母が死に、前世を思い出してからの一週間は、試練の連続だった。
母は雑多な商館で働いていた。住み込みだったので、カーラも一緒に住んでいた。
しかし母が死んだ今、売り飛ばされそうになったところを咄嗟に逃げ出したのだ。
当然行くあてもなく、カーラは地下街をさまよった。寝床を探し、食料を求め、必死に生き延びるしかなかった。
まず食料の確保に苦しんだ。
母の働きで得ていたわずかな金は、日々の糧でほとんど消えており、手元には雀の涙ほど。だが相場も知らぬ子供では、舐められてまともに買い物もさせてもらえなかった。
水も問題だった。
地下では清潔な水は貴重で、口にできるのは酒を薄めたものくらい。未成年の身で飲むのは滑稽だが、腹を壊して死ぬよりははるかにましだった。
ようやく得た食料や水を奪われそうになることもあった。
だが幸い、カーラの体は驚くほど身軽だった。想像通りに体を操ることができた。前世で培った勘も手伝い、子供なりに機転を利かせて反撃し、どうにか逃げることができた。
やがて余裕が生まれると、地下街の不潔さが強く気になり始める。
日光の差さぬ閉ざされた空間は淀んだ空気に満ち、薬品めいた刺激臭が漂っている。意識すれば吐き気を催すほどだった。
食べ物も同じだ。
ようやく手に入れたパンでさえ、日本の暮らしと比べれば不衛生極まりない。悪寒を押し殺し、喉を詰まらせながら噛みしめるしかなかった。
何度も「いっそ死んだ方が楽だ」と思った。
それでも結局、死ぬ気にはなれなかった。
今世の異常なほど鋭い聴覚は、情報収集に役立った。
あらゆる壁が薄いので、路地裏での噂も、市場の値踏みも、チンピラが獲物を狙う声も──すべてが隣で囁かれているかのようだった。
足音ひとつで、人数や距離、さらには職業まで推し量れる。
会話からは、性別や体格、感情の揺れが透けて見える。
そして環境音や行動パターンを組み合わせれば、人物像は手に取るようにわかった。
聴覚は、ただの五感を超え、カーラにとって確かな「武器」となった。
この世界の常識を持たないカーラにとって、一般常識を身につけることは火急の問題だった。
ただそこにいるだけで、音は膨大な情報を運んでくる。さらにカーラは暇さえあれば地下街を歩き回り、耳を澄ませ続けた。
そうして知った。「巨人」という、地球には存在しなかった存在。
ただ大きい人じゃない。言葉通じぬ異形の怪物。
曰く、
地下街、憲兵の立体機動装置、調査兵団というのは、そのためだったのだと。
巨人は人を捕食し、人類の大半を食い尽くした。
巨人──地球にはなかった存在。
その正体を知りたいという渇望こそが、カーラを死から遠ざけ、生きる理由へと変わっていった。
音が運ぶのは、人の情報だけではない。反響で空間の構造も分かる。
地下街の住民が地上に出ることは困難だ。地下街は王政からも見放された隔離区域。
だが、なかには太陽を一目見ようと穴を掘る者もいる。
カーラが暮らす洞窟も、その一つだった。
入り口は物陰に隠され、目に入りにくく、人通りも少ない。布やガラクタで塞がれ、最近人が近づいた痕跡はなかった。
偶然の発見だった。
寝床が見つからず、睡魔が限界に迫ったカーラは、物陰を探していた。洞窟から風切り音と反響音が聞こえなければ、一生気づかなかっただろう。
安全地帯を見つけたカーラは身を委ねて眠った。
洞窟の中は光源もなく、真っ暗だった。だが数日も経てば、音の反響で空間を把握し、スタスタと歩けるようになった。
耳を澄ませても、人の音はない。洞窟には他の人はいないと判断した。
1週間後、地下街での情報収集に一区切りつけたカーラは、洞窟の本格的な探索を始めた。
洞窟は広く、いくつもの分岐が上方向に伸びていた。
その一角、行き止まりで、カーラは鳥の声を聞いた。
思わず体が硬直した。
全ての意識が耳に集中する。
聞いたこともない鳥の鳴き声。
それでも前世の経験が、これは鳥の声だと瞬時に告げていた。
こうして、カーラは今世で初めて、鳥の声を耳にした。
〈補足〉
時系列的には
母が死亡。→ 前世の記憶を思い出す。→ アッカーマンの力の覚醒。→ 気絶。
↓
商館から逃げ出す。
↓
洞窟発見。→ 寝落ちる。
↓
食料と水の確保に苦しんだ1週間。
↓
余裕が出てきて、情報収集に時間を費やす。→ 巨人に好奇心を抱く。(約1ヶ月間)
↓
洞窟の一角で、鳥の鳴き声を聞く。