あなたのれきし   作:空田空

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再開

 

 あれから幾年かの歳月が流れた。

 私は彼の葬式に参列することはできなかった。彼の住所にはもう違う人が住んでいて、スマホにも実家らしき情報はなかった。

 季節は巡り、世界は何事もなかったかのようにその色を変え続けた。私は大学を卒業し、おじいちゃんの店を継ぐために勉強をしていた。常連客たちの顔ぶれも少しずつ変わった。私の髪はあの頃よりも、少しだけ短くなった。

 時間はあらゆるものを変えていく。

 その無慈悲で、しかし公平な流れの中で、決して変わらないものもあった。

 私の心の奥底にぽっかりと空いたままの空洞。

 そして時折、夜中にふと目を覚ました時に襲ってくる、彼のいない世界の圧倒的な静寂。

 悠真くん。

 その名前を口に出すことはもうほとんどなかった。だが、彼は私の内側でずっと生き続けていた。陽だまりのような笑顔も、不器用な優しさも、そして最期、私に向けたあの悲しい眼差しさえも、すべてが昨日のことのように思い出せる。

 

 ある秋の日の午後だった。

 示談が成立し、彼女が仮釈放されたという報せを受け取ったのは。

 佐藤静香。

 その名前を聞いた時、私の心は凪いだ水面のように静かだった。怒りも、憎しみも、もはやそこにはなかった。ただ深く、そしてどこまでも冷たい虚無だけが広がっていた。

 

 そして今日、一通の手紙が店に届いた。

 差出人の名前はない。ただ一枚の便箋に『午後三時、××町、喫茶エデンにて』とだけ記されていた。

 彼女からだとすぐに分かった。

 私は店をおじいちゃんに任せ、指定された場所へと向かった。

 

 喫茶エデンは、古い雑居ビルの二階にある。それは忘れ去られたような場所だった。

 ドアを開けると、「カラン」という気の抜けた音が鳴った。店内に、客の姿は一人もなかった。陽の光さえも届かない薄暗い空間に、古い珈琲の匂いと、埃の匂いが混じり合って沈殿している。まるで、時間が止まったままの遺跡のようだった。

 彼女は一番奥の席に座っていた。

 窓の外の景色を眺めている。

 数年の歳月は、彼女の姿をほとんど変えていなかった。少しだけ大人びてはいたが、その人間離れした美しさと絶対的な静寂はあの頃のままだった。

 私が近づいても、彼女はしばらく気づかないふりをしていた。やがて私が目の前の席に腰を下ろすと、ようやくゆっくりとこちらに顔を向けた。

 そして昔と何も変わらない平坦な声で言った。

 

 「こんにちは」

 

 私は答えなかった。

 答えるべき言葉が見つからなかった。ただその黒曜石のような瞳を真っ直ぐに見つめ返した。その瞳の奥にはやはり、何の感情も浮かんでいない。

 私のその敵意ともとれる視線に彼女は気分を害した様子もなく、ただ静かに頷いただけだった。

 その目はきっと怖いものだった。

 恋敵に向けるような目。

 私のこの瞳はあなたという存在が、悠真くんから奪ったすべての光に対する嫉妬と、憎悪の色を宿しているのだ。

 

 しばらくの沈黙の後、彼女が口を開いた。

 「読んでいただけましたか」

 その問いに、私はようやく声を発することができた。

 「……何がしたいんですかあなた」

 私の声は自分でも驚くほど低く冷たく響いた。

 私の問いには答えず、彼女はテーブルの上を顎でしゃくった。そこには一冊の分厚い原稿用紙の束が置かれていた。

 私はカバンから同じものをもう一冊取り出した。数日前に私の元へ郵送されてきたものだ。

 その表紙には子供のような拙い文字でこう書かれていた。

 『あなたのれきし』

 

 それは小説だった。

 悠真くんと彼女が出会い、そしてあの駅のホームで彼が死ぬまでのすべての出来事がそれぞれの視点で克明に描かれた物語。

 「どうしてこんなものを」

 「私たちが忘れないように」

 彼女は私の言葉を遮って答えた。

 「盲鳥(めくらどり)悠真という存在がこの世界に確かにいたという事実を物語という形で保存しておくために」

 「……」

 「この内容に変なところはありましたか」

 彼女はまるで、編集者が作家に尋ねるかのように淡々と問うた。

 私は少し考えるように目を伏せた。

 「……特にないと思います。まるで見てきたかのように正確でした」

 そうだ。その物語は恐ろしいほどに正確だった。悠真くんの心の揺らぎも、私の戸惑いも、そしてあの日の喫茶店での会話さえも。

 私は気を取り直してもう一度彼女を問い詰めた。

 「なぜ書いたの。本当の理由は何」

 静香は答えなかった。

 ただエスプレッソの小さなカップを手に取り、その黒い液体を静かに眺めている。

 その態度に私の内側で何かが燃え上がった。

 「答えて!」

 私は声を荒げた。

 「まさか小説を書くためだけに悠真のことを殺したの!?」

 

 私のその絶叫のような問いかけに、彼女はゆっくりと顔を上げた。

 そしてほんの少しだけ首を傾げるとこう言った。

 「さあ?」

 その答えは肯定でも、否定でもない絶対的な答案。

 彼女は続けた。

 「あなたと悠真の会話のところは、彼が書いていた日記を勝手に拝借して書きました」

 「……日記?」

 初めて聞く言葉だった。悠真くんが日記を。

 「彼は毎日書いていました。あなたと出会ってからのことを。珈琲の淹れ方を覚えたこと。春樹さんに褒められたこと。そして、あなたの誕生日を知ったこと。そのすべてを」

 知らなかった。

 私は悠真くんのそんな一面すら知らなかったんだ。

 彼が陽だまりのような店の中で笑っているその裏側で、一人孤独に自分の心を言葉にしていたなんて。

 私は彼の何を見ていたのだろう。

 彼の何を知っていたというのだろう。

 その事実は私の心を深く抉った。

 

 彼女のその残酷な一言が引き金になった。

 私の脳裏に悠真くんとの楽しかった日々が走馬灯のように蘇る。

 

 ……初めて会った日、彼はまるで怯えた小動物みたいだった。

 だけど彼が淹れてくれる珈琲は、いつも驚くほどまっすぐで、優しい味がした。

 不器用だけど一生懸命にグラスを磨く彼の横顔を、私はカウンターの隅からこっそり眺めるのが好きだった。

 私の誕生日。嬉しそうにチョコレートを食べてくれた彼のあの照れたような笑顔。あの笑顔が見たくて私はまた何かしてあげたいとそう思ったんだ。

 彼が床に倒れた時、心臓が止まるかと思った。この人がいなくなってしまったら私はまた一人になってしまうと。

 告白を聞いた夜。私は彼の背負う闇の深さに言葉を失った。でもそれ以上に彼が「生きたい」とそう言ってくれたことが嬉しかった。この人と一緒に生きていきたい。この人の傷を少しでも癒してあげたい。そう思った。

 

 ……ねえ悠真くん。

 あなたは日記に何て書いていたの。

 私のことをどう思っていたの。

 あなたの見ていた世界を私も少しだけのぞいてみたかった。

 あなたの隣で同じものを見て同じように笑ってみたかった。

 そして、あなたの横でただ一緒に、最後まで生きていたかった。

 だけれど、それももう叶わない。

 あなたはもういないのだから。

 

 私の独白が終わるのを待っていたかのように虚無がすっと一枚の紙をテーブルの上で滑らせた。

 「こんな描写はどうですか」

 そこには悠真くんが死んだ直後の駅のホームでの私の姿が描かれていた。

 

 

 

 『彼の世界が私の目の前で終わった。

 私の耳の奥で骨と肉が砕け散る、おぞましい幻聴が鳴り響く。ホームにいた数人の人間が短い悲鳴を上げ、あるいは総毛立つように後ずさる。

 だが私の世界では音は消えていた。

 ブレーキの金属が擦れる耳障りな金切り声も、人々の驚愕の声も遠ざかっていくサイレンの音さえもすべてが分厚いガラスの向こう側へと追いやられる。

 私の時間は止まった。

 そして逆流を始めた。

 

 その瞬間私の意識は過去へと引きずり戻された。

 あの夏の日の帰り道。車のラジオから流れていた陽気な歌。母の優しい横顔。父の大きな背中。

 そして突然の光。

 世界が逆さまになる感覚。

 金属が引き裂かれる、耳を塞ぎたくなるような轟音。

 ……違う。これは今の音だ。電車のブレーキ音だ。

 けれど同じだった。音は同じ。匂いも同じ。鉄と焦げる匂いそして死の匂い。

 あの時私は、逆さまの闇の中で一人きりだった。呼びかけても返事のない父と母。その沈黙。

 今目の前で繰り広げられているこの惨劇の後の静けさは、あの時の沈黙と全く同じだった。

 ああまただ。

 また私は一人取り残される。

 また私は大切な人がいなくなるのをただ見ていることしかできない。

 私の身体は動かなかった。あの時のように金縛りにあったように。魂が肉体という名の檻の中でただ震えているだけだった。

 

 どれくらいの時間が経ったのか。

 私の身体はまるで他人のもののように、勝手に動き出していた。

 階段を駆け下り、連絡通路を走り、そして反対側のホームへと駆け上がる。

 息が苦しい。

 まるで水の中でもがいているようだ。

 空気は粘性を持ち、私の肺に入り込むことを拒絶する。足は鉛のように重く、一歩進むごとに過去の絶望がその足首に絡みついてくる。

 周りの世界のすべてが歪んで滲んで見える。

 ホームにたどり着く。

 そこに彼女はいた。

 あの少女――虚無と呼ばれた存在。

 彼女はただ一人、そこに立っていた。

 悠真くんを突き落としたその場所から一歩も動かずに。

 まるで何事もなかったかのように。

 ただ静かに電車が通り過ぎていったその暗い線路の底をじっと見下ろしている。

 その横顔は感情というものが完全に抜け落ちた能面のようだった。

 あれは、衝動的な犯行などではない。

 私は見ていた。

 悠真くんが、私に気づき花が咲くように笑ったあの瞬間。

 あの少女の瞳からすっと光が消えるのを。

 彼女が悠真くんの顔を掴みその唇を奪ったのは、嫉妬や愛情からではない。

 それは彼の動きを封じ、その場に固定するためのあまりに冷徹な計算だった。

 そして彼女の手が彼の背中に置かれた時、私は確かに見たのだ。

 そこに宿る明確な殺意と、これから行われる行為への一切の躊躇いのなさを。

 あれは故意だった。

 完璧なタイミングで実行された冷徹な処刑だった。

 

 私の身体の奥底から熱いマグマのような何かがせり上がってきた。

 怒り。

 憎悪。

 殺意。

 殴りたかった。

 この人間の心を持たない美しい怪物のその陶器のような顔を、私のこの手で粉々に砕いてやりたかった。

 彼の痛みを、苦しみを、絶望をその空っぽの身体に教えてやりたかった。

 私は彼女に向かって一歩踏み出した。

 だがその足は途中で止まった。

 無駄だ。

 あの時の私と同じだ。泣き叫んだところで覆された車が元に戻るわけではない。失われた命が帰ってくるわけではない。怒りや暴力は無力な魂の自己満足に過ぎない。

 私のやるべきことは一つだけ。

 この惨劇をこの理不尽な世界の悪意を然るべき場所へと伝えること。

 

 私は彼女から視線を外し、よろよろとした足取りで駅員室へと向かった。

 ガラスの向こうの若い駅員に、私は震える指でホームの一点を指差した。

 声が出なかった。

 ただ「あそこ…人が…」と喘ぐように言うのが精一杯だった。

 私のその尋常ではない様子に、駅員は慌てて外へと飛び出してきた。

 

 それからの出来事はまるで他人事のように感じられた。

 駅員たちの怒声。

 駆けつけてきた警察官たちの無機質な声。

 黄色いテープがホームを封鎖していく。

 やがて担架が運ばれてくる。

 その上に乗せられた原型をとどめていない、赤い何か。

 私はもうそれ以上見ていられなかった。

 ただホームのベンチに崩れるように座り込んだ。

 

 虚無と呼ばれた少女は、少しも抵抗することなく警察官に連行されていった。

 彼女は連れて行かれるその間際に一度だけこちらを振り返った。

 その黒曜石の瞳には、やはり何の感情も浮かんでいなかった。

 ただまるで「これでよかったのでしょう?」とでも問いかけるかのように、静かに私を見つめていた。

 私はその問いに答えることができなかった。

 

 どれくらいの時間が経ったのだろう。

 警察官にいくつか質問をされた。

 だが私はほとんどまともに答えることができなかった。

 ただ「はい」と「いいえ」だけで頷くことしかできなかった。

 やがて彼らも私を諦めたようにどこかへ行ってしまった。

 ホームには私一人だけが取り残された。

 

 その時だった。

 私はポケットの中にある硬い感触を思い出した。

 震える手でそれを取り出す。

 それは悠真くんのスマートフォンだった。

 そうだ。

 私はこれを彼に返すためにここへ来たんだった。

 彼が喫茶店に忘れていった、この黒いガラスの板を。

 このちっぽけな機械がなければ。

 私は今日この駅に来ることはなかった。

 

 その瞬間。後悔という名の巨大な黒い波が、私の心を飲み込んでいった。

 苦しくなるような、というレベルではない。

 息ができないほどの激しい痛みが私の全身を駆け巡った。

 

 もしも私がこのスマホの存在に彼が店を出るあと一分早く気づいていれば。

 私は彼を追いかけることはなく、ただ店で彼の次の出勤を待っていたはずだ。

 もしも、もしも私が駅へ向かうという愚かな選択をせず、ただ明日彼がアルバイトに来るのを待っていれば。

 こんなことにはならなかったのではないか。

 いや違う。

 そんな生易しい話ではない。

 

 私がこのホームに現れたから。

 悠真くんが私に気づいてしまったから。

 彼が、私に向けてあの優しい笑顔を浮かべてしまったから。

 彼の注意が完全に私に向けられ、彼の隣に立つあの少女への警戒が解かれたあの瞬間に。

 あの少女はためらいもなく彼を突き落とした。

 私が彼の注意を引かなければ彼はあるいは身構えることができたかもしれない。その場にとどまることができたかもしれない。

 そうだ。

 あの少女は悠真くんが私を見たから殺したのだ。

 私という存在が引き金になったのだ。

 

 だから私は。

 私もあの少女の共犯なのではないか?

 

 その疑念は一度芽生えてしまうともう取り除くことのできない毒のように私の魂を蝕んでいった。

 私はただの目撃者ではない。

 私はただの被害者でもない。

 私はこの殺人という名の舞台の上で、知らず知らずのうちに重要な役割を演じてしまっていたのだ。

 悠真くんを死へと誘うための道化師の役を。

 私の親切心が彼の命を奪うための凶器になったのだ。

 私の優しさが彼の背中を押すための力になったのだ。

 

 この巨大な地球というシステムの中で。

 私たちの出会いも、別れも、彼の死さえもただの偶然の産物なのだと。

 毎日この街では誰かが生まれ、誰かが死んでいく。

 それはただの現象。

 ただの確率論。

 そこに意味などない。

 私の両親が死んだあの交通事故もそうだ。

 ただ運が悪かっただけ。

 そして今日、悠真くんが死んだのも。

 ただ運が悪かっただけ。

 

 そう頭では分かっている。

 分かっている。

 分かろうとしている。

 なぜ私の心はこんなにも痛むのだろう。

 なぜ私は自分自身を責め続けてしまうのだろう。

 『不吉な子』

 かつて私に投げつけられた呪いの言葉が蘇る。

 そうなのかもしれない。

 私はやはり不吉なのだ。

 私が関わる人間は、私が大切に思ってしまった人間はみんな不幸になる。

 父も、母も。

 そして悠真くんも。

 私の愛情は「死」を呼ぶのだ。私が彼に与えようとした陽だまりが、結果的に彼を死の淵へと追いやったのだ。

 

 悠真くんは言っていた。

 『俺たちのことをずっと記憶してくれる人が俺たち二人以外にもいたらいいですね』と。

 今その言葉の本当の重みが分かる。。

 私は彼のあまりに短くあまりに悲しい人生の物語の語り部としてこの世界に取り残されてしまったのだ。

 それはあまりに残酷な役割だった。

 

 私は手の中のスマートフォンに目を落とした。

 それは黒い鏡のように私の涙でぐしゃぐしゃになった醜い顔を映し出していた。

 このガラスの板の中に、彼の生きた証がすべて詰まっている。

 彼が撮った写真。

 彼が交わしたメッセージ。

 彼が聞いていた音楽。

 私が決して知ることのなかった、彼の世界。

 そしてこのスマートフォンこそが彼の命を奪った引き金なのだ。

 

 私はもう涙も出なかった。

 ただひたすらに虚しかった。

 ホームにはもう誰もいない。

 ただ警察官たちの無機質な声と、点滅する赤いランプの光だけがこの世界の現実味のなさを際立たせている。

 世界は続く。

 私や悠真くんがいなくてもいなくなっても、何も変わらずにただ続いていく。

 明日になればまた太陽は昇り、人々はこのホームで電車を待つのだろう。

 悠真くんが死んだこの場所で。

 そのあまりに当たり前の事実が私には何よりも恐ろしかった。

 

 私は立ち上がった。

 そして、おじいちゃんが待つあの陽だまりの店へと歩き出した。

 私は語らなければならない。

 悠真くんという一人の少年が確かにこの世界に存在したことを。

 彼がどれほど傷つき、どれほどもがき、そして最後にどれほど生きようとしていたのかを。

 そして、私が彼の死の共犯者になってしまったというこのどうしようもない罪の告白を。

 それが残された私の罪であり罰であり、そして唯一の祈りだった。

 空には一番星が瞬いていた。

 それはまるで迷子の私を導くための、小さな小さな光の欠片のようだった。

 いや違う。

 それはただ遠くで燃え尽きようとしているだけの無数の星の一つ。

 私の罪を私の孤独を、ただ無感動に見下ろしているだけの冷たい光だった。』

 

 

 

 「……っ!」

 私は息を呑んだ。

 違う。

 この女は私の心の中まで土足で踏み込んできて、私の悲しみさえも自分の物語の都合のいいように捻じ曲げようとしている。あまつさえ、私の家族の話も創作の一部にされている。

 その時私は気づいた。

 いつの間にか私の目の前に、アイスコーヒーのグラスが置かれていることに。

 店のマスターが置いたのだろうか。

 グラスの表面には水滴がびっしりとついていた。

 

 次の瞬間。私はそのグラスを掴み、中の液体を目の前の女の顔めがけてぶちまけていた。

 バシャッという下品な音。

 静香の白い服が、珈琲の黒い液体で汚く汚れていく。

 彼女は驚いた様子もなく、ただ目を見開いてそれを受け止めていた。

 水滴が彼女の長い睫毛から雫となって滴り落ちる。

 それはまるで彼女が泣いているかのようにも見えた。

 だが彼女は泣いてなどいない。

 この女に涙などない。

 

 私は震える声で言った。

 涙で視界が滲む。

 「私の悠真くんへの気持ちをあなたの創作で汚さないで」

 

 私は椅子を蹴るように立ち上がった。

 「どうか、お元気で」

 後ろから声が聞こえる。私は一度も振り返らずにその店を出た。

 「カラン」というベルの音が、私の敗北を告げているようだった。

 

 外に出ると、冷たい雨が降り始めていた。

 私は傘もささずに雨の中を歩き始めた。

 涙と雨が混じり合って、私の頬を伝っていく。

 悠真くん。

 私は結局あなたのために何もできなかった。

 あなたのことも、あなたの隣にいたあの少女のことも。

 私はやっぱり無力なままだ。

 それでも私は忘れない。

 あなたという人がこの世界に確かにいたことを。

 あなたと過ごした、あの陽だまりのような時間を。

 それが私の罪であり、罰であり、そして唯一の祈りなのだから。

 雨はますます強くなっていた。

 まるで、この世界のすべての悲しみを洗い流そうとするかのように。

 だが私の心に刻まれた傷痕は決して消えることはないだろう。

 永遠に。

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