ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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怪物と魔術師 陸―魔術師の悪戯と女神の円舞曲

 天皇賞(秋)での「沈黙の艦隊」作戦の勝利により、「ヤン・ウェンリー&ゴールドシップ」コンビは、もはや畏怖と困惑の対象となっていた。

 

 メディアは特集を組み、「魔術師、混沌を制す」「ヤンの奇策か、女神の気まぐれか、あるいはただの偶然か」と騒ぎ立てる。他のトレーナーたちは、その常軌を逸した指導法(?)を前に、ただ首を傾げるばかりだった。

 

 当のヤンは、自室でついにウマ娘のトレーニング理論に関する本を全て本棚の奥にしまい込み、代わりにゲーム理論や量子力学の専門書を読みふけっていた。

 

「観測されるまで、彼女の行動は確定しない。ゲートが開く瞬間まで、彼女は『やる気がある状態』と『やる気がない状態』の重ね合わせで存在している……。まさに、シュレーディンガーのウマ娘か……」

 

 その呟きは、もはやトレーナーのものではなかった。

 

 一方のゴールドシップは、ヤンから定期的に渡される奇妙な「分析レポート」や「課題」を、最高の遊び道具として心底楽しんでいた。彼女にとって、ヤンは自分を型にはめようとしない、唯一にして最高の「面白い大人」だった。

 

 そして、季節は巡り、年末のドリームレース・有マ記念。ファン投票はもちろん1位。ファンが、そして日本中が夢見るのは、ゴールドシップが巻き起こすであろう、予測不能の「面白いレース」だった。

 

 レース数日前。ヤンは、勝手にヤンのソファで昼寝していたゴールドシップに、あるものを差し出した。

 

「これが、有マ記念の作戦だ」

 

 ヤンが渡したのは、一枚の紙きれ。そこに書かれていたのは、たった一行。

 

『今回の作戦:なし。君の好きにしろ。』

 

 ゴールドシップは、目を丸くした。

 

「は?なんだよ、今回は『面白作戦』はなしか?魔術師の戦術、結構気に入ってたのによ。アンタ、もしかして飽きちまったのかよ。魔法使いさん?」

 

 ヤンの口元に、初めて不敵な笑みが浮かんだ。それは、かつて数万の艦隊を翻弄した、魔術師の顔だった。

 

「いいや。今回は、君が私をどう驚かせるかを、特等席で観測させてもらう。私の予測は、ただ一つだ。『君は、私の想像を必ず、そして遥かに超えてくる』。それだけだよ。いわば、これは私から君への挑戦状だ」

 

 ヤンは、賭けに出た。あえて全ての指示を手放し、彼女を完全な自由という名の白紙のキャンバスに放り込む。そうすることで、彼女の「退屈メーター」を極限まで下げ、自発的に「最高に面白いこと」をせざるを得ない状況に追い込む。

 

 それは、ヤンが仕掛けた、究極の「お任せ作戦」という名の、悪戯だった。

 

 ゴールドシップは、ヤンの挑戦的な視線を真正面から受け止めると、ニィッと、最高の笑顔で言った。

 

「……上等じゃねーか。アンタを心臓発作でぶっ倒れさせてやるよ!」

 

 有マ記念当日。中山競馬場は、期待と興奮で張り裂けんばかりだった。ゲート裏。ゴールドシップは、いつになく静かだった。ヤンの挑戦状に対し、彼女は彼女なりに、最高の「答え」を導き出そうとしていた。

 

 ファンファーレが鳴り響き、ゲートが開く。

 

 その瞬間、中山に集まった10万人の観客が、我が目を疑う光景を目撃する。ゴールドシップが、完璧なスタートを切った。そして、誰一人の予想だにしなかった行動に出る。

 

 先頭に立ち、ハナを切り、大逃げを敢行したのだ。

 

『な、なんだーっ!ゴールドシップが大逃げ!こんなことは今まで一度もなかった!今日は最初からやる気満々だ!しかし、このトリッキーな中山のコースで、このペースで最後まで持つのかーッ!?』

 

 実況席も、スタンドも、大混乱に陥る。あの気まぐれで、後方からふらふら走るのが彼女だったはずだ。観客席のヤンですら、この展開は予測していなかった。彼は双眼鏡を握りしめ、ゴクリと唾を飲む。

 

「……そう来たか!こちらの白紙の答案に対し、最も大胆な色で塗りつぶしに来るとは!」

 

 ゴールドシップは、ただひたすらに、楽しそうだった。

 

 まるで舞うように、軽快なステップで、後続との差を広げていく。彼女が作り出した不可解で、しかしハイペースな展開に、他の実力者たちは完全にペースを乱されていた。仕掛けるべきか、待つべきか。誰一人、答えを出せない。レースそのものが、完全に彼女の独壇場、彼女一人の舞台と化していた。

 

 そして、最後の直線。

 

 さすがに脚色が鈍るか、と誰もが思った、その時。彼女は、そこからもう一度、伸びた。後続が必死に追いすがってくる。だが、まるで遊んでいるかのように、その差は一向に縮まらない。

 

 それどころか、彼女はゴール前でわざとターフビジョンに映る自分をチラリと確認し、後続が迫るのを待つかのような余裕さえ見せつけ、そして再び突き放して、悠々とゴールした。

 

 それは、ただの圧勝ではなかった。レースという筋書きのあるドラマを、主演・脚本・監督、全て自分一人で演じきってみせた、完璧な「円舞曲(ワルツ)」だった。

 

 レース後。ヤンの前に現れたゴールドシップは、汗を輝かせ、得意げに胸を張った。

 

「どーだ!アンタの想像、超えてやったぜ!心臓、止まったか?」

 

 ヤンは、双眼鏡を静かに下ろした。その顔には、困惑でも、疲労でもなく、心の底からの賞賛と、幸福な降伏の色が浮かんでいた。

 

「……完敗だ。私の負けだよ、ゴールドシップ」

 

 彼は、深く、そして満足げなため息をついた。

 

「君は、ただの混沌ではない。混沌そのものを自由自在に操り、美しい芸術にまで昇華させてしまう……もはや、女神か何かの類だな」

 

「だろー!?今日からゴルシちゃん女神って呼べよな!」

 

 ヤンは、『観察日誌』の最後のページを開いた。そして、そこに、こう書き記した。

 

結論:ゴールドシップの予測は、不可能。観測し、記述し、そして、ただ驚嘆することしか、我々凡人には許されていない。

 

 彼は、万感の思いを込めて、その日誌をパタンと閉じた。

 

「さて、ゴールドシップ。祝勝会と行こうか。約束通り、君の好きなだけ、焼きそばパンを買ってきてやる」

 

「マジ!?5個な!いや10個!いやいや、トレピッピの財布が空んなるまで食ってやるぜー!」

 

「……財政が破綻しない範囲でお願いしたいなあ」

 

 夕暮れの中山競馬場を、二人は並んで歩いていく。

 

「なぁ、トレーナー。オメーの夢ってなんなんだ?」

「唐突だね?」

 

 魔術師は、ついに非論理的な女神を理解することを諦め、ただその隣で、最高の観客であり続けることを選んだ。そして、その関係は、これまでで最も楽しく、刺激的で、そして多分、最強のコンビネレーションなのかもしれない、と彼は本気で思い始めていた。

 

「既に今、叶っている。そう言っても過言ではないだろうね」

 

 とはいえ、この黄金船の行き先は未だに見えず。ヤン・ウェンリーの平穏な引退生活は、まだ当分、訪れそうにない。

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