有マ記念での「円舞曲」の後、ヤン・ウェンリーはついに悟りの境地に達した、のかもしれない。
彼はゴールドシップを予測、理解することを諦めた。その代わり、彼はただ、この世で最も刺激的な特等席で、予測不能な女神が巻き起こす奇跡と厄介事を、できるだけ美味しい紅茶と共に観測することにした。
彼の『観察日誌』は、もはや分析レポートではなく、叙事詩か、あるいは怪奇現象の記録集と化している。
ある意味、平穏とは言えないまでも、奇妙に安定した日々。ルドルフに練習メニューを渡し、ブライアンにレポートを渡し、ゴールドシップの遊びに付き合う日々だが、その均衡は、いつだって女神の気まぐれによって破られる。
ある晴れた日の午後、ヤンの部屋のドアが珍しく、壊されずに開いた。同時にゴールドシップが、一枚の旅行雑誌を手に飛び込んできた。
「よーっす、魔法使い!見てみろよ、これ!」
彼女がヤンの顔に突きつけたページには、フランス・パリの風景が広がっていた。エッフェル塔、凱旋門、そして、緑の美しいロンシャンレース場。
「なんだかよく分かんねーけど、すっげーデカい遊び場があるらしいぜ!よし、行くぞ!凱旋門賞!」
ヤンは、読んでいた古代戦記の本から顔を上げた。そして、一言。
「却下だ」
即答だった。
「いいかね。海外遠征は兵站、つまりロジスティクスの悪夢だ。未知の環境、未知のデータ、未知の芝、未知のライバル。そして何より、言語の壁と面倒極まりない検疫手続き。君という、ただでさえ予測不能な存在を、そんな不確定要素の塊の中に放り込むなど、自殺行為に等しい」
物分かりの良い、今のシンボリルドルフならば『確かにね』と納得したであろうヤンの完璧な正論は、ゴールドシップには一切通用しなかった。
「へーきへーき!なんとかなるって!じゃ、理事長に言ってくる!」
言うが早いか、彼女は再び嵐のように去っていった。ヤンはため息をつき、まあ、理事長が許可するはずがない、と高を括っていた。
その翌日。ヤンの部屋に、理事長自らが、一枚の書類と小さな冊子を持って現れた。
「決定ッ!である!ゴールドシップの凱旋門賞挑戦を、学園として全面バックアップする!そしてこれは、ヤン君が凱旋門に挑むと言うことで、全面支援を申し出た名家のリストである!」
「……職権濫用では?」
「未来への投資である!そもそも、シンボリルドルフを凱旋門で勝たせた君が動くのならば、こうなるのは当然だろう!」
理事長の満面の笑みを前に、ヤンは己の運命を呪った。ヤンがあれこれ言う前に、外堀は、完全に埋められていたのだから。
フランス行きを逃れられないと悟ったヤンは、再び研究に没頭し始めた。だが、彼が取り寄せる資料は、ロンシャンレース場のデータだけではなかった。
パリの観光ガイド、フランスの文化史、現地の食事のマナー、そして、難解なフランス語会話集。シンボリルドルフの遠征ではあり得なかった様々な知識を集め、日々、糧にしていく。
彼は、新たな日誌を開いた。
『対ゴールドシップ海外遠征リスク管理報告書』
その内容は、悲壮感に満ちていた。
『第1章:渡航中のリスクについて。エコノミークラス症候群よりも、エコノミーで退屈した対象が、機内でプロレスを始める確率の方が遥かに高い(推定48%)』
『第2章:パリ市内における潜在的危険。ルーブル美術館(モナ・リザに落書きをする危険性:65%)。ベルサイユ宮殿(私が王だと宣言する危険性:80%)』
『第3章:レース本番について。伝統と格式を重んじるロンシャンレース場。対象がその雰囲気を『堅苦しくて、つまらない』と判断し、レース中に観客と記念撮影を始める確率:99.8%』
彼の計画は、もはやゴールドシップを勝たせることではなかった。いかにして、国際問題を起こさずに日本へ生還するか。それだけが、彼の目標となっていた。
「楽しそうで何よりだ。トレーナー君」
「そう見えるならば、皇帝陛下。今の貴女は間違いなく眼が曇っていると断言できるよ」
「そうかな?」
「そうだとも。ああ、いっそ、ゴールドシップの気が変わって、ヤッパリ凱旋門はやーめた、とか言ってくれないものかな」
「はは。まぁ、それは無いだろう。彼女はああ見えて、謹厳実直なウマ娘だからね」
そして、こういう時に限って、ゴールドシップもヤンも何も障害など無かったように、すんなりとパリに降り立つのだから、人生とは不思議なものであるな、などとヤンが思ったのも束の間。
ヤンの懸念は、到着後すぐに現実のものとなる。
ゴールドシップは、凱旋門の周りを走る車と競争しようとし、セーヌ川の遊覧船に向かって手を振り続け、街角のパントマイムアーティストにドロップキックを仕掛けようとした。
ヤンは、飛行機の中で必死に覚えた付け焼き刃のフランス語で、謝罪を繰り返しながら彼女を追いかける羽目になった。
「ぱ、ぱるどん、むっしゅー……。あの子は、その……とれ、えねるぎっしゅ……?」
(助けてくれユリアン。私は異国の地で、意味の分からない言葉を叫びながら、芦毛の怪物に引きずり回されている)
ヨーロッパの競馬関係者やメディアは、この奇妙な二人組を、困惑と侮りの目で見つめていた。日本の絶対王者が、なぜあんな道化のような振る舞いをしているのか。
そして、あの生気の抜けた顔で彼女に付き従う男は、本当にあのルドルフやブライアンを育てた伝説のトレーナーなのか、と。
レース前夜。
ヤンは、ゴールドシップに作戦を伝えなかった。無意味だからだ。
その代わり、彼はパリの夜景が見えるホテルの窓辺で、一枚の地図を広げた。
「いいかね、ゴールドシップ。これが、明日の君の『遊び場』だ」
彼が指さしたのは、ロンシャンレース場。
「そして、あれが」
ヤンは、遠くに煌めくエッフェル塔を指さした。
「君への、私からの『ご褒美』だ。もし君が、明日のレースで勝てたら……あの塔の一番上まで連れて行ってやろう。そこからなら、君が今日一日、滅茶苦茶にしたこの美しい街の全部が見渡せるはずだ」
それは、作戦でも、予測でもなかった。
混沌の女神の、子供のような征服欲と好奇心に、真正面から語りかける、ただ一つの、シンプルな約束。
ゴールドシップは、ヤンの言葉に、初めて静かに、そして力強く頷いた。
翌日、凱旋門賞。
世界最高峰のウマ娘たちが集う、ロンシャンのパドック。ゴールドシップは、いつものようにおどけている。だが、その瞳の奥には、これまでとは違う、静かな闘志の炎が宿っていた。
ヤンは、観客席で一人、紅茶の入った水筒を握りしめ、呟いた。
「さあ、女神様。世界という最高の舞台で、一体、どんな悪戯を見せてくれるんだい?」
ゲートが開く。
魔術師の、そして世界の想像を超えた、女神の円舞曲が、今、始まろうとしていた。