『世界最大の民主主義は中国に生まれるかーー辛亥革命異史』   作:おたんちん

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条件出し

約束の刻限に、会館の門前は雨上がりのぬめりを残していた。

九時の鐘が遅れて一つ、二つ。

 

荒い息を残し、坂を駆け上り門へと至る2人。彭が話をつけていた下宿先の文京区久堅町の木造下見板張りの町家へ、会館で今日泊まる分以外の黄の荷物を運び込んでいると時間がかかってしまったのだ。

 

2人が辺りを見回すと、影が一つ路地から滑り出た。王其行である。

 

「人力車を待たせております。こちらへどうぞ。」

 

「王さん、貴方は私より年上でしょう。敬語など使わなくても。」

 

黄は王と並び立つとそう言った。彭はうんうんと首肯しながら、腰を伸ばす。

 

「…性分みたいなものです。お気になさらず。帳場には“同郷会歓迎会”とだけ、書き置きしておきました。管理人も了解済みです。」

 

「それなら、朝帰りでもいいわけや。」

 

彭が冗談めかして言うと、王其行は眼鏡の奥で細く笑った。

 

「ええ。ただし炉を借りるのは朝までですよ。延長は銀が掛かりますから。」

 

三人は人力車に乗り込んだ。車夫が濡れた石畳を蹴り、馬車鉄道の軌条沿いを白金方面へと走る。雨上がりの夜気は思いのほか涼しく、牛鍋屋の甘い匂いが通り過ぎた。

 

万世橋を渡る頃にはガス灯もまばらとなり、川面に映る光が車輪の水飛沫で揺れた。黄は荷役の疲れを忘れようと車窓を覗き込むが、東京の闇は思いのほか深く、わずかな光だけが濡れた路面を銀色に磨いている。

 

「克強、これから行く試験所は官の施設や。戸田の火薬庫ほどではないが、無闇に覗かれると困る連中もおる。――口は堅うせいよ」

 

彭の言葉に、黄は胸中で頷いた。

 

九時の鐘の余韻が路面のぬめりに吸い込まれていく。車夫の背がぐっと沈み、濡れた石畳を車輪が切り分けた。馬車鉄道の軌条が黒く光り、人力車はそれに沿って白金方面へ。繁華街の楽しげな声を幌の後ろへ置き去ると、物音は僅かに変わり、土と石炭の匂いが香る。

 

やがて、赤煉瓦の塀と背の低い守衛所が見える。門灯の傘に雨粒がまだ残り、守衛はむすっとした顔で黄たちを出迎える。

 

王其行が先に降り、門番に名刺を差し出した。黄がチラリと門の奥を見ると人力車がもう一台止まっている。

 

スリーピースのスーツの男が守衛所の奥から顔を出すと同時に「梁さんは先に入ってますよ!」そして、人懐っこい笑顔を見せるスーツの男は――三井物産の杉浦と名乗る。

 

そのまま守衛から鍵を受け取ると杉浦は、黄たちを先導して歩き出す。薄暗い構内の向こう、鋸屋根の工場建屋が黒く連なり、一本の高い煙突が夜空に混じっていた。

 

杉浦が「お待たせしました!」という声がけとともに開けた鉄扉の奥で白い前掛けをした口髭の男と梁書記が紙を回し読みする様に筆談をし、その様子を助手らしき若い男が覗いている。

 

室内は煉瓦積みの壁、中央に小型の反射炉とオーブンの様なマッフル炉、奥にドラフトの効いたフード。卓上には天秤、水槽に青いガラスの薬瓶が並ぶ。煤けた窓の外から、遅れて風に揺れるガス灯の光が薄く滲み、既に動き始めている炉から発される熱気が黄たちの頬を撫でる。

 

口髭の男は、黄たちに視線を移すと、立ち上がり、「島田と申す。遅い時間で恐縮だが、次の予定の準備もあるのでな…さっさと始めよう」と言うと梁書記が持参してきたと思しき木箱を開ける。

 

中身は、鈍い銀黒色の塊、砕いた鉱石、そして小分けの紙袋。「それが芷江のアンチモン。」黄が尋ねると梁書記が無言で頷く。

 

杉浦が懐中時計を見て小さく頷く。「皆さん、始めましょうか。」杉浦の言葉を聞いて、島田技師が頷くと後ろに控えていた若い助手が動き出し、しゃがみ込んで炉床の前にるつぼを据えた。

 

黄は思わず前のめりになる。煤の匂いに、かすかな硫黄が混じる。王其行は持っていた革鞄を開き、《冶金便覧》を机に置いた。

 

島田技師が手早くマッフル炉のトレイに薄く広げていき、エアダンパーを少し開けると、炉内の橙が息をするように強まっていくのが見える。やがて、白い煙が細く立ち、フードへと吸い込まれていく。

 

「まず焙焼(ロースト)で鉱石中の硫黄分を飛ばす。ヒ素も酸化させて、なるだけ煙道へ逃がすのだ。」

 

島田技師は梁書記に対し言い含めるように指し示しながら、一つ一つの工程を教える。その言葉を杉浦が梁書記の耳元で逐次翻訳を行っており、真剣そのものといった様子で梁書記はメモを取る。

 

そして、島田技師が指し示した先には、フードの内壁の水冷板に降り積もる白い花のような粉――三酸化アンチモン。助手が口鼻を布で覆いながら、長柄のスクレーパーでそれをそっと掻き集める。助手が掻き集めた粉を蓋付きガラス瓶に湿った紙を敷いて入れ、「密栓します」と島田技師に告げる。

 

焙焼を終えた灰白色の鉱滓を島田がるつぼに移す。ソーダ灰を一握り、石灰石粉をひとすくい。助手が炭粉を篩い、島田が「今日は控えめに」と指で量を示す。

 

「砒素は石灰で砒酸塩に“抱かせて”スラグへ――危ない白い昇華粉にして煙道へ逃がすより、炉内で固定するのがよろしかろう。」島田の言葉に、梁書記が手帳に素早く書き留めた。

 

「もっと硫化がしつこい鉱なら、鉄置換で叩き落とす手もある。」

 

島田技師は呟くように言った。梁書記はわからないことは王の持ってきた便覧で調べたり島田技師らに聞きながら理解を深めていく。

 

その姿を眺める黄の横で彭は何やら助手と話しながら支度を始める。

 

「彭さんは何を?」

 

「砒素試験のお手伝いや。」

 

机の上には、いつの間にか、鉛蓄電池、導線、電流計、細長いガラス管や小瓶、盃の様な小皿などが並べられている。

 

「電解式の砒素試験やな。」

 

並べられた鉛蓄電池から伸びた端子を白金電極の陰極を小皿に差しながら、誇らしげに彭が「この鉛蓄電池はウチのや。」と付け加えた。

 

「電解式の利点は何ですか?」黄が日本語で尋ねると、助手は「電解式には…生成した水素に不純物が混じり難いって利点があるんです。」と答える。黄は思わず「へー」と言ってしまったがその利点が何で利点なのかはわからなかった。

 

彭は蓄電池につないだ陽極を希硫酸水溶液に浸す。泡が生まれ、二つの瓶(洗気瓶)を通るあいだに、余計な匂いや油っ気を落とす。助手が細いガラス管の先を小さな炎で温め、そこへ水素を静かに流していく。助手が白い花のような粉を少量取って酸に落とした盃から気体が徐々に運ばれてくる。

 

助手がガラス管をくるり。熱い点の少し先に、灰黒の膜がすっと現れた。

 

「砒素や…。見えるぞ、ここや。さっき聞いたところによると、熱い所から指二つ分ほど先に砒素が付く。漂白液ですっと消える——アンチモンなら熱い所よりで消えにくいらしい。」

 

彭が漂白液を一滴。膜がすっと消える。誰の目にもわかる合図だった。助手は島田技師の方をチラリと見て排気ダンパーを開き、送風を一段強め、「非常に危険ですから、布を湿らせて口鼻へあててください」と言うと布を配る。

 

「お二人、実験の面白いところですよ。」

 

助手はニヤリと笑った。そう言われ、2人は島田技師の手元に目を向ける。炉の隙間から銀鼠の光沢がちらりとのぞいた。

 

「引き出すぞ。」

 

火鋏がるつぼの耳を掴み、白い呼気のような熱が人の顔を押し返す。彭が肩で受け、黄が鋳型を押さえる。とろりとした金属が注がれ、錐型の鋳型に満ちる。鋳面が静かに曇り、やがて銀いろの“ボタン”が現れた。

 

「レグルス。」

 

島田技師が短く呼ぶ。その響きに黄の胸が不思議に高鳴る。島田がレグルスを天秤に吊り、空気中と水中の重さを量り直す。目盛を読み、帳面に鉛筆を滑らせ、静かに言う——「九割三分」。

 

杉浦の眉が、ほんの少しだけ動いた。彭が息を吐く。黄は喉の奥で、何か微かな音を立ててそれを飲み込んだ。

 

「炉気をより酸化寄りにする必要がありそうだ。…もう一度。」

 

島田は淡々と白い三酸化物を少量、還元に混ぜる配合へと指示を変えた。

 

「焙焼を少し長めに。ソーダを気持ち増やす。」

 

この様なことが数度行われ、ジリジリと純度は上がるがついに九割五分には届かなかった。ただ、梁書記も杉浦も良い傾向だと顔を綻ばせ、島田技師も「比重はその場の目安。湿式分析もしなくては」と言いつつ九割五分に近日中に届くだろうと太鼓判を押した。

 

黄は高純度のアンチモンを取り出そうとしていること以外何が目の前で行われているのか、わからずじまいではあった。だが、黄が見た実験は条件出しと言うらしい。これは「小さな失敗を安く買い、成功確率の高い手順に昇華させる」作業だ。

 

条件出し。

 

黄の目標である《民権国家の樹立》に応用出来そうな考え方であった。

 

帰りの人力車の中、小さな失敗を安く買う…その言葉が黄の頭を駆け巡る。翻って見てみれば、広州起義や恵州起義、自立軍起義といった失敗した武装蜂起は自前の軍も資金も持たず、時流に流されるまま他力本願でしてしまっている。失敗を活かすことも出来ていないが、その度に首謀者や有力者が死に小さな失敗にも出来ていない。

 

小さな失敗で終わる革命の準備とは何だろうか。

 

人の生死に直結しない事だろう。

 

人力車の幌の中で物思いに黄が耽っていると、電信柱が視野に入る。「電線には電気が通る」と黄は何となく呟いた。その自らの呟きにハッと気付かされる。電線を切ってしまったら、その間、電話が使えない。線路を塞いでしまえば、列車は使えない。水道を塞いでしまえば、水を飲めなくなる。だが、それらを切ったりただ塞いでいただけでは捕まっても死刑にはならないだろう。

 

「あぁ」思わず声が出る黄。これだこれだこれだと黄は心の中で叫び、膝を叩いた。インフラを一定期間使えなくすることで、味方に何らかの利益を生むことができるのだ。

 

いくら袁世凱の握る中国最強の北洋軍でも戦えなければ勝てない。

 




《登場人物史実解説》
⑴袁世凱(えん・せいがい/Yuan Shikai, 1859–1916)
史実:清末の実力者で北洋軍を基盤に政権を握る。辛亥革命(1911)では清朝と革命派の間を取り持って退位を成立させ、1912年に2代目臨時大総統、のち正式大総統となる。議会を解散して権力を集中し、1915年末に帝制(洪憲帝)を宣言するが各地の反対で崩壊、1916年に死去。
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