ゴルコンダ=ノア*テラー概念   作:新人先生

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生徒が闇落ちする話なので、苦手な方はご注意ください。


ゴルコンダ=ノア*テラー概念

 人生は一行のボードレールにも()かない――そう、誰かが言いました。

 

 ええ、まったくその通りだと思います。

 もっとも、私には彼のような洞察力も表現力もありません。けれど、人生という物語は、どの頁を開いても案外たった一行で事足りるのです。特に、私たちのような思春期の学生にとっては、なおさら。

 

 私は“元”生塩ノア。かつてはミレニアムサイエンススクールの生徒会《セミナー》で書記をしていました。趣味は読書と暗唱、そして――先生をちょっとだけ困らせること。

 けれど、それはもう昔話です。今の私は、制服も仲間も、あの教室も手放しました。手放すしかなかったのです。

 

 先生はとても素敵な大人で、ユウカちゃんは親友でした。だから、二人が並んで話すたび、本当は祝いたいのに胸のどこかが鈍く痛む。

 

 祝福の言葉を探せば探すほど、自分の立ち位置が薄れていく気がして、笑顔の練習だけが上達しました。「親友として嬉しい」と「彼のそばにいたい」が同じ口の中でぶつかり合い、どちらも少し嘘に聞こえる――その矛盾をごまかすために、私は表情を一つ、また一つと作ったのです。そうしているうちに、どれが素顔か分からなくなっていきました。結局、私は“顔”が足りなくなったのです。

 

 ……そんな説明、あなたには不要でしょうね、先生。

 

「……ノア? 君、なのか?」

 

 振り返ると、そこにはかつての先生。隣には、わずか半歩ぶん先生より前に出たユウカちゃん。

 その構図だけで、立場ははっきりしていました。私が外側、あなたたちが内側。

 

「どうしてこんなところに――」

 

 ああ、その問いはずっと前に答えを出しています。私はもう、あなたの生徒じゃない。ただそれだけの話です。

 

 幽霊でも見るような目をしないでください、先生。私のこの顔は、いくつもある仮面の一枚にすぎません。……ああ、失礼。正確には仮面ではなく、額縁でしたね。

 だから今の私は“ゴルコンダ”と名乗っています。『生塩ノア』というテクストが剥がれ落ち、背文字だけが額縁に残ったから――後ろ向きの自画像が代わりに喋るのも、そのせいです。残ったのは引用符と余白だけ。私はその余白を抱えて歩く影です。

 

 腕の中の額縁を持ち直します。黒い額縁、キャンバスには後ろ姿だけの自画像。振り向かない私。

 ――話しているのは絵のほう。体の私は運び屋です。どちらが本体か、時々分からなくなるのが難点ですが。一応、付け替えの効かない「体」の方が本体でしょうか?

 

 先生は瞬きを忘れたみたいに、頭のてっぺんから靴の先まで、体と絵を何往復も照合していました。

 その視線は、昔の私と今の私を何度も照合するかのようで、どうにも落ち着きません。

 

「……ノア、本当に……」

「本当に生きていた、ですか? ふふ、文学における『再会』はたいてい劇的な場面ですが、現実は案外湿っぽい台詞しか出てこないものですね」

 

 あの教室を出てから、どれだけの時間が経ってしまったのでしょうか。

 セミナーの執務室で、ユウカちゃんと二人で議事録を広げていたあの午後。

 先生の机へ半ば押しかけて、本の一節を暗唱してみせた、シャーレでのひととき。

 

 そんな断片が、私の“日常”でした。けれど、日常はあっけなく壊れます。

 日常は、壊れるまでは透明です。壊れると、すべてが見える。

 

「……あなたの側にいると、私は自分を見失いそうだったんですよ」

 

 それは半分、本音で、半分は言い訳です。

 友人の視線も、あなたの何気ない言葉も、どうしても真っ直ぐには受け取れなかった。

 だから私は、いくつもの『仮の顔』を作りました。自分を守るための、文学という化粧で彩った顔。

 

 そのうち本当の顔がどれかも分からなくなって――気がつけば、ミレニアムを離れていたのです。

 

「……そんなことを、私は――」

「知っていたら、止めたとでも? それはきっと、あの頃の私が一番嫌がることですよ、先生」

 

 先生が一歩踏み出しかけた肩を、ユウカちゃんがそっと掴みました。

 

「先生、下がってください」

 

 視線は逸らさない。けれど揺れている。私をよく知っている人の目は、疑うことも信じることもできてしまうから、たいへん残酷です。

 

「……ユウカ」

 

 先生が制止しようとして、ユウカちゃんの手に自分の手を重ねました。

 

「先生……下がってください……お願いします……」

 

 ここに至ってなお、ユウカちゃんの視線は私から逸れません。その双眸は、私をよく知っている目でした。かつて隣同士で書記の議事録を取ったときに交わした、ほんの小さな合図や冗談まで覚えている、そんな目。

 

 だからこそ、揺れている。

 

「……どうして、こんな……」

 

 声は震えていました。怒りよりも、信じられないという感情が勝っている。

 私は小さく笑ってみせます。まあ、二人に私の表情は見えないでしょうが。

 

「どうして、なんて。文学では決まっているでしょう? ――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「……ノア。話がしたい。ここでじゃなくてもいい。君は――」

「“やり直せる”――そう言いたいのでしょう、先生」

 

 私は、腕の中の額縁を持ち直します。

 後ろ姿の自画像。背中しか描かれていない、顔のない私。

 いくつ目の仮面か、もう数えるのはやめました。

 

「先生が信じる世界は、優しい。『生徒は見捨てない』、『子供はやり直せる』、『今背負えない責任は、大人になってからでいい』、『責任は大人である自分が負う』。素敵な標語です。――ええ、本当に、詩のように美しい」

 

 額縁の表面を指でとん、と叩く。乾いた音が一つ。キャンバスの内側から、声が続きました。

 

「でも、その詩を“この世界”に持ち込むのは、少し乱暴ではありませんか?」

 

 先生の眉が微かに動き、ユウカちゃんの喉がきゅっと鳴る。

 

「確かに、先生のいた“外の世界”では、その倫理が通るのかもしれません。けれど、ここは学園都市(キヴォトス)です。学園が政治を担い、政治に参画する権利を持つのは“子供”だけ。大人はその権利から締め出されている。――権利と責任は、いつだってセットです。そうでしょう?」

 

 ユウカちゃんが、先生の袖を掴み直しました。その指先は、怒りと戸惑いと、私の知っている彼女の真面目さでできているように見えました。

 

「権利を奪われた大人に責任だけ背負わせるのは不正義です。仮にこの世界で子供たちが苦しんでいるなら、その制度を設計し、決定し、執行した責任者がいるわけですが、それは参政権を持たない大人ではあり得ない。もっとも、例外があることは知っています。権力を渇望した大人が裏から権限を握り、子供を不幸にする決定を下すことはある。ですが、その責は『大人一般』ではなく、その越権者個人に帰属すべきで、制度の責任配分を反転させる根拠にはなりません。ここでは、決めるのも、署名するのも、執行するのも生徒。だから、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 先生が何か言いかけ、飲み込みました。

 私は、とある一節を取り出します。少しばかり血の匂いのする一文。得意の引用の支度はできています。

 

「私の好きな言葉を贈りましょう――いいですか、先生、

 

人が撃たれたら血は流れるものなんです(Did You Ever See Anyone Shot by a Gun without Bleeding?)

 

 古い記者会見の台詞の借り物ですが、私はこの“当たり前”を大事にしたいと思っています。撃たれたら怪我をするし、ときには死ぬ。失敗したら、だれかが泣く。撤回できない選択があって、傷跡は物語の外に押し出せない。けれど、この世界では、撃たれても、そこに続くはずの流血や死は体系的に猶予され、表層に擦過傷が描かれる程度で終わる。身体は傷つくふりをし、あなたがいると、出来事は意味の仮面をかぶり、あらゆる痛みが“青春”という記号に変わっていく。あなた自身もまた記号――『生徒を救済し、“青春の物語”へ帰還させるための舞台装置』に、です」

 

 そこで、絵の中の私と、体の私の視線が一瞬だけずれました。

 言いすぎた、と。どちらかが思い、どちらかは思わない。

 

「……『先生』ですよ? あれだけ信頼されているというのに、あなたは渾名(あだな)すら与えられていない。機能の名で呼ばれる存在――面白いと思いませんか? あらゆる生徒が教師につける渾名ほど刻薄に真実に迫るものはないというのに、あなたには、それがない。あなたは“役割”であり続けるために、顔を貸している。だから、私も顔を失くすことにしたんです」

 

 二人の視線が、額縁へ吸い寄せられる。

 後頭部だけの自画像。どれほど覗き込んでも、顔へは辿り着けない構図の私。

 

「誰だって、自分という顔を付け替えながら生きています。友達の前での顔も、知らない人に向ける顔も、ネットで調子に乗る顔も、ぜんぶ含めて“その人”。――だから、嘘をついたかどうかより、どれだけ本気でその役を引き受けたか――そこでしか真実は測れない。先生。あなたは“先生”という役を、誰より完璧に生きようとする。でも、その完璧さが、この世界の権力と責任の重心を、時々ずらしてしまう」

 

 言葉の刃が鞘からわずかに出る音がしました。誰のための刃でもない。ここに暮らす私たちが、何度も指で触れてきた薄い膜を、ほんの少し切るためのもの。

 

「ここでは、生徒が法であり、治安であり、経済であり、交渉です。ユウカ()()が計算し、私が文章にし、誰かがトリガーを引く。――結果にサインするのは、私たちの名前。だからこそ、“今は私が責任を負うよ”というあなたの優しさは、ときにこの箱庭(キヴォトス)の規範に逆らう」

 

 私は、額縁を胸に抱き直しました。夕色がキャンバスに流れ込み、そこだけが淡く明るい。

 

「……言い方が、きついのは分かっています。けれど、誰かが言わなければならない。あなたの“救済”は、ここでは、ときに越権です。大人が責任を引き取る世界は、外にあります。ここは、子供の世界。学園都市の政治が、私たちの正午を作り、私たちの真夜中を連れてくる。だから、私たちが署名して、私たちが血を拭う。あなたは――」

 

 私はそこで言葉を切りました。

 言い過ぎれば、ただの破壊になる。足りなければ、いつもの軽口になる。

 どちらにもしたくなかった。

 

「あなたは、見ていてください。私たちの一行がどこへ着地するのかを。そして、どうしても必要なときだけ、役割ではなく、“あなた”として、ここにいてください」

「……ノア、私は――」

 

 先生の声は、紙の端が震えるみたいに細かった。

 ユウカちゃんの手が先生の肩にそっと置かれる。止めるでも、促すでもない。そこにいることだけを伝える手。

 

 私は、額縁の裏に親指をかけました。

 背中の自画像は、やはり振り向かない。振り向いたとき、何が見えるのか、まだ自分でも分からないから。

 

 けれど、遠くで、夜のはじまりを告げる光が、薄く灯り始めていました。

 

「――物語は、日常が壊れたところから始まる。だけど、終わり方はいつだって、たった一行で済みます」

 

 キャンバスが、わずかに光を掬う。

 でも、先生にはきっと伝わる。ユウカちゃんにも、たぶん。

 

「……ええ、先生」

 

 声が、ほんの少しだけ素顔に寄りました。

 

「今日は、きっと――」

 

 私は一歩、夜の気配へ踏み出す。

 

 

 

 

 

 

 

 

月が綺麗な夜ですね(あなたが好きです)

 

 

 

 

 

 

 

 

 キャンバスの後ろ姿は、見えない月の方角を、黙って指している。

 たった一行。恥の多い生涯を送って来ましたが、最初に置いたしおりを、ようやく、同じ場所に戻せました。




【引用・元ネタにしたもの一覧】
・人生は一行のボードレールにも若かない
芥川龍之介『或阿呆の一生』より。原文の表記は「ボオドレエル」。

・物語は、日常が壊れたところから始まります
物語論(ナラトロジー)一般の整理。

・人が撃たれたら血は流れるものなんです
村上春樹『スプートニクの恋人』に紹介される逸話(『ワイルド・バンチ』公開時の会見におけるアーネスト・ボーグナインの発言)を下敷きにした引用。

・生徒が教師につける渾名ほど刻薄に真実に迫るものはない
芥川龍之介『追憶』より。原文は「あらゆる東京の中学生が教師につける渾名ほど刻薄に真実に迫るものはない。」

・月が綺麗な夜ですね
夏目漱石に由来するという有名な逸話のアレ。ただし一次出典は未詳らしい。

・恥の多い生涯を送って来ました
太宰治『人間失格』より。人間(ノア)じゃなくなったので。


先生に「顔向け」できないから後ろ姿越しに話す…って妄想。
みなさんだったら、子供責任論に反論する場合、どう反論しますか?

ノアって頭がいいから、先生に対するアンチテーゼにも一応の理屈をつける。そうして先生を言い負かすことで、自分の現状をなんとか肯定しようとする。でも、主張をぶつけ合う中で、「先生なら、自分の理論武装を思いもよらぬ角度から飛び越えてくれるかもしれない」という期待を、無自覚に抱いてしまうんですよ。ねえ!?

そしてダイマします。文体は全然違いますが、こちらの連載作品も是非読んでいただけると嬉しいです。
https://syosetu.org/novel/380797/
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