『世界最大の民主主義は中国に生まれるかーー辛亥革命異史』 作:おたんちん
板張りの二階の一隅。簡易宿舎の上げ下げ窓を半ば開けると、活気づく町の声が届く。床には行李や藤トランクが乱立し、荷札に「湖南官費」の赤い判がまだ濡れたように光っている。
黄は窓際に立ち、人々が忙しそうに行き交う雑踏を見つめる。通りの角には、今年の日英同盟締結を祝った英国旗がまだひらめいている。その後ろで「三昼夜の汽車に連絡船や馬車で、尻が四角だ」等と今回の無理な旅程を揶揄する声が聞こえ、同期らは口々に体の痛みを訴えて笑い合う。
「広島あたりで大阪で線路が壊れたらしいって聞いた時は、明日の入学式に間に合わないと思って電報でも飛ばそうかと思ったよ。」
黄自身も冗談を飛ばしながら、懐の馮のビラを指先で折ってみる。昔、黄が顔を出したことのある唐才常が主催する『中国国会』で耳にした章炳麟の言葉が蘇る――「保皇派と革命派は倒幕で一致しても、その後は割れる。呉越同舟は混乱を広げるだけだ」。分厚いレンズの丸眼鏡の奥で、彼は静かに言い切った。
学者然としたその頼りなげな風体と裏腹に、名声に凭れず、論で押す気骨ある男だった。
「おい黄、掲示板、見たか。」坂で黄に肩を貸されていた江西出身の徐が、すっかり気力を取り戻した様子で部屋の中心に胡座をかく。「梁先生の講壇、すぐ満員だとさ。」
「先生と軽々しく呼ぶな。」トランクに腰をかけた湖北出身の李が低く唸る。「監督の梁(煥奎)殿は“変法派と交わるな”と仰ったばかりだ。到着初日から名簿に“要注意”と書かれたくはないだろう。」
言葉が空中でぶつかり、湿った室内に小さな火花が散る。黄は肩をすくめ、「せっかくだ。先生になる我らが知らぬでは生徒に教えられないから、行ってみてもいいんじゃないか。」と黄が一方の意見を支持すると、もう一方は不満気に鼻を鳴らす。
「"政治結社に近づくべからず”。それが掟じゃないか。」そう言った李は、日本で学べなくなる危険性を負ってまですることではない、と心から信じているようだ。「他に学べる場所がいくらでもあるだろう」
「近づくべからず、か。」徐が歯を鳴らす。「それで“国を興す人材を養成”とは、笑わせる。」
一瞬、誰も続けなかった。旅の疲れと、言葉では払えない人生の湿気が、部屋の低い天井にたまる。
黄は口を開く。
「……確かに規則は規則だ。目をつけられるのは良くないが、君の言うとおり、学ぶのは学校でだけじゃない。梁殿も時期に日本を発つ。それから梁"先生"だったりの話を聞けば、罰も当たるまい。」
言いながら、自分の言葉に自分がはっとする。故郷の私塾で教育されて形成された《士大夫》の殻の内側で、なにかが音を立てて割れかけている——そんな感覚。
その時、階下からどん、どんと重い足音が上ってきた。「書生の足じゃないな」誰かが言い、湿った空気がざわりと動く。黄は無意識に扉の方へと足を向ける、掌の汗を衣の内側で拭った。
足音はまっすぐこちらへ――。
黄が渡り廊下へ身を乗り出すと、藍木綿の作業袴をまとった青年が煤けた木箱を脇に置き、袴の裾を払って顔を上げた。ひと目でわかる湖南の面差し。その口が開いた。
「克強──おまえか! やっぱり岳麓の眉目は隠せんのう」
武陵訛りの快活な声に、記憶が揺り起こされる。両湖書院の講堂、測量器材の囲いの向こうで「孔孟を唱えるばかりでは蒸気機関は動かん」と笑った先輩──彭仲光である。
彼は、辮髪を巻き上げてその上に帽子を載せる多くの留学生と違って、ざんぎり頭のこざっぱりとした洋風の髪型をしている。
彼が官費を断り、自らの力で留学を成し得ているが故に出来ることだ。それが黄には“自由”に見えた。
黄は礼を失せぬよう微笑んだが、伸ばしかけた手がわずかに躊躇した。作業袴の膝に付いた油膜と、自分の糊の効いた学生服。
――袖が汚れる――
書院で刷り込まれた「士大夫」がまだ抜けきらない。だが彭は隔たりを意に介さず、豪快に手を握った。掌は分厚く、鉄粉が砂粒のようにざらつく。黄の眉がわずかに動いた。
「見ろ、この手。木挽町で電話線を千本引いた証や。未来は机上の墨より、この砂粒で出来とる。」
そう言いながらも、彭は自分の手を払い、「ザッと払うわ」と言って黄の手首を掴むと腰に刺した団扇で鉄粉を吹き飛ばす。
「おまえも東京で確かめろ。」
彭が玄関の方を顎でしゃくる。表では逓信省の電話線の架設が進み、電柱の上で碍子を締める金槌の音が、坂を越えてここまで響いてくる。
彭は黄の肩越しに部屋の中の留学生らに目礼し、言った。
「いやはや、《湖南官費留学生》と聞いて期待したがな――ふたを開ければ“湖南人”はおまえ一人とは。官の牽強付会もここに極まれりや!」
《湖南官費留学生》の大半は湖北・江西から掻き集められため、湖南出身者は黄興ただ一人だったのだ。
朗らかな皮肉に周囲の書生がくすりと笑う。黄は苦笑しつつ、手を握り返す。ざらりとした鉄粉の感触が、なぜか心地よかった。
黒い細身の影が床に伸び、彭の背後で咳払いがした。