ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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 ―――その男は、英雄になることを望んでいなかった。

 彼が欲していたのは、安楽椅子と歴史書、そして少しばかりのブランデーが入った紅茶だけである。

 だが、歴史という名の奔流は、彼を静かな書斎には留め置かない。

 星の海から、緑のターフへ。

 戦場は変われど、魔術師の運命は常に「不本意な勤労」と共にあるらしい。

 これは、後に伝説と呼ばれることになる、一人の怠惰なトレーナーと、絶対皇帝の邂逅の記録である。


シンボリルドルフ編
皇帝と魔術師


 その男が中央トレセン学園に現れたのは、まったくの偶然と、ほんの少しの奇跡、そして大部分の厄介事が重なった結果だった。

 

 男の名はヤン・ウェンリー。黒髪にくたびれた表情を浮かべ、常に微温の紅茶を求めるその男は、なぜ自分がここにいるのか、本人ですらよく分かっていなかった。ただ、気がつけば見知らぬ世界におり、その類稀なる分析能力と戦術眼――本人はただの歴史研究の応用だと言い張る――を秋川理事長に見出され、半ば強引にトレーナーのバッジを渡されていた。

 

「面倒なことになったなぁ……」

 

 トレーナー寮の自室で何度目かのため息をつきながら、ヤンは紅茶(この世界では驚くほど簡単に手に入る)をすする。彼の経歴は「記憶喪失」ということで処理されていたが、その気のない態度と覇気のなさに、大半のウマ娘たちは遠巻きにするだけだった。無理もない。誰もが夢見るトゥインクル・シリーズという大舞台において、この男からは勝利への渇望というものがまるで感じられないのだから。

 

 そんなある日の午後、ヤンが図書館でレース史の資料を読みふけっていると、影が落ちた。

 

「君が、噂の新人トレーナーか」

 

 凛として、それでいて人を惹きつけずにはおかない声。見上げると、そこに立っていたのは一人のウマ娘だった。緑の勝負服に身を包み、威風堂々とした立ち姿。額には高貴な流星が走り、その瞳は全てを見通すかのように深い。

 

 皇帝、シンボリルドルフ。

生徒にして生徒会長。無敗の三冠を目指す、学園の至宝。

 

「……らしいね。何か用かな、生徒会長さん」

 

 ヤンは栞を挟むと、億劫そうに立ち上がった。ルドルフは値踏みするようにヤンを上から下まで眺める。

 

「実に凡庸な男に見える。覇気もなければ、野心もない。だが、私の『眼』は、君の奥にあるものを見ている。君は一体、何者だ?」

 

「歴史学者だよ、しがないね。それより、早く家に帰ってゆっくりしたいんだが」

 

 飄々としたヤンの答えに、ルドルフは眉をひそめるどころか、興味深そうに口の端を上げた。

 

「面白いことを言うな。君、私のトレーナーになってみないかい?」

「お断りする」

 

 即答だった。ヤンの辞書に「面倒事への自発的参加」という項目はない。

 

「君のような才能の塊を担当するなんて、私の手に余る。もっと熱意のあるトレーナーを探したまえ」

「熱意だけで皇帝の覇道を支えることはできん」

 

 ルドルフは断言した。

 

「私が必要としているのは、情熱という名の狂信者ではない。全てを俯瞰し、無数の未来から最善の一手を選び出すことができる『眼』だ。君のその眼が、私には必要だ」

 

 彼女の瞳は真剣だった。その奥に、単なる勝利への渇望ではない、もっと大きな理想――全てのウマ娘が幸福に走れる世界を作る、という途方もない夢の揺らめきを、ヤンは見逃さなかった。

 

(やれやれ、どこかの誰かさんと同じようなことを言う)

 

 かつて、共に理想を語らった親友の顔が脳裏をよぎる。ヤンは大きなため息をついた。

 

「……分かった。ただし、条件がある」

「言ってみろ」

「トレーニングは必要最低限。無駄な根性論は一切なし。それと……」

 

「それと?」

 

「練習後の紅茶は君が淹れてくれること。それで良ければ、引き受けようじゃないか」

 

 普通なら激怒されてもおかしくない条件に、ルドルフは一瞬きょとんとした後、愉快そうに笑った。

 

「いいだろう。その契約、皇帝の名において承認する」

 

 こうして、ターフの『皇帝』と、後に『魔術師』と呼ばれることになる凡庸な男の、奇妙なコンビが誕生するのだった。

 

 そして、ヤンの指導は、まさに彼が宣言した通りだった。

 他のトレーナーがストップウォッチを片手に声を張り上げる中、ヤンは木陰のベンチに座り、タブレットで過去数十年分のレースデータを眺めている。ルドルフに渡すメニューは、彼女のコンディションを緻密に分析した上で組み立てられた、極めて合理的なものばかり。

 

「今日のトレーニングは終わりだ。あとは軽くストレッチをして、ゆっくり休むように」

「終わり?だがトレーナー君、まだ余力はある。もう少し追い込んだ方が……」

「無駄だよ。筋肉に過剰な負荷をかけても、得られる効果は逓減するだけだ。それより、次のレースのシミュレーションをしよう。想定される展開は12パターン。それぞれの対処法を頭に入れておきたまえ」

 

 ヤンは、ルドルフに「走り方」ではなく「勝ち方」を教えた。レースを一つの戦場と捉え、他のウマ娘たちの脚質、性格、過去のレース展開、その日のバ場状態、天候、果ては観客の心理状態まで変数として組み込み、勝利への最短経路を導き出す。

 

 最初は戸惑っていたルドルフも、レースを重ねるごとにその的確さに舌を巻くようになった。ヤンの予測は、まるで未来を見ているかのように的中するのだ。

 

「第3コーナーでミスターシービーが動く。だが、あれは罠だ。君はまだ動くな」

「最終直線、外に持ち出すと見せかけて、一瞬だけ内を突け。コンマ5秒、進路が開くはずだ」

 

 ヤンの指示は、時に非情なほど冷静で、時に常識外れなほど大胆だった。だが、その指示の先には、常に勝利という果実があった。無敗の三冠、そして前人未到のG1・7勝。シンボリルドルフの覇道は、ヤンという稀代の軍師を得て、盤石なものとなっていく。

 

 周囲はヤンの手腕を『魔術』と呼んだ。しかし、ヤン本人はウィナーズサークルに立つルドルフを遠目に眺めながら、いつものように紅茶をすするだけだった。

 

「魔術じゃない。ただの統計と確率論だよ。それに、実際に走っているのは私じゃない」

 

 ある日のレース後、約束通り紅茶を淹れてきたルドルフが、ヤンの隣に腰掛けた。

 

「トレーナー君。君はなぜ、勝利に歓喜しないのだ?」

 

「……別に。勝つのが当たり前だとは思わないが、負けるよりはいい、というだけさ。それに、英雄なんてものになると、ろくな死に方をしないからね」

 

 自嘲気味に呟くヤンに、ルドルフは静かに首を振った。

 

「君は英雄ではない。君は私のトレーナーだ。それだけでは、不満か?」

 

「いや、むしろそれだけで十分だよ。責任は、軽い方がいいからね」

 

 そう言って笑うヤンの顔は、いつになく穏やかだった。

 

 銀河にその名を轟かせた英雄は、この小さなターフの世界で、一人の少女の夢を支えるという、ささやかでかけがえのない役割を見つけていた。

 

 ルドルフは、そんなトレーナーの横顔を見つめながら、手の中の温かい紅茶を一口飲んだ。その味は、勝利のシャンパンよりも、ずっと心に沁みる気がした。

 

 皇帝の覇道は、まだ終わらない。そしてその隣には、いつも気だるげに紅茶をすする、稀代の『魔術師』がいる。これは、いずれ伝説となる二人の、まだほんの序章に過ぎない物語である。




 歴史とは、得てして偶然と、一人の人間の「やりたくない」という意志によって動くものである。

 イゼルローン要塞ではなく、トレセン学園の図書館にその男はいた。

 本来なら歴史の裏側で、微温(ぬる)い紅茶をすくって一生を終えるはずだったヤン・ウェンリー。しかし、運命――あるいは「皇帝」と呼ばれる少女の鋭い眼光は、彼を安楽椅子から引きずり出した。

 根性論の否定、徹底したデータ分析、そして紅茶による契約。

 およそ熱血とは程遠いこの男の「魔術」が、シンボリルドルフという絶対的な才能と噛み合ったとき、ターフの歴史は新たなページを刻み始めた。

 国内無敵。無敗の三冠。

 しかし、皇帝の覇道は、この島国の中だけでは終わらない。

 男の嘆息は深くなるばかりだが、紅茶の湯気はまだ消えてはいないようだ。
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