『世界最大の民主主義は中国に生まれるかーー辛亥革命異史』 作:おたんちん
お茶の水停留所付近の雑踏と物売りの声――そこへ重なる架線工事の金槌。打音は坂を越えて玄関にまで伝わってくる。彭は木箱を抱え直し、振り返って快活に笑った。
「明日は帝大に潜るぞ。日本の頂点を知れば岳麓の筆も走るはずやぞ、唯一の“湖南"官費留学生君!その後は同郷の人らを紹介したる。まぁ、まずはとっとと“棲み家”を決めねばな!学も腰を据えられん。」
黄も思わず笑みを返す。手に残る砂粒が、かつての偏見をほぐす触媒のようだった。彭は木箱を玄関脇に預けると、黄の行李を軽々と担いだまま外へ踏み出す。
昌平坂を下り、万世橋を左に折れれば、夕飯時を告げる白い湯気が路地から立ちのぼる。露天の行商が辮髪姿の男たちを見つけ、「新民叢報、最新号――!」と叫び、油紙に包んだ焼芋の匂いが黄の鼻をくすぐった。
「克強、弘文の仲間で楊度を知っとるか?器量の整った利発そうな男や。」
彭が歩調を緩めず切り出す。黄は首を振る。何せ着いたばかりだ。湖南官費留学生の同期以外は知らない。
だが、ふと思い出す顔があった。ホールで演説をしていた保皇派の男。彼は彭の言う特徴に当てはまるような気がした。
「弘文学院に二ヶ月前に入学した湖南人や。弘文学院の合間に本郷に行っては講義を盗み聞きしとる。昼は民法の講義、夜は法制史だかで、ノートが真っ黒やで、アイツ。」
「また、何で?」
「西洋の政治学、法律学を学んでその内容を専門雑誌にして、発行しようとしとるんや。」
愉快げに話す彭。「皆、西洋の理論に触れたくてたまらんやろう?」と続けた。
「そのために今、出版社を立ち上げる算段をしててな。克強、キミ読書家やし、一枚噛んでみんか?」
二人は万世橋の欄干を渡り切る。川面に映るガス灯が揺れ、赤く塗られた鉄橋の桁が夕日にまだらな影を落とした。
黄は胸裏でつぶやいた。文字は時代も国境も越える――。
そして、黄は決めた。今の自分のやるべき事は、“日本で吸収できるものを吸収し、広め、同志を得ること"であって意地を張ることじゃない、と。
「やります。」
彭は大きく笑い、黄の背中を叩き、いつの間にか目の前まで来ていた蕎麦屋「藪そば」に入っていった。薄藍の暖簾をくぐると、出汁の香りが木曽檜の柱に染み込み、客のざわめきに微かな三味線が遠く混ざった。
粗朶(そだ)椅子に腰を下ろすや、彭は懐から一枚の写真を取り出した。どこかの座敷で撮られた写真。その中には彭の顔も見える。
「これな。三月に撮った第一回懇親会の写真や。岡山の范くんも冬季休暇の際に上京してきたし、振武学校の人らも参加して参加者は二十名。去年の湖南からの留学生の殆どやな。」
彭はヒラヒラと写真を翳してみせる。
「今度、二回目やろうや。次は四十人は来るで。動かんと損やぞ、克強。」
黄の眼に、鉄粉より細かな火花が灯った。黄の心には変わらず「滅満興漢」「創立民国」の思いが募り、思いを一つのうねりに変えるには同志を募ること、即ち人脈作りが必須だった。
「人は情で動く。繋いだ縁はどこかで自分を助けてくれるやろう。」
黄一人しか湖南出身者がいない"湖南官費留学生"三十一名は師範科の官費枠だが、同じ湖南出身の留学生は別課程にも勿論いる。年末までに、湖南人留学生は合計四十二名に達するのだった。
そして、来年には更に増えるのは間違いない。
「二回目はいつ?調整、手伝ってもいいですか?」
「もちろんや。」
黄は頷きかけて、ふと思い出す。
「そういえば……梁さんから貰っていた紙、あれは?」
懇親会を通した人脈作りを決心しながら、そば湯の湯気越しに黄は彭の懐へ消えた紙切れの輪郭を思い描いた。井桁に三の文字があったことを思い出し、黄はそれが三井の紋であることを知らないが、何か重要なものに違いないと黄は推測した。
彭が笑みを含ませる。
「ああ、あれな。農商務省工業試験所の住所や。それと──手配してくれる人の名刺や。」
そう言って、懐から小さな厚紙を取り出す。黄は目を凝らす。井桁の中に三の文字。
「……これは?」
「三井財閥の紋や。持ち主は山本さん──三井の上海筋の人や。三井財閥は日本最大級の会社。清国と日本を結ぶ大きな荷の多くは、あの人の机を通る。彼自身は今上海なんやが、東京に彼の古い部下がいてな…そのツテで試験所へ口を利いてもらったらしい。」
黄は名刺をじっと見つめた。そこに刷られた「三井物産上海支店長 山本條太郎」という活字は、国境を越える一本の橋に見えた。
「その三井と組んで、梁さんはアンチモンだかの鉱石を日本に売ろうってわけですか。」
「そや。大商いになるやろうな。…戦も近いやろうし。」
続けて、無線電信の蓄電池に弾丸、活字、電気ケーブル等アンチモンが必要なものを彭が並び立ててみると、黄でも戦争で需要が高まることは自明のように思えた。
「だから、何が何でも九割五分が欲しいってわけやな。だが、九割五分になるのが5年後では商機を流すことになるやろう。…弟の煥彝くんはまだ学校で勉強中やから。梁さんの踏ん張り時やな。」
さらに、「実験室で出来ても、工場を動かす段になると別腹や…」と彭は付け加える。
「はい、お待ち」という威勢のいい声と共に、おおざっぱにかけ蕎麦が机に置かれる。
「アンチモンの精製は湖南工業化の一丁目一番地。何としても達成して貰いたいもんや。」
彭は他人事の様にそう言うと、彭はそっと名刺をしまい、湯気の向こうで箸を鳴らした。
《登場人物史実解説》
⑴楊度(よう・ど/Yang Du, 1875–1931)
史実:湖南出身の政治家・学者。若年期は立憲派寄り、のち袁世凱の帝制運動(籌安会)に関与。袁世凱の中華帝国建国を支えた袁世凱十三太保の筆頭格として知られる。
⑵山本条太郎(やまもと・じょうたろう/Yamamoto Jōtarō, 1867–1936)
史実:福井出身の実業家・政治家。三井物産に入社し、1901年に同社上海支店長、1909年に常務取締役。辛亥革命期には南方革命派を資金援助したとされる。1914年シーメンス事件に連座して辞職後、衆議院議員を経て、1927–29年に南満州鉄道総裁として満洲開発に関与した。