャンから聞いたよ。ディヤルバクルで父親を失ったって」アリは頷く。「お前もか?」「ああ。トルコ軍の爆撃で、兄を失った」レイラの声は静かだが、怒りを帯びている。「マヒルジャンは言う。新しいクルディスタンを、ここで築くって。私も信じてる」
アリは情報を整理する。コミュニティは、クルド人の不満を結集する場だ。マヒルジャンはリーダーとして、若者を中心に「行動」を計画している。レイラは言う。「日本は平和だ。でも、俺たちには平和がない。なら、俺たちで作るしかない」アリは頷くが、頭の中でカディールの言葉が反響する。「力だけじゃクルディスタンは生まれん」集会は1時間で終わり、参加者が散っていく。アリはマヒルジャンに近づく。「お前、行動って何だ?」マヒルジャンは笑う。「すぐに分かる。準備はできてるか、アリ?」アリは黙って頷く。胸の炎が、抑えきれなくなる。
神奈川県川崎市、翌朝。美咲は目を覚ますと、家の空気が重いことに気づく。雑貨店「佐藤商店」の一階で、母が泣いている。父・泰造がいない。「お父さんが……逮捕された」母の声は震える。テレビがニュースを流す。「川崎市で昨夜、殺人事件と詐欺事件の容疑で佐藤泰造容疑者(56歳)を逮捕。神奈川県警察によると、商店街のトラブルが背景に……」美咲は凍りつく。殺人? 詐欺? 父は借金のストレスで苛立っていたが、そんな人間ではない。美咲は警察署へ向かう。母は言う。「美咲、気をつけて……この国は、もうおかしくなってる」
警察署の面会室で、泰造は疲れ切った顔で座る。「美咲、すまない。嵌められたんだ……商店街のヤクザと揉めて、でっち上げられた」美咲は涙を堪える。「お父さん、絶対助けるから」だが、心の奥で、彼女は感じる。日本の法制度は、弱者を守らない。バブル崩壊、パンデミックの傷、外国人への偏見――川崎の繁華街は、腐った空気に満ちている。美咲は帰宅し、進路の書類を手に取る。大学進学の夢は、父の逮捕でさらに遠のいた。
部屋で、美咲はアリを思い出す。クルド人の少年。路地裏で助けてくれた、力強い眼差し。ニュースは「クルド人の暴動」を繰り返すが、美咲は知っている。アリは違う。だが、父の逮捕、商店街の衰退、日本の分断――すべてが彼女を押し潰す。彼女は窓の外を見る。川崎のネオンが、冷たく光る。「アリさん、私も戦いたいよ……でも、どうやって?」彼女の呟きは、夜に溶ける。
川口市、夜。アリはアパートに戻り、パソコンを開く。『川口新報』の記事を読み返す。マヒルジャンのコミュニティ。レイラの言葉。「新しいクルディスタン」。PCの画面には、C++のコードと並んで、クルディスタンの地図が映る。父の声が聞こえる。「知識は武器だ」マヒルジャンの声も響く。「力で、クルディスタンを築く」アリはキーボードを叩く。コードは、まるで戦争の設計図のようだ。
テレビがニュースを流す。「川崎市で殺人・詐欺事件。容疑者は地元商店主。背景に外国人との軋轢が……」アリは画面を睨む。外国人。クルド人。いつも同じだ。日本は、俺たちを敵と呼ぶ。アリの拳が震える。レイラの柑橘系の香水、マヒルジャンの炎のような目、コミュニティの叫び声――すべてが、胸の炎を大きくする。川口の川が、血のように赤く光る幻を見た。