ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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怪物と魔術師 伍―カオス理論と女神の気まぐれ

 宝塚記念から数ヶ月。ヤン・ウェンリーの平穏な引退生活は、もはや跡形もなくなっていた。

 

「アンタ、随分とゴールドシップに振り回されているな」

「……ブライアン。私は今、正直、わけがわからなくなっている」

「らしくもない。それで、次のレースは?」

「天皇賞、秋だそうだ」

 

 彼の部屋は、レース雑誌やウマ娘のデータファイルではなく、カオス理論、フラクタル幾何学、行動心理学に関する難解な専門書で埋め尽くされていた。そして、机の中央には、もはや百科事典のような厚さになった『ゴールドシップ観察日誌』が鎮座している。

 

「迷惑なら、私と会長でどうにかするが」

「いや、そこまではしなくていい。半分は確かに振り回されているが、半分は私の趣味なんだ」

「……趣味?」

 

 ナリタブライアンが訝しげにゴールドシップ観察日記を持ち上げる。その内容は、トレーナーが見るものとは到底思えなかった。

 

『気分と天候の相関性に関する考察(曇天時は、突発的な行動の発生確率が12%上昇する傾向)』

『メジロマックイーンとの物理的距離がパフォーマンスに与える正負の影響』

『購買部で販売される焼きそばパンのメーカーによる『ご機嫌指数』の変動について(注:Y社製は機嫌が著しく向上する)』

 

 ヤンは、完全に正気を失っているのかもしれない、と自分で思った。彼はもはや、ウマ娘を分析しているのではない。自然災害や、予測不能な素粒子の動きを記述しようとする、狂気の科学者と化していた。

 

「これは、趣味なのか?」

「ブライアン、いいかい?一見、無秩序に見える現象にも、必ず隠れたパターン、アトラクタが存在するはず」

「アトラクタ?」

「簡単に言えば、最終的に落ち着く点、と言ったところだ。彼女の行動にも必ずあるはず、なんだ」

 

 独りごちる彼の姿は、かつての落ち着き払った魔術師の面影はなかった。

 

 そして、秋。伝統と格式のG1、天皇賞(秋)がやってきた。

 

 東京競馬場の2000m。ごまかしの効かないスピードと、高度な戦術が要求されるこの舞台で、ゴールドシップのような気まぐれが通用するはずがない、というのが世間の一致した見解だった。

 

 レース前、ヤンはゴールドシップに最新のレポートを提示した。もはやそれは、レースの作戦ではなかった。

 

「これが、今日の君の『面白がりポイント』の予測値だ」

 

 レポートには、彼女が取りそうな行動が「面白さ」で点数化されたリストが並んでいた。

 

『スタートで盛大に出遅れる面白さ:35点』

『他のウマ娘の真後ろにぴったりくっついて煽る面白さ:60点』

『突然やる気を出して、ありえない位置から大外を回る面白さ:85点』

『何事もなく普通に走り、普通に勝つ面白さ:測定不能(天変地異の前触れの可能性)』

 

 ゴールドシップは、そのリストを見て腹を抱えて笑った。

 

「あははは!なんだよコレ!アタシの頭ん中、覗いただろ?」

「君の頭の中は、私ごときの論理で覗けるほど浅くはないさ」

 

 ヤンは、疲れ果てた顔で言った。

 

「だが、統計的には、君が最も面白がり、かつ、勝利確率が辛うじて0.1%以上残る行動パターンが一つだけ算出された。プラン8-G、『沈黙の艦隊』作戦」

 

「ちんもくのかんたい?」

 

「レースの大半を、まるでそこにいないかのように、最後方で息を潜めて動かない。ライバルたちが、そして観客さえもが君の存在を忘れ、油断しきった最後の直線だけで、全てを抜き去る。……まあ、机上の空論だがな」

 

「……」

 

 ゴールドシップは、ヤンの言葉に、初めて笑いを収め、面白そうにニヤリと口の端を上げた。

 

「いいじゃん、それ。名前はダセーけど、超面白そうだから、採用!」

 

 そして、天皇賞(秋)のファンファーレが鳴り響く。

 

 ゲートが開いた。

 

 次の瞬間、府中の大観衆がどよめき、そして絶句した。一頭だけ、全く動かない。芦毛のウマ娘、ゴールドシップが、ゲートの中で佇んでいる。

 

『あ、あーっと、ゴールドシップ動かない!動かないぞ!完全にやる気をなくしてしまったのかーッ!』

 

 実況の悲鳴も、彼女には届かない。

 

 レースは、彼女抜きで超ハイペースで進んでいく。やがて、彼女は思い出したように、とぼとぼと走り始めた。ポツンと一頭、最後方。先頭集団とは、絶望的な差が開いている。誰もが、勝負は終わったと思った。

 

 観客席のヤンだけが、双眼鏡を構え、血の気の引いた顔で呟いていた。

 

「……本当にやりやがった、あのウマ娘は……」

 

 第4コーナーを回り、最後の直線。激しい先頭争いに、全ての注目が集まる。

 

 その、刹那。府中の長い直線の、一番外側から。

 

 何かが、飛んできた。

 

 それは、音もなく、気配もなく、まるで幻のように現れた。

 

 レースの喧騒を、己の存在で黙らせるかのような、静かで、しかし暴力的で、圧倒的な末脚。歓声が、悲鳴に変わる。何が起きているのか、誰も理解できない。気づいた時には、あの最後方にいたはずの芦毛のウマ娘が、涼しい顔で先頭でゴール板を駆け抜けていた。

 

 レース後、ヤンが『観察日誌』に震える手で結果を書き込んでいると、ゴールドシップがスキップしながらやってきた。

 

「どーだ!アンタの言った通り、超面白かったぜ!見ただろ!?みんなの、鳩が豆鉄砲食ったみてーな顔!」

 

 ヤンは、顔を上げた。その顔は、恐怖と、畏怖と、そしてほんの少しの歓喜に彩られていた。

 

「……恐ろしい。本当に、恐ろしいウマ娘だ。私の立てた最もバカげた作戦を、あそこまで完璧に、しかも楽しんでやってのけるとは……。彼女は、私の論理や予測の上で、ただ自由に踊っているに過ぎないのかもしれないな」

 

「お、なんかよく分かんねーけど、目がキラキラしてるぜ、魔法使い!」

 

「だから、魔法じゃない。数学だと言っている」

 

 振り回され、疲れ果てているはずのヤンの顔には、いつしかこの非論理的な謎解きそのものを楽しむ、研究者の悦びが浮かんでいた。

 

「だが、興味深い。実に興味深い。君という『カオス』を記述するための、新しい数式が見つかりそうだ」

「なーんだか難しい事言ってんなぁ?」

 

 その時、ゴールドシップは、売店で買ってきたらしい焼きそばパンを一口かじると、その残りを、無造作にヤンに差し出した。

 

「ほら、アンタも食えよ。今日の勝利の味だぜ」

 

 ヤンは、一瞬ためらった後、やれやれと首を振りながら、そのパンを受け取って、一口かじった。ソースの味と、キャベツの歯ごたえ。ひどく複雑で、わけがわからなくて、そして、ほんの少しだけ『楽しい味』がした。

 

「まぁまぁ、かな」

「んだよその反応。せっかくゴルシちゃんが用意した焼きそばパンだってのによー」

 

 魔術師と女神の、奇妙な航海の目的地は、まだ誰にも分からない。

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