季節は巡る。繰り返し、移り変わる。窓越しの四角い空にふと目線をやり、時間の流れの早さを実感する。
なっちゃんがリハビリを始めてから10ヶ月とちょっと。私は中学3年生になり、なっちゃんは15歳になった。あれからあっという間に時が流れて、ついに……この日がやってきた。
なっちゃんの約2年にも及ぶ入院生活が今日、終わりを迎える。
なっちゃんのためにできることをすると決めた私は、呼吸器のリハビリについての本をたくさん読んで知識を付けて、ずっとなっちゃんを補助し続けた。正しい呼吸法を覚えるのと、身体全体の筋力を鍛えるトレーニングが主で、喘息発作を持つ人にとってそれらは「大変」という言葉では片付けられない程に過酷で辛いと担当の理学療法士の人が言っていたけれど……なっちゃんは弱音を一切吐かず、来る日も来る日もリハビリを繰り返した。
リハビリを始めたばかりの頃、激しく咳き込んだり胸を抑えて苦しそうにしていたなっちゃんを見ていられなくて、目を背けたくなる日もあった。でも、なっちゃんは決してめげなかった。「無理しないで」って何度か伝えたこともあったけど、その度になっちゃんは「約束のためだから」と言って笑った。私と花火を見る約束を果たすために、本当は苦しくてたまらないはずのリハビリを続けたなっちゃんの芯の強さを、私は改めて知ることとなった。
リハビリの一環として食事指導も行われて、病院食をほとんど残していたなっちゃんに食欲が戻り、「身体に栄養を行き渡らせるために」と、食事を残さず食べるようになっていった。そのおかげでお菓子も食べられるようになって、私が持ってきた差し入れをいつも喜んで、おいしそうに和菓子を口に運ぶなっちゃんを見るのが1日の楽しみだった。
疲れない呼吸法の勉強、歩行訓練や筋力トレーニング、適切な食事を続けたなっちゃんは咳き込んだり息切れを起こす回数が目に見えて減っていって、症状の改善の速さに主治医もびっくりする程だったという。
本来なら1年〜2年を要する見込みだったなっちゃんのリハビリは、本人の快復の早さから予定よりも短い期間で終了することになり、日常生活に支障が出ないと主治医が判断した結果、すんなりとなっちゃんの退院が認められた。ずっと、この日が来るのを待ち続けていた。なっちゃんがやっと、普通の生活がおくれるようになる。こんなにも嬉しいことは、他にない。
「兄さん。それ、ぼくが持つよ」
「おっ。頼もしいねぇ。んじゃ任せた!」
「ありがとう。よいしょっ、と……」
約2年間ずっと身にまとっていた病院着から私服に身を包んだなっちゃんは、咲夜さんから荷物を受け取って、軽々と持ち上げる。そんななっちゃんを見て、咲夜さんは嬉しそうに目を細める。
「……筋肉つけたな。
「あはは……おかげさまで」
「腕もそうだし、腹も……硬ぇ! ワンチャン俺より腹筋あるかもしれん」
「そ、そうかな……?」
毎日の筋力トレーニングで、なっちゃんは細身ながら腕や脚が去年よりがっしりしていて、咲夜さんが服の上からなっちゃんのお腹を触った後にぺらりとシャツをめくると、なんと腹筋も割れているようだった。半袖から露出している腕も前よりずっとたくましくなっていて、身長は私よりちょっと低いなっちゃんが、今までと変わらない細い身体にリハビリでしっかりと鍛えられた筋肉を身に宿しているというそのギャップに、私はとても人様には聞かせられないような変な声を漏らしそうになる。
「そうだよ。俺が筋トレ始めたのけっこう前だけど、さすがに1年足らずでこうはならんかった。リハビリ、相当頑張ったんだな。さすが俺の自慢の弟だっ!」
「わっ……! ちょっ、兄さん……!」
なっちゃんの墨色の髪をわしゃわしゃと撫でる咲夜さんの表情は、とても晴れやかだった。去年は辛そうな顔をすることもあった咲夜さんが思いっきり笑ってなっちゃんとじゃれ合っているその光景に、思わず涙が出そうになる。
「
咲夜さんは私の方を向いて、深々と頭を下げた。
「いえっ! 前にも言いましたけど、私が好きでやってることですから! こちらこそ……なっちゃんの側に居させてくれて、ありがとうございました!」
「いやいや礼には及ばんよ!? 相変わらず律儀だねぇ……」
「ぼくからも……本当にありがとう。
「なっちゃん……!」
「ずっと花ちゃんにお世話になりっぱなしだけど、恩返しできるように……頑張るから」
なっちゃんも私に頭を下げて、朗らかな笑みを見せる。お礼なら普段からたくさん言われてるのに今も言ってくれるなんて。私なんかよりなっちゃんの方がよっぽど律儀だ。恩返ししてほしくてそうした訳じゃないし、正直言えば……なっちゃんが生きててくれるなら、それだけで充分幸せ。この先もなっちゃんの隣を歩けるなら、それで。
「じゃあ、これからもよろしくね。なっちゃん!」
「……! うん。よろしく! 花ちゃん!」
なっちゃんと手を取り合って一緒に笑うこの瞬間が、愛おしくてたまらない。なっちゃんが生きていてくれて、本当に良かった。
看護師さんや主治医の先生は、なっちゃんの快復の早さにすごくびっくりしてたみたい。リハビリで症状が緩解することは珍しくはないけれど、短期間でここまで快復するのはあまりないことなんだって咲夜さんから聞いた。なっちゃんは、本当にすごい。お医者さんもびっくりする程の早さで身体を強くして、目標としていた1年も経たずに退院が認められるくらいに喘息症状を克服した。全部、なっちゃんが頑張ったから。自分が生きている未来を、他でもないなっちゃん自身の努力で掴み取ったんだ。
「さて、と。帰るか!」
咲夜さんがそう言って、私達は病室から出る。途中、なっちゃんがすっかり物がなくなった病室をじっと見つめた。きっともう入院なんてしたくはないんだろうけど、約2年もお世話になったこの個室が名残惜しいのかな。病室に目を向けるなっちゃんの瞳が、潤んでいた。
「なっちゃん? 大丈夫……?」
「あ……うん、大丈夫! ……行こう。花ちゃん」
目元を人差し指で軽く拭って、なっちゃんは微笑む。その晴れやかな表情で、もう大丈夫なんだとわかった私は、なっちゃんの隣をゆっくりと歩く。
玄関前には主治医の先生が待ってくれていて、咲夜さんとなっちゃんが何度も頭を下げてお礼を伝える。退院した後でも定期的に検診を受けなくちゃいけないけれど、「これからも力になる」と先生は力強く言葉にしていた。
挨拶を終えて、私達は自動ドアをくぐる。生ぬるい風が身体にぶつかってくるのを感じ、なっちゃんは久しぶりに浴びる外の風に、心地良いと言わんばかりに顔を綻ばせた。
暦はもう7月。桜は全て散り、新緑がざわざわと音を立てる。蝉もあちこちで鳴いていて、夏の日差しが首を、背中を容赦なく焼く。なっちゃんと私の前を歩いている咲夜さんは「あっちー……」とぼやきながら手で顔をぱたぱたと仰いでいた。咲夜さんとは対象的に、なっちゃんはたまに空を見上げて笑っていた。雲1つない青空は、退院したなっちゃんを祝福しているみたいに思えた。今日は、本当に天気が良い。
「あーそうだ。なぁ夏輝」
「うん?」
「俺、花火師継ぐことにしたから」
おもむろに咲夜さんがなっちゃんに話しかけ、数秒の後に続く言葉を発した。そっか、もう
「うん。……えっ?」
咲夜さんの一言に頷きかけたなっちゃんが、素っ頓狂な声を出して足を止める。
「兄さん……今、なんて?」
「だから、俺が花火師を継ぐっちゅー話」
「え……えぇっ!?」
咲夜さんは私達の方へ振り返って、なっちゃんの反応を楽しむようにからからと笑っていた。去年私に話してくれた通り、このことはずっと内緒にしていたみたいだし、さすがにびっくりするよ……いくらなんでもいきなりすぎるもんね。
「そっ……そんな大事な話をすごくさらっと……」
「さらっとで良いんだよさらっとで。大丈夫、親父達も認めてる。だからさ、夏輝。今日からお前は自由だ! 家業だとかなんだとか、そんなめんどくせーしがらみとは無縁になるんだよ」
「自由……?」
なっちゃんの問いに、咲夜さんは首を縦に振る。
「そ。もう、花火師になれない自分を責めなくて良い。親父や身内に何か言われるのを怖がらなくて良い。夏輝は、夏輝自身の為に生きるんだ。したいことして……じいさんになるまで長生きするんだよ」
咲夜さんはなっちゃんの背丈に合わせて屈んで、ぽん、と頭に手を乗せる。
「夏輝が歩くこれからの道を、誰にも邪魔させない。もし夏輝のことを気に食わない奴が居ても、ソイツをお前のとこには絶対来させねぇから」
「兄さん……」
なっちゃんはいきなりのことで明らかに困惑していて、咲夜さんの思った通り、申し訳なさそうに顔を歪めていた。そんななっちゃんに、咲夜さんはいつもと変わらない笑顔を見せる。
「そんな顔すんなって! 花火師は、俺が継ぎたいから継ぐんだ。面白そうだと思ったからな。夏輝が気に病むことなんて、ひとつもないんだよ。何回でも言ってやる。お前は……したいことして生きろ!」
「っ……!」
咲夜さんにとってなっちゃんはたった1人の大切な弟で、どんな時でも咲夜さんはなっちゃんを気にかけていた。兄として、なっちゃんのことを本当に愛してるんだなって、言葉や行動でよくわかる。私も、咲夜さんと同じ気持ち。なっちゃんには好きなように、好きなことをして生きてほしい。それで、幸せになってほしい。……ううん。私が、幸せにする。
「でもその代わり……俺の願い、聞いてくれるか?」
「うん。もちろん!」
なっちゃんがこくりと頷いて、咲夜さんを見つめる。
「心から夢中になれる……自分が全力でやれるモンを見つけろ。何年かかっても、なんなら何十年かかったって良い。お前の中で絶対に揺らがない、確かなものを見つけてほしい。それが……俺の1番の願いなんだ」
「心から、夢中に……」
「そうだ。なんでも面白がって生きてみりゃ、自ずと見えてくるはずさ。これからは楽しく……幸せに生きようぜ。花火ちゃんとも一緒にな!」
「これからも……兄さんにいっぱい迷惑かけちゃうと思うし、幸せに生きても良いのかな……」
「なーに言ってんだよ。ンなちっちゃいことなんざ気にすんな! それに……兄貴は弟に迷惑かけられるもんだよ。だからさ……幸せになれ。夏輝。腹筋がもっと割れるくらい、面白おかしく生きてみな!」
「兄さん……ありがとうっ!」
咲夜さんは笑って、それに釣られてなっちゃんも笑う。そよ風が、これからのなっちゃんを後押しするみたいに優しく吹いている。後ろめたいとかそんなこと思わないで、ただなっちゃんに幸せになってほしいんだろうな。咲夜さんの気持ちが痛いほどわかる。今のなっちゃんならきっと、夢中になれるものを見つけられると思う。その日まで、私が支えないとね。なっちゃんの夢が叶う、その時まで。
歩きながら、咲夜さんが玉井家のことを色々教えてくれた。なっちゃんのお母さんがお見舞いに来なくなったのは、行かなかったんじゃなくて行けなかったこと。たまに花火工房に出入りすることもあるお母さんも火薬の匂いや粉塵が服に纏わり付いていて、それでなっちゃんが発作を起こすのを防ぐために敢えてお見舞いに行くのを控えていたみたい。それで、咲夜さんに「いつもごめんね」と言って泣いていたんだと打ち明けた。
なっちゃんのお母さんは、なっちゃんのために会わない選択をした。それがどれ程辛いことなのか想像に難くない。大切な人に会いたいのに会えないのは、身を引き裂かれるように苦しいことだ。そんな日々に約2年も耐え続けたなっちゃんのお母さんは、家に着いたなっちゃんを力いっぱいに抱きしめていた。やっと、なっちゃんが家に帰って来れた。その現実に少しずつ実感が湧き始める。
もう、なっちゃんは大丈夫。普通に外に出られる。周りの人達と何ら変わらない生活ができる。嬉しくて嬉しくてたまらない。私の望む全てが、待ち焦がれた光景が、目の前にやってきた。
「お袋、しばらくは夏輝を離さなさそうだな。ま、しょうがないか」
「ふふっ。そうですね。長い間なっちゃんに会えてなかったので、寂しかったでしょうし」
「そうなぁ。入院したての頃にお袋が見舞いに行って、それで発作起こさせちまったのずっと気にしてたしね。俺は作業場とか親父が居る別棟には行かないから、代わりに見舞いを任されてたってわけさ。ったく、親父もお袋も不器用っつーか……いつも一言足らなくて呆れるよホント……」
ため息と苦笑混じりに咲夜さんはそう言いながらも、抱き合うなっちゃんとお母さんをじっと見守っていた。数秒の間があった後、もう1度咲夜さんが口を開く。
「あぁ、言葉が足らないで思い出したけど、花火ちゃん。夏輝には自分の気持ちとか思いとか……ちゃんと言葉で伝えた方が良いよ。アイツ、割とそういうのニブいからな」
「えっ?」
「来週の花火大会、一緒に行ってきなよ。花火ちゃんが夏輝にずっと思ってたこととか、言わずに秘めてたことも……色々伝えるチャンスだぜ。なにやら縁結びの噂もあるみたいだしなぁ。ここまで言えば、わかるね?」
私にそう聞いた上でウインクを見せる咲夜さん。やっぱり……怖いくらいに人をよく見ている。ほんと、すごいなぁ。私の考えてることは全部お見通しだ。それなら話が早くて助かる。元より、そうするつもりだったから。去年の夏から……ずっと。
「……はい! 来週なっちゃんと一緒に、花火を見に行きますねっ!」
咲夜さんにだけじゃなく、自分にも言い聞かせるようにそう伝えた私の頬が火照ったのは、外の暑さだけじゃないことは確かだった。
燦々と輝く太陽はきっと、身を焦がす程に燃える恋慕と似ている。
人生は七転び八起き。もひとつおまけに、急展開。
次話で最終回となります。最後までよろしくお願いいたします。