『世界最大の民主主義は中国に生まれるかーー辛亥革命異史』 作:おたんちん
――東京、神田駿河台。
梅雨が明け切らぬ一九〇二(明治三十五)年七月の午後、石畳に残る雨水が蒸気となって立ちのぼり、 馬車鉄道の蹄鉄が刻むリズムに紛れて白い湯気が漂う。
ニコライ堂の時鐘を聞きながら、昌平橋で神田川を渡り、急坂を上りきると、楠の木立の向こうに洋瓦と白漆喰の二階家が姿を現した。
神田区駿河台鈴木町十八番地に建つ清国留学生会館である。
坂を登り切った一団の先頭にはアスパラの様に痩長の引率の男。東京の街を物珍しそうに見ながら、お付きの男が持つ会館の写真を肩越しに覗き込んでいる。
「遅れずについて来い。」
振り返らず、そう怒鳴る男の後ろには湖南省官費留学生三十一名がぞろぞろと続き、大荷物を抱え、その列が引率の背中を追う。疲労困憊の混ざったざわめきが伴い、中には大荷物を自分で運ぶことに慣れてないのかふらつきながら歩く者もいる。
その留学生の一団の一人、
「長崎から三昼夜、ここが…」
長崎から汽車と連絡船で三昼夜、そこから人力車と馬車鉄道を乗り継いだ旅装のまま、額に滲む汗を袖口で拭い、疲れと共に笑いが漏れる。学生服の紺地は糊の硬さを残しており、まだ新品に近い。だが、袖の内側には硝石と木炭を混ぜた実験で焦がした黒い痕がこっそり縫い継がれていた。
引率の男――
『新民叢報』の号外、日清通商条約改正反対の署名用紙、義勇公会の寄付募集、さらに『清議報』や『国民新聞』。――漢字と片仮名が乱舞する。糊と新聞インクの匂いが湿気に溶け、むせ返るようだった。
その中で一際、学生らの注目を集めるビラがある。それは《満洲時局講壇》である。「講師は
「おい!荷物を見といてくれ」
隣にいたへたり込む同期の男に荷物を見るよう頼むと、黄はビラ前の人混みの中で時折生まれる間隙に身を捻り入れる。
ポスター下についた入場券を何とか手に入れようともがく。だが、黄がポスター前にたどり着いた頃には入場券は既になかった。
押し寄せる肩に圧されながら、必死に場所と時間を記憶する黄。そうしていると、襟口を掴み上げられ、人混みから引き揚げられてしまう。
「勝手な事をするな。」
外から湿った風が流れ込み、室内をじっとりとした暑さに変える。黄を掴み上げた梁は、襟を放し、廊下の向こうを一瞥した。「それから、変法派とは関わるんじゃない。監督の私が責めを負う。公費で来ていることを忘れるな」と言うと管理人の下へと戻っていく。湿った襟口の感触が、誰かに進路を握られる嫌悪だけを残した。
「…黄!早く記帳を済ませろ!」
肩を押され、管理人の前へと突き出される黄は勢いのまま帳場を覗き込む。管理人が顔を上げ、黄の詰襟の具合から始まり顔の一部分一部分をじっくりと見つめる。脳内の留学生の顔と照合を行なっているようだった。
「おや、今日到着の方かな?奥の寮の空きスペースをお使いなされ。」
帳場の壮年の管理人が名簿をめくり、小使いに荷物を運ばせる。「両湖書院の黄興と申します。」と自己紹介をすると、案内の途中、管理人は両湖書院という出身校に何か心あたりがあるようで、声を潜めた。
「同郷会の会長殿が日暮れ頃、来られます。彭某という方で、少々変わり者との評判です。昼は京橋木挽町の工場で働かれ、夜は工手学校で電工を学ばれるとか。」
その口調には、どこか「書生らしからぬ」と見下す気配が滲んでいた。痺れを切らした梁がその噂話を遮り、「配宿の説明を済んだか。」と職員用の出入り口のドアからぬっと顔を出して言う。
「ええ。ちょっとお待ちを。」
今日到着の湖南の方は二階の回廊の突き当たりの――。小使いに管理人が黄の部屋を説明するのを聞き流しながら、黄は受付に肘を置いて振り返る。いつの間にやら、ホールは更に熱気を帯びている。
「どうしたんです?あれは…」
近くに屯っていた男たちを捕まえて、何があったか聞くと男達は、いつもの事だと言いたげに「暇な大陸浪人が大言壮語で血気盛んな学生を焚き付けに来たのだろう」と言った。
黄にはその物言いが無気力な虚無主義者の適当な虚言に思えた。あの熱量には何かあるに違いないと思った黄はまたもその渦の中に乗り込んでいく。中心では眉目秀麗な秀才然とした男が大きな身振り手振りで何か怒鳴っているようだ。
「帝なくしては国は立たず!」
黄が更に続く言葉を拾おうと耳を澄ますと、隣の詰襟姿の男が「保皇派め…」と呟いた。その青年の詰襟には早稲田の徽章の入ったボタンが縫い付けられていた。
黄は頭の中の人物名鑑を手繰る。青年。早稲田。革命派。共和主義にのめり込むあまり「自由」と改名した"
「君は…もしや馮君ではないか。」
青年は目を見開き、黄に誰何する。黄が名乗り、馮の兄貴分である
輪から外れて2人で話し込むと、黄の思想が自分と同じであることを馮は段々と理解してきたのか、「僕らは早稲田近くの湖南出身の方の家に居候させてもらってて…」と屯している場所を共有し、《支那亡国二百四十二年紀念会》開催のチラシを黄に押し付け去っていった。
「黄さん!」管理人が自分を呼ぶ声がした。そして、小使いが手招きしているのを見つけ、小走りに向かう。
小使いが荷物を肩に乗せ、ぎしぎしと階段を登るのを無言でついていく黄。目の前で揺れる荷物を見ながら、廊下を歩いていくと管理人の言葉を思い出す。
彭――どこかで耳にした名だ。書院在学中、実学を声高に唱え、実験室に入り浸っていたあの先輩ではなかったか。だが学生仲間の間では「匠の道に下る者は学を穢す」と舌打ち交じりに嘲られていた。
――廠人が同郷会の会長を名乗るとは。
――いや、実学を疎んじれば……
《登場人物解説》
⑴黄興(こう・こう/Huang Xing, 1874-1916)
史実:同盟会の創設メンバーで、辛亥革命期の主要な軍事指導者。孫文とともに「民国革命の双璧」と称され、蜂起の指揮や「二次革命」(1913)などで中心的役割を担った。
⑵梁啓超(りょう・けいちょう/Liang Qichao, 1873–1929)
史実:戊戌変法の理論家で康有為の高弟。清末~民初にかけて亡命日本で『新民叢報』を刊し、近代思想を広く伝播した。
⑶馮自由(ふう・じゆう/Feng Ziyou, 1881–1958)
史実:後年『革命逸史』で知られる革命派の日本生まれの言論人。孫文の革命組織『興中会』の最年少メンバー。
⑷章炳麟(しょう・へいりん/Zhang Binglin, 1869–1936)
史実:国学者・革命思想家。反満思想で知られ、『民報』などで理論面を牽引。孫文・黄興と並ぶ「革命三尊」の一人として尊崇される。