宝塚記念から数ヶ月。ヤン・ウェンリーの平穏な引退生活は、もはや跡形もなくなっていた。
「アンタ、随分とゴールドシップに振り回されているな」
「……ブライアン。私は今、正直、わけがわからなくなっている」
「らしくもない。それで、次のレースは?」
「天皇賞、秋だそうだ」
彼の部屋は、レース雑誌やウマ娘のデータファイルではなく、カオス理論、フラクタル幾何学、行動心理学に関する難解な専門書で埋め尽くされていた。そして、机の中央には、もはや百科事典のような厚さになった『ゴールドシップ観察日誌』が鎮座している。
「迷惑なら、私と会長でどうにかするが」
「いや、そこまではしなくていい。半分は確かに振り回されているが、半分は私の趣味なんだ」
「……趣味?」
ナリタブライアンが訝しげにゴールドシップ観察日記を持ち上げる。その内容は、トレーナーが見るものとは到底思えなかった。
『気分と天候の相関性に関する考察(曇天時は、突発的な行動の発生確率が12%上昇する傾向)』
『メジロマックイーンとの物理的距離がパフォーマンスに与える正負の影響』
『購買部で販売される焼きそばパンのメーカーによる『ご機嫌指数』の変動について(注:Y社製は機嫌が著しく向上する)』
ヤンは、完全に正気を失っているのかもしれない、と自分で思った。彼はもはや、ウマ娘を分析しているのではない。自然災害や、予測不能な素粒子の動きを記述しようとする、狂気の科学者と化していた。
「これは、趣味なのか?」
「ブライアン、いいかい?一見、無秩序に見える現象にも、必ず隠れたパターン、アトラクタが存在するはず」
「アトラクタ?」
「簡単に言えば、最終的に落ち着く点、と言ったところだ。彼女の行動にも必ずあるはず、なんだ」
独りごちる彼の姿は、かつての落ち着き払った魔術師の面影はなかった。
そして、秋。伝統と格式のG1、天皇賞(秋)がやってきた。
東京競馬場の2000m。ごまかしの効かないスピードと、高度な戦術が要求されるこの舞台で、ゴールドシップのような気まぐれが通用するはずがない、というのが世間の一致した見解だった。
レース前、ヤンはゴールドシップに最新のレポートを提示した。もはやそれは、レースの作戦ではなかった。
「これが、今日の君の『面白がりポイント』の予測値だ」
レポートには、彼女が取りそうな行動が「面白さ」で点数化されたリストが並んでいた。
『スタートで盛大に出遅れる面白さ:35点』
『他のウマ娘の真後ろにぴったりくっついて煽る面白さ:60点』
『突然やる気を出して、ありえない位置から大外を回る面白さ:85点』
『何事もなく普通に走り、普通に勝つ面白さ:測定不能(天変地異の前触れの可能性)』
ゴールドシップは、そのリストを見て腹を抱えて笑った。
「あははは!なんだよコレ!アタシの頭ん中、覗いただろ?」
「君の頭の中は、私ごときの論理で覗けるほど浅くはないさ」
ヤンは、疲れ果てた顔で言った。
「だが、統計的には、君が最も面白がり、かつ、勝利確率が辛うじて0.1%以上残る行動パターンが一つだけ算出された。プラン8-G、『沈黙の艦隊』作戦」
「ちんもくのかんたい?」
「レースの大半を、まるでそこにいないかのように、最後方で息を潜めて動かない。ライバルたちが、そして観客さえもが君の存在を忘れ、油断しきった最後の直線だけで、全てを抜き去る。……まあ、机上の空論だがな」
「……」
ゴールドシップは、ヤンの言葉に、初めて笑いを収め、面白そうにニヤリと口の端を上げた。
「いいじゃん、それ。名前はダセーけど、超面白そうだから、採用!」
そして、天皇賞(秋)のファンファーレが鳴り響く。
ゲートが開いた。
次の瞬間、府中の大観衆がどよめき、そして絶句した。一頭だけ、全く動かない。芦毛のウマ娘、ゴールドシップが、ゲートの中で佇んでいる。
『あ、あーっと、ゴールドシップ動かない!動かないぞ!完全にやる気をなくしてしまったのかーッ!』
実況の悲鳴も、彼女には届かない。
レースは、彼女抜きで超ハイペースで進んでいく。やがて、彼女は思い出したように、とぼとぼと走り始めた。ポツンと一頭、最後方。先頭集団とは、絶望的な差が開いている。誰もが、勝負は終わったと思った。
観客席のヤンだけが、双眼鏡を構え、血の気の引いた顔で呟いていた。
「……本当にやりやがった、あのウマ娘は……」
第4コーナーを回り、最後の直線。激しい先頭争いに、全ての注目が集まる。
その、刹那。府中の長い直線の、一番外側から。
何かが、飛んできた。
それは、音もなく、気配もなく、まるで幻のように現れた。
レースの喧騒を、己の存在で黙らせるかのような、静かで、しかし暴力的で、圧倒的な末脚。歓声が、悲鳴に変わる。何が起きているのか、誰も理解できない。気づいた時には、あの最後方にいたはずの芦毛のウマ娘が、涼しい顔で先頭でゴール板を駆け抜けていた。
レース後、ヤンが『観察日誌』に震える手で結果を書き込んでいると、ゴールドシップがスキップしながらやってきた。
「どーだ!アンタの言った通り、超面白かったぜ!見ただろ!?みんなの、鳩が豆鉄砲食ったみてーな顔!」
ヤンは、顔を上げた。その顔は、恐怖と、畏怖と、そしてほんの少しの歓喜に彩られていた。
「……恐ろしい。本当に、恐ろしいウマ娘だ。私の立てた最もバカげた作戦を、あそこまで完璧に、しかも楽しんでやってのけるとは……。彼女は、私の論理や予測の上で、ただ自由に踊っているに過ぎないのかもしれないな」
「お、なんかよく分かんねーけど、目がキラキラしてるぜ、魔法使い!」
「だから、魔法じゃない。数学だと言っている」
振り回され、疲れ果てているはずのヤンの顔には、いつしかこの非論理的な謎解きそのものを楽しむ、研究者の悦びが浮かんでいた。
「だが、興味深い。実に興味深い。君という『カオス』を記述するための、新しい数式が見つかりそうだ」
「なーんだか難しい事言ってんなぁ?」
その時、ゴールドシップは、売店で買ってきたらしい焼きそばパンを一口かじると、その残りを、無造作にヤンに差し出した。
「ほら、アンタも食えよ。今日の勝利の味だぜ」
ヤンは、一瞬ためらった後、やれやれと首を振りながら、そのパンを受け取って、一口かじった。ソースの味と、キャベツの歯ごたえ。ひどく複雑で、わけがわからなくて、そして、ほんの少しだけ『楽しい味』がした。
「まぁまぁ、かな」
「んだよその反応。せっかくゴルシちゃんが用意した焼きそばパンだってのによー」
魔術師と女神の、奇妙な航海の目的地は、まだ誰にも分からない。