天皇賞(秋)での「沈黙の艦隊」作戦の勝利により、「ヤン・ウェンリー&ゴールドシップ」コンビは、もはや畏怖と困惑の対象となっていた。
メディアは特集を組み、「魔術師、混沌を制す」「ヤンの奇策か、女神の気まぐれか、あるいはただの偶然か」と騒ぎ立てる。他のトレーナーたちは、その常軌を逸した指導法(?)を前に、ただ首を傾げるばかりだった。
当のヤンは、自室でついにウマ娘のトレーニング理論に関する本を全て本棚の奥にしまい込み、代わりにゲーム理論や量子力学の専門書を読みふけっていた。
「観測されるまで、彼女の行動は確定しない。ゲートが開く瞬間まで、彼女は『やる気がある状態』と『やる気がない状態』の重ね合わせで存在している……。まさに、シュレーディンガーのウマ娘か……」
その呟きは、もはやトレーナーのものではなかった。
一方のゴールドシップは、ヤンから定期的に渡される奇妙な「分析レポート」や「課題」を、最高の遊び道具として心底楽しんでいた。彼女にとって、ヤンは自分を型にはめようとしない、唯一にして最高の「面白い大人」だった。
そして、季節は巡り、年末のドリームレース・有マ記念。ファン投票はもちろん1位。ファンが、そして日本中が夢見るのは、ゴールドシップが巻き起こすであろう、予測不能の「面白いレース」だった。
レース数日前。ヤンは、勝手にヤンのソファで昼寝していたゴールドシップに、あるものを差し出した。
「これが、有マ記念の作戦だ」
ヤンが渡したのは、一枚の紙きれ。そこに書かれていたのは、たった一行。
『今回の作戦:なし。君の好きにしろ。』
ゴールドシップは、目を丸くした。
「は?なんだよ、今回は『面白作戦』はなしか?魔術師の戦術、結構気に入ってたのによ。アンタ、もしかして飽きちまったのかよ。魔法使いさん?」
ヤンの口元に、初めて不敵な笑みが浮かんだ。それは、かつて数万の艦隊を翻弄した、魔術師の顔だった。
「いいや。今回は、君が私をどう驚かせるかを、特等席で観測させてもらう。私の予測は、ただ一つだ。『君は、私の想像を必ず、そして遥かに超えてくる』。それだけだよ。いわば、これは私から君への挑戦状だ」
ヤンは、賭けに出た。あえて全ての指示を手放し、彼女を完全な自由という名の白紙のキャンバスに放り込む。そうすることで、彼女の「退屈メーター」を極限まで下げ、自発的に「最高に面白いこと」をせざるを得ない状況に追い込む。
それは、ヤンが仕掛けた、究極の「お任せ作戦」という名の、悪戯だった。
ゴールドシップは、ヤンの挑戦的な視線を真正面から受け止めると、ニィッと、最高の笑顔で言った。
「……上等じゃねーか。アンタを心臓発作でぶっ倒れさせてやるよ!」
有マ記念当日。中山競馬場は、期待と興奮で張り裂けんばかりだった。ゲート裏。ゴールドシップは、いつになく静かだった。ヤンの挑戦状に対し、彼女は彼女なりに、最高の「答え」を導き出そうとしていた。
ファンファーレが鳴り響き、ゲートが開く。
その瞬間、中山に集まった10万人の観客が、我が目を疑う光景を目撃する。ゴールドシップが、完璧なスタートを切った。そして、誰一人の予想だにしなかった行動に出る。
先頭に立ち、ハナを切り、大逃げを敢行したのだ。
『な、なんだーっ!ゴールドシップが大逃げ!こんなことは今まで一度もなかった!今日は最初からやる気満々だ!しかし、このトリッキーな中山のコースで、このペースで最後まで持つのかーッ!?』
実況席も、スタンドも、大混乱に陥る。あの気まぐれで、後方からふらふら走るのが彼女だったはずだ。観客席のヤンですら、この展開は予測していなかった。彼は双眼鏡を握りしめ、ゴクリと唾を飲む。
「……そう来たか!こちらの白紙の答案に対し、最も大胆な色で塗りつぶしに来るとは!」
ゴールドシップは、ただひたすらに、楽しそうだった。
まるで舞うように、軽快なステップで、後続との差を広げていく。彼女が作り出した不可解で、しかしハイペースな展開に、他の実力者たちは完全にペースを乱されていた。仕掛けるべきか、待つべきか。誰一人、答えを出せない。レースそのものが、完全に彼女の独壇場、彼女一人の舞台と化していた。
そして、最後の直線。
さすがに脚色が鈍るか、と誰もが思った、その時。彼女は、そこからもう一度、伸びた。後続が必死に追いすがってくる。だが、まるで遊んでいるかのように、その差は一向に縮まらない。
それどころか、彼女はゴール前でわざとターフビジョンに映る自分をチラリと確認し、後続が迫るのを待つかのような余裕さえ見せつけ、そして再び突き放して、悠々とゴールした。
それは、ただの圧勝ではなかった。レースという筋書きのあるドラマを、主演・脚本・監督、全て自分一人で演じきってみせた、完璧な「円舞曲(ワルツ)」だった。
レース後。ヤンの前に現れたゴールドシップは、汗を輝かせ、得意げに胸を張った。
「どーだ!アンタの想像、超えてやったぜ!心臓、止まったか?」
ヤンは、双眼鏡を静かに下ろした。その顔には、困惑でも、疲労でもなく、心の底からの賞賛と、幸福な降伏の色が浮かんでいた。
「……完敗だ。私の負けだよ、ゴールドシップ」
彼は、深く、そして満足げなため息をついた。
「君は、ただの混沌ではない。混沌そのものを自由自在に操り、美しい芸術にまで昇華させてしまう……もはや、女神か何かの類だな」
「だろー!?今日からゴルシちゃん女神って呼べよな!」
ヤンは、『観察日誌』の最後のページを開いた。そして、そこに、こう書き記した。
『結論:ゴールドシップの予測は、不可能。観測し、記述し、そして、ただ驚嘆することしか、我々凡人には許されていない。』
彼は、万感の思いを込めて、その日誌をパタンと閉じた。
「さて、ゴールドシップ。祝勝会と行こうか。約束通り、君の好きなだけ、焼きそばパンを買ってきてやる」
「マジ!?5個な!いや10個!いやいや、トレピッピの財布が空んなるまで食ってやるぜー!」
「……財政が破綻しない範囲でお願いしたいなあ」
夕暮れの中山競馬場を、二人は並んで歩いていく。
「なぁ、トレーナー。オメーの夢ってなんなんだ?」
「唐突だね?」
魔術師は、ついに非論理的な女神を理解することを諦め、ただその隣で、最高の観客であり続けることを選んだ。そして、その関係は、これまでで最も楽しく、刺激的で、そして多分、最強のコンビネレーションなのかもしれない、と彼は本気で思い始めていた。
「既に今、叶っている。そう言っても過言ではないだろうね」
とはいえ、この黄金船の行き先は未だに見えず。ヤン・ウェンリーの平穏な引退生活は、まだ当分、訪れそうにない。