夜は、静かだった。
昼間には絶え間なく吹き付けていた風も、今は幾分か弱まっている。ひたすらの静寂と、時折、どこかのテントの布が風に叩かれる音だけだった。
小さなランタンが一つ。その淡い橙色の光が、テントの中にいる二人を照らしていた。スバルはベッドに座って、この何もないこの部屋を眺めていた。傷はほとんど癒えていた。あれから数時間が経って、昼飯と晩飯が与えられた。ここでは、食事は全員で食べるものらしく、昼間に見たあの砂岩の山にある少し広い洞窟で、食事をした。
香辛料の効いた食糧は、スバルをはじめアリウスの生徒にとっては、食べた事のない食べものであったが、その味は美味であったと納得できる。アリウスとは大きく異なる環境。知らない場所で、知らない大人と、知らない学生たちと同じ釜の飯を食う。
食事も与えられた。
身体も随分と楽になった。
そして何より。
昼間に見た後輩たちは、本当に楽しそうに馬に乗っていた。あの後、後輩たちにこっそり言明しておいた。ここは敵陣なのだと、アリウスのことは言ってはいけないと、すでに漏らした子がいることは知っていたが、それは匂わせる程度でとどめた。しかし、すでに数人の生徒はほだされているように感じた。
アリウスでは過ごすことができない、ここまで穏やかな時間はきっと、これからも。
それでも。
スバルの中にある警戒心が消えることはなかった。むしろ、昼間にあの光景を見たからこそ、警戒しなければならないと思った。こんな扱いをする敵など、知らない。訓練で学んだノウハウという物が通用しないと、そう考えた。敵は敵らしく、こちらを憎んでくれればいい。そうであれば、こちらも憎めばいい。撃てばいい。殴ればいい。だが。
優しくされてしまえば。何を信じればいいのか、分からなくなる。
向かいの椅子に座るロレンスは、そんなスバルの様子を黙って見ていた。
「……」
「……」
しばらくの沈黙。そしてやがて、ロレンスが口を開いた。
「少しは眠れそうかね?」
「……たぶん」
「そうか」
それだけ。また沈黙。スバルは、思わず男の顔を見る。
「……質問しないんですか?」
「した方がいいかね?」
「……」
「私は別に、君から任務の内容を聞き出したくてここにいるわけではないからね」
「じゃあ、何をしに来たんですか」
「様子を見に来た」
「私の?」
「そうだ」
男は頷いた。
「君は数日前まで戦場にいた。仲間が何人も負傷し、自分自身も怪我をした。そして、帰る場所を失っているわけでもないが、少なくとも今はそこへ帰れない」
「……」
「そういう人間が、今どんな顔をしているのか」
「……それを見ている?」
「その通りだ」
スバルは少し眉を寄せた。気持ちの悪い人だ。それをして果たして楽しいのだろうか。いや、そんなことはないだろう。この男はそんなことをする人間には思えない。あの後、食事の時に少しシャハーダ学院の生徒と話をした。情報収集の一環として。でも、彼女は咲田スンナと名乗った少女は、ロレンスに対する惚気と武勇伝のようなことばかり言って、何の利用できそうな情報は得られなかった。でも、少し、この男の姿や信条のようなものは垣間見えた。
「……研究者だからですか」
「それもある」
「それも?」
「教師だから、というのもある」
その言葉に、スバルの顔が僅かに曇った。男はそれを見逃さなかった。
「昼間、君はアリウスについて話してくれたね」
「……少しだけです」
「覚えているよ」
「……」
「地獄だと言っていた」
「……はい」
「だが、アリウスしか居場所がない、とも言った」
「……」
スバルは拳を軽く握る。
「それは、今でも変わらないかね?」
「……変わりません」
その答えは、迷いなく出てきた。
ロレンスは頷いた。
「そうか」
それだけだった。スバルは少し拍子抜けした。どうせなら、何か言えばいいのにと思う。
「そんな場所は出てしまえばいい」とか。
「ここに来ればいい」とか。
「君たちにはもっといい場所がある」とか。
そういう、分かりやすい言葉を。だが、男は何も言わない。ただ、こちらを見ていた。
「……あなたは」
「うむ」
「アリウスが嫌いだと言ったことについて、何も思わないんですか」
「思うさ」
「……何を?」
「君が嫌いだと思うだけの理由があるのだろう、と思う」
スバルは黙った。
「私はアリウスを知らない」
ロレンスは、ランタンの火へ目を向ける。淡いオレンジ色の小さな火の光がロレンスを照らして、背後に大きな黒い影を生んでいる。大きな、大きな黒い影だ。
「だから、君の言葉を聞かずに、私の知識だけで判断するのは違うと思っている」
「……」
「ましてや、君にとっては、あそこが故郷なのだろう?」
「故郷……」
その言葉に、スバルは少しだけ考えるような顔をした。
「そうですね。だからこそ」
スバルの声が、少しだけ強くなる。
「帰らなくちゃいけない場所なんです」
その言葉に、ロレンスは何も答えなかった。
スバルは続ける。
「私が帰れば、あの子たちも帰れるから」
「……後輩たちか」
「はい」
「自分一人のためではないのだね」
「違います」
即答だった。
「私は先輩ですから」
その言葉だけは、妙に重かった。
「先輩が後輩を置いて、自分だけ逃げるわけにはいかないでしょう?」
「……」
「私が逃げれば、誰かが残る。誰かが残れば、その子が責任を取る」
その先は言わなかった。処分。そういえば、あの三人は無事に帰れたであろうか。アリウスに帰ってあのマダムに戦利品を渡せたであろうか。その言葉を、この男に伝える必要はない。スバルはそう思った。ロレンスも、聞き返さない。
「だから、私は帰るんです」
スバルは言った。
「どれだけ嫌でも」
「……」
「アリウスしかないんです」
その声には、諦めがあった。vanitas_vanitatum_et_omnia_vanitas「全ては虚しい。どこまで行こうとも全ては虚しいものだ」と、アリウスで唱える言葉を思い出す。
しかし、それだけではない。意志もあった。くたびれることのない、芯の通った一つの意志。自分が選んだというより、自分以外の誰かを守るために、そうするしかないという覚悟。ロレンスはその顔をしばらく見ていた。
「そうか」
再び、それだけだった。
「……また、それだけですか」
「うむ」
「何も言わない」
「言う必要がないからね」
「……」
「君は、自分が帰る理由をちゃんと持っている」
ロレンスは、少しだけ笑った。
「それを私が否定する理由などないだろう」
スバルは目を逸らした。何故か、その言葉だけは、少しだけ胸に残った。
「では」
ロレンスが口を開く。
「今度は私の話をしようか」
「……学校のこと?」
「そうだ」
男は椅子へ座り直す。ぎぃ、と木製の椅子が小さく鳴った。
「昼間も話したが、私は最初から学校を作りたかったわけではない」
「……」
「始まりは、アティク君だった。ここがもともとどんな情報だったか聞いたかね?」
スンナに話を聞いた後、他の生徒からも聞いた。ここがもともとどんな場所であったのか。アリウスとはまた違うベクトルの地獄だ。学籍も持てず、食事もまともに取れず、こんな辺境の砂漠の彼方に追いやられて、なんとか暮らしていた日々。そんなところに現れたのが子のロレンスという男だったのだという。
スバルは黙って聞く。
「あの子が、夜に星を見ながら言ったんだ」
ロレンスは少しだけ遠くを見るような目をした。
「『私たちの学校でも作れればなぁ』と」
「……」
男は小さく笑う。
「だから私は、『作ってしまえばいい』と答えた」
「……本当に?」
「ああ。本当に」
「……」
「その時の彼女の顔は、今でも覚えているよ」
ロレンスは目を細めた。
「呆れていた。そんなもの、本当に作れるわけがないという顔だった」
「それは……」
スバルも、少しだけその光景を想像した。何となく分かる気がする。夢物語だ。甘い、腑抜けた理想だ。私が同じ立ち位置だったのなら、怒りすら感じただろう。
「でも、私は思ったんだ」
ロレンスは続ける。
「彼女たちは、学校に入りたいのだろうと」
「……」
「それなら、作ればいい」
また、その言葉だった。単純で。乱暴で。それなのに。
「金が必要だった」
「……」
「人も必要だった」
「……」
「手続きも必要だった」
指を一本ずつ折るようにしていく。
「だから、金を稼いだ。人を集めた。必要な書類を作った」
そして。
「そのために、バアス旅団を作った」
「……傭兵を?」
「ああ」
スバルは、そこで初めて男を見る。
「学校を作るために、傭兵をしているんですか?」
「正確には、学校を作るための資金を集めるために、傭兵をしている」
「……同じでは?」
「似ているが、違うよ」
ロレンスは答える。
「私たちの目的は戦うことではない。学校を作ることだ」
「……」
「戦う必要がなくなったのなら、戦う理由もなくなる」
スバルは少し考えた。何も変わらない。甘ったるい男だと、傲慢な男だとそう思う。
「……あなたは、本当に学校を作りたいんですね」
「私ではない」
「え?」
「彼女たちが欲しいと言ったからだ」
ロレンスは静かに言った。
「私は、それを実現させるだけだよ」
「……」
「だから、君たちのためでもない」
その言葉は、妙に明瞭だった。
「君たちをアリウスから引き離すために学校を作ったわけではない」
「……」
「私は君たちの居場所を決めるつもりはない」
スバルは目を伏せた。それなら。少なくとも、この男は自分たちに対して何かを押し付けているわけではない。だが、だからといって信用していいわけでもない。
この男は敵だ。それは変わらない。だけれど、けれども昼間よりは、少しだけ、分からない部分が減ったような気がした。
「……先生」
「何かね?」
「あなたは……」
言葉が続かない。少し、気まずい時間が流れる。
「……何でもないです」
「そうか」
それだけ。また、沈黙が戻る。テントの外では風が吹いている。布が、ぱたぱたと音を立てる。スバルはぼんやりと、その音を聞いていた。先ほどまであれほど強かった警戒心が、消えたわけではない。むしろ、相手を知れば知るほど、油断してはいけないと思う。
優しい。しかし、優しいからこそ恐ろしい。自分たちのことを知ろうとしている。それでも、必要以上に踏み込んではこない。アリウスで学んだそれとは大きく異なる、初めて後輩以外で向き合うこれは、どうしてもなれることができない。大人の先生。シャーレの先生の話は聞くが、でもやはり別の大きく異なる人物なのだと思う。偽善者という感じでもない。善人化といえば、傭兵を行っている時点で、きっとそうとも断言はできない。
今は優しい、でもきっと。必要になれば、きっと容赦しない。そんな男だ。
「……眠いかね?」
唐突だった。
「……まだです」
「そうかね」
「……」
スバルは目を擦る。自分でも気づかなかった。確かに、少し眠い。落ち着いた空間は久しぶりだからか、油断してしまっているのだろうか。
「今日は色々とあったからね」
ロレンスはそう言って、椅子から立ち上がった。
「話はこれで終わりにしよう」
「……もう?」
「ああ」
「もっと聞かないんですか」
「何を?」
「……色々」
「今日は聞く必要がない」
男はテントの入口へ歩いていく。
「君はもう十分に疲れている」
「敵に心配される筋合いはありません」
「筋は関係ない。私が勝手にしているだけだ」
ロレンスは振り返る。
「今日は寝なさい」
スバルは黙った。眠る。この男がいる場所で。敵の拠点で。そんなこと、本当にしていいのか。
「……信用してませんよ」
「知っている」
「明日、逃げるかもしれません」
「それも知っている」
「……」
「だから、君が逃げれば止める」
外には夜警の子もいるからねと続ける。ロレンスは、平然と言った。
「君を信用していないからね」
スバルは黙った。
「だが」
男はランタンを少しだけ暗くする。
「眠っている人間まで警戒する必要はない」
「……どういう意味ですか」
「君は寝ている間くらい、君自身のことを忘れてもいいということだよ」
その言葉を最後に。
ロレンスは、テントの幕へ手を掛けた。
「おやすみ、スバル君」
「……おやすみなさい」
幕が閉じる。男の足音が遠ざかっていく。スバルは、その音をしばらく聞いていた。少しの無音の後、やがてゆっくりとベッドへ身体を倒す。アリウスはベットなんてないし、毛布もこんなものじゃない。慣れない。柔らかな布が身体を受け止めた。
天井を見る。小さなランタンの光が、テントの布にぼんやりと影を作っている。アリウスのこと。後輩たちのこと。マダムのこと。そして、今日会った、あの変な大人のこと。
考えなければならないことは、いくらでもある。
だが。
今だけは。
少しだけ。
考えることをやめてもいいのかもしれない。
そう思った。
そして、スバルは目を閉じた。
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