アビドスのロレンス   作:チチメカ

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まだみてくれている人はいるのかしら


第二一話:侵入!エデン条約

 あの夜、スバルが自らの意志で引き金から指を外し、銃を床に落として泣き崩れた日から、砂漠のキャンプには新しい種類の「日常」が根を下ろし始めていた。

 

 アリウスの生徒たちは、これまでの「捕虜」としての扱いから解放され、シャハーダ学院の「臨時学生」となった。その証として、彼女たちの黒い制服の腕には、いつも通りのアリウス校章の腕章と共に、シャハーダの校章が不格好に刺繍された腕章が巻かれていた。アリが夜なべして縫い付けたそれは、お世辞にも美しい仕上がりとは言えなかったが、スバルたちはそれを決して外そうとはしなかった。

 最初こそ、彼女たちは戸惑っていた。「これは新たな洗脳の形ではないか」「いつか再び絶望に突き落とされるための助走ではないか」と、長年マダム――ベアトリーチェに植え付けられた疑心暗鬼が、完全に消え去ることはなかった。しかし、ロレンスたちバアス旅団の面々は、そんな彼女たちの警戒など意に介さないかのように、ただ淡々と「学校生活」を押し付けた。

 

「おいそこ後輩! ボーッとしてないで、このジャガイモの皮を剥いてほしいッス!今日の昼はカレーにするんスよ、大量にいるっスよ!」

 

 ウマルが巨大な寸胴鍋をかき混ぜながら、アリウスの生徒たちにピーラーと山積みのジャガイモを押し付ける。

 

「え……あ、はい……」

 

 かつては人殺しのための銃の手入れしか知らなかった手で、彼女たちは不器用にジャガイモの皮を剥いた。隣では、シャハーダの生徒たちが「手際が悪いな」「こうやるんだよ」と笑いながら手本を見せている。アリウスの地下壕では、食事とはただ命を繋ぐための「カロリー摂取」に過ぎず、配給された乾パンを暗闇で黙々と齧るだけの時間だった。だがここでは、スパイスの刺激的な香りが鼻をくすぐり、太陽の光の下で、くだらない冗談を言い合いながら食事を作る。

 

「センセ! こいつら、意外と筋がいいぞ! 射撃の基礎ができてるから、ちょっと教えりゃすぐに連携が取れる!」

 

 アティクは臨時学生たちを巻き込んで、砂漠での模擬戦闘訓練(という名のサバイバルゲーム)に精を出していた。

 

「手加減はしねえぞ! 生き残りたけりゃ、頭を使え!」

 

 容赦なくペイント弾を撃ち込んでくるアティクに対し、アリウスの生徒たちも最初は防戦一方だったが、次第に彼女たち本来のゲリラ戦術の勘を取り戻し、地形を活かした見事な包囲網を敷くようになっていった。「くっそ、やられた!」と泥だらけになって笑うアティクを見て、アリウスの生徒たちの顔にも、微かに年相応の笑みがこぼれるようになっていた。

 

 そして、アーファは相変わらず電卓を叩きながら頭を抱えていた。

 

「……先生。臨時学生が12名も増えたことで、食費と弾薬費の消費ペースが想定の1.1倍に跳ね上がっています」

 

「構わんさ、アーファ君。子供がよく食べ、よく遊ぶのは健全な証拠だ。金なら後で、あのマダムから高く取り立てればいい」

 

「そ、それもそうですね....」

 

 アーファはその言葉を聞いてどこか嬉しそうに帳簿にペンを走らせていた。

 

 ロレンスの授業も、日課として続けられていた。

 ある日の午後、強い日差しを避けるように教室テントに集まった生徒たちを前に、ロレンスはホワイトボードに「文化と無駄」という言葉を書いた。

 

「君たちは、アリウスで『全ては虚無である』と教えられてきたそうだね。喜びも、愛も、希望も、いずれは失われる無意味なものだと。……確かに、生存競争という生物学的な観点から見れば、それらは無駄なものかもしれない」

 

 ロレンスは静かに教室内を見渡した。シャハーダの生徒たちに混じり、スバルたちアリウスの生徒も、真剣な眼差しで彼を見つめている。

 

「しかし、人間は、その『無駄』を愛する生き物だ。夕焼けの美しさに足を止め、誰かが奏でる音楽に涙を流し、美味しいものを食べて笑顔になる。それらの一瞬一瞬が、たとえいつか消えてしまうものだとしても、その瞬間に感じた心の震えだけは、誰にも奪えない『真実』となる。特に君たちのような歳の人間はね」

 

 ロレンスはチョークを置き、スバルの方を見た。

 

「絶望を知ることは、決して悪いことではない。だが、絶望だけが世界の全てだと思い込むのは、あまりにも勿体ない。世界は、君たちが思っているよりもずっと広く、複雑で、そして……美しいものに溢れている。それを自分の目で見て、自分で選ぶこと。それが、私が君たちに教えたい『人間としての生き方』だ」

 

 授業の後、夕暮れの空が砂漠を赤く染め上げる頃。

 ロレンスがいつものようにテントの裏手でアコースティックギターを爪弾いていると、スバルがそっと隣に座った。彼女の手には、あの傷だらけのハーモニカが握られている。

 

「……先生」

 

「なんだね、スバル君」

 

 ロレンスは指の動きを止めず、穏やかな声で応じた。

 

「あの夜。……もし私が、あの偽造書類の言葉を信じて、先生を撃っていたら、どうするつもりだったんですか?」

 

 スバルの声は僅かに震えていた。彼女の中には、まだ「自分は取り返しのつかないことをしようとした」という罪悪感が燻っているようだった。

 

「撃たれて死んでいただろうな。私はキヴォトスの人間ではないからね」

 

 あっけらかんと言い放つロレンスに、スバルは目を見開いた。

 

「な、なぜですか!? 避けることも、私たちを制圧することもできたはずです! あんな、命を懸けるようなこと……っ!」

 

「教育とは、選択肢を与え、自ら考えさせることだ」

 

 ロレンスはギターの弦から手を離し、夜空に瞬き始めた一番星を見上げた。

 

「大人が敷いたレールの上を歩くのは簡単だ。だが、それではいつまで経っても『自分の人生』を生きられない。君たちは、マダムという大人にすべてを決められ、考えを奪われてきた。だからこそ、私は君たちに『選択』という最大の自由を、命の重みと共に突きつける必要があった」

 

 ロレンスの横顔には、どこか遠くを懐かしむような、深い慈愛が滲んでいた。

 

「……これは、かつて私の息子に言った言葉でね」 

 

「息子さん、ですか?」

 

「ああ。あいつもまた、どこかで教師をしているはずだ。生徒を愛し、生徒のために奔走する、少しお人好しすぎる自慢の息子だよ。……あいつならきっと、私と同じように、いや、私以上に君たちを信じただろう」

 

 『シャーレの先生』の話は常に聞いていた。同じ命の危険があるという事実に息子を心配する気持ちと同時に、あの子が元気に先生としての役割を全うしているということに、少し笑顔になる。

 ロレンスはふっと微笑むと、再びギターを弾き始めた。

 

「さあ、難しい話はここまでだ。セッションの続きといこうじゃないか」

 

 促され、スバルはゆっくりとハーモニカを口元に運んだ。ギターの柔らかなアルペジオに、ハーモニカの澄んだ音色が重なる。最初はおずおずとしていた音色は、次第に力強さを増し、砂漠の夜風に乗ってどこまでも響いていった。

 それは、彼女たちが手に入れた、確かな「日常」の音だった。

 

 ――しかし、そんな穏やかな時間も、長くは続かない。

 

 エデン条約の調印式が、いよいよ明日に迫った夜。

 シャハーダ学院の作戦テントの中央には、巨大なトリニティ自治区の広域マップが広げられていた。ランタンの灯りに照らされた地図を囲み、私とアーファ、アティク、ウマル、アリ、スンナら『バアス旅団』幹部たちは、渋い顔を突き合わせていた。

 

「……やはり、正面からの接近は不可能ですね」

 

 アーファが地図上のポイントをペンで指し示しながら、ため息まじりに報告する。

 

「ち、調印式会場となる古聖堂の周辺は、トリニティの正義実現委員会が完全な封鎖線を敷いています。さらに嫌なことに、外郭部にはゲヘナ・トリニティの部隊がうろついている。テロがもし発生せずに条約機構が成立して、我々『バアス旅団』規模の非正規武装組織が近づけば、間違いなくテロリストと見なされ、も。問答無用で蜂の巣です…」

 

「かと言って、少数の潜入じゃあマダムとやらの懐には飛び込めねえ」

 

 アティクが腕を組み、忌々しげに舌打ちをした。

 

「どうすんだ、センセ。あの魔女を叩き潰すって言っても、会場に辿り着く前に全滅じゃあ笑えねえぞ。強行突破するか?」

 

「馬鹿言ってはいけない。我々の目的はあくまで、背広と決裁書類を奪い、私達を陥れようとした元凶であるベアトリーチェの野望を挫くことだ。トリニティとゲヘナの生徒たちと無用な血を流すことではない」

 

 私は地図を睨みつけた。

 マダム――ベアトリーチェの狙いは、エデン条約調印式というキヴォトス全土が注目する舞台を崩壊させることにある。スバル達、アリウス生徒からから聞いたこの一大事件の計画。彼女の「式典を潰す」という企みを阻止するには、どうしても一定以上の戦力を無傷で会場の中心へ送り込む必要があった。

 シャハーダ学院としてもこのテロは問題である。条約が施行されなければ、学院は一生正式設立ができないかもしれない。しかし、学院としてこれに介入すれば、地位がどうなるかわからない。故に、ここでは『バアス旅団』として介入する算段を立てていた。

 

「空挺降下……いや、トリニティの防空網が生きていればただの的になるだけか。ならば下水道からの接近は――」

 

 私が新たなルートを模索しようとしたその時。

 テントの入り口の布が控えめにめくられ、一人の少女が入ってきた。

 

「……地下から行くなら、もっと確実な道があります」

 

 スバルだった。

 彼女は制服の埃を払いながら、まっすぐに私の目を見た。その背後には、同じくアリウスの臨時学生たちが数名、不安げに、しかし確かな決意を持って控えている。

 

「スバル君。ここは作戦会議の場だ。臨時学生とはいえ、君たちに戦わせるつもりは――」

 

「私たちは、戦力として来たわけではありません。……案内役です」

 

 スバルはそう言うと、テーブルの上の地図に身を乗り出し、トリニティ自治区の空白地帯――古聖堂の真下あたりを指でなぞった。

 

「トリニティの古聖堂の地下には、何百年も前に作られた古いカタコンベが広がっています」

 

「カタコンベ?」

 

「はい。その迷宮は、私たちアリウスが長年かけて調査し、整備してきました。一定の周期で構造は変わってしまいますが…ある程度は案内できるはずです」

 

 スバルの言葉に、テント内が静まり返る。

 それは、アリウスが長い年月をかけて育て上げてきた「テロのための血路」だ。それを我々に明かすということは、彼女たちが完全にアリウスの呪縛から決別し、マダムの方針から背を向けることを意味していた。

 

「……いいのか、スバル。それを教えちまって」

 

 アティクが気遣うように声をかけると、スバルは静かに首を振った。

 

「これまでは、マダムの命令で、誰かを傷つけるためだけにその道を歩かされてきました。でも……」

 

 スバルは自分の胸に手を当てた。そこには、彼女の決意を支えるように、あのハーモニカが収まっている。

 

「今は、自分の意志で選びたいんです。誰かを助けるために、後輩たちのためにも、自分たちの知識を使いたい。……ロレンス先生、私たちを案内役にしてください」

 

 かつて「死を待つ獣」のように濁っていた彼女の瞳には、今やはっきりとした理性の光が宿っていた。私は小さく息を吐き、彼女の目を見据えた。

 

「敵の戦力は? マダムが本気で式典を潰すつもりなら、実働部隊もあるだろう。注意せねばならないのは?」

 

 私の問いに、スバルの表情が僅かに強張り、ゴクリと唾を飲み込んだ。

 

「……『アリウススクワッド』と呼ばれる部隊がいます。リーダーのサオリを筆頭に、圧倒的な戦闘力を持つ四人組……」

 

「……ふむ」

 

 私は地図から顔を上げ、幹部たちを見渡した。

 

「ルートは決まった。これより我々『バアス旅団』は、スバル君たちをナビゲーターとし、古聖堂地下のカタコンベを経由して調印式会場へ潜入する。目的はエデン条約のテロの防衛!そして可能であればアリウスまでの経路の確保だ!」

 

「了解! みんなに号令をかけてくる!」

 

 アティクが勢いよくテントを飛び出していく。アーファとウマルも、即座に武器と物資の最終点検へと動いた。

 

 私はスバルに向き直り、その肩にポンと手を置いた。

 

「君の勇気に感謝する。アリウスに通ずる暗い道を、君たちの手で、明日へと続く道に塗り替えてくれ」

 

「……はいっ」

 

 スバルは力強く頷いた。

 

 数時間後。夜明け前の暗闇の中、数十人の精鋭、我々バアス旅団は武装を整えた車両数台に分乗し、砂漠を出発した。

 トリニティ自治区の境界付近。表向きは放棄された下水処理施設となっているその廃墟の奥に、カタコンベへと通じる偽装された入り口が口を開けていた。

 

「ここからです。足元に気をつけてください」

 

 スバルが先頭に立ち、タクティカルライトの光を頼りに薄暗い石段を下りていく。その後ろを、私とバアス旅団の面々が続く。

 地下道は冷たく、酷く湿っていた。カビと淀んだ水の匂いが鼻をつく。何百年も前に作られたという石積みの壁は所々崩落しており、まるで巨大な獣の胃袋の中を歩いているような錯覚に陥る。

 

 私は、前を歩くスバルの小さな背中を見つめながら、静かに歩を進めていた。

 時折、頭上から微かな振動が伝わってくる。地上ではすでに夜が明け、エデン条約の調印式に向けた喧騒が始まっているのだろう。手元にある端末では、華やかな雰囲気のニュースが流れている。

 その式典には、私の息子も「シャーレの先生」として立会人になっているはずだ。

 

(息子よ。お前はお前で、生徒たちを信じてやりなさい。私は私のやり方で、大人の落とし前をつける)

 

 目的地である古聖堂の真下まで、あと少し。

 スバルが「この先の隔壁を抜ければ、会場の真下に出ます」と振り返りかけた、まさにその時だった。

 

 ――ズズンッ……!!

 

 突如として、地下道全体が激しく揺れた。

 単なる足音や機械の振動ではない。鼓膜を突き破るような爆音と、地盤そのものがへし折れるような凄まじい衝撃。

 

「なんだ!? 地震か!?」

 

「いや、上だ! 地上で何かが起きた!」

 

 パラパラと天井から砂や石くれが落ちてくる中、私は直感した。

 これは、爆撃だ。それも、巡航ミサイル級の規格外の質量兵器による。

 

「……古聖堂が、やられた……」

 

 スバルが顔面を蒼白にして呟いた。

 

 頭上で起きた惨劇。

 そこには、私の息子がいる。

 

「俺の息子は...」

 

 その光景が脳裏に浮かんだ瞬間、私の内側で、何かが決定的に切り替わる音がした。

 先生としての余裕。教育者としての穏やかさ。それらすべてが、凄まじい怒りの炎によって一瞬で焼き尽くされ、後には「血を分けた我が子を傷つけられた(かもしれない)父親」としての、冷酷なまでの殺意だけが残った。

 

 私は、無意識のうちに拳を強く握りしめていた。爪が掌に食い込み、微かに血が滲む。

 戦術家としての冷静な計算など、すでに消し飛んでいた。

 

「全機、急げ」

 

 暗い地下道に響いた私の声は、自分でも驚くほど低く、冷たく、そして絶対的な怒りを孕んでいた。生徒の前で未だ見せたことのない、あまりにも感情的で、熱を帯びた怒りの感情がこもった声。

 アティクも、アーファも、その声の異様さに息を呑んだ。

 

「これより我々は、条約調印式へ『武力介入』する。……我が子に手を出した代償がどれほど高くつくか、あの女と、その手先どもに骨の髄まで教えてやる」

 

 最後の言葉は、あまりにも先生らしくない。一人の父親としての怒りの声だった。




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