ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

12 / 86
女神と魔術師−魔術師の航海計画と女神の寄港地

 有マ記念での「円舞曲」の後、ヤン・ウェンリーはついに悟りの境地に達した、のかもしれない。

 

 彼はゴールドシップを予測、理解することを諦めた。その代わり、彼はただ、この世で最も刺激的な特等席で、予測不能な女神が巻き起こす奇跡と厄介事を、できるだけ美味しい紅茶と共に観測することにした。

 彼の『観察日誌』は、もはや分析レポートではなく、叙事詩か、あるいは怪奇現象の記録集と化している。

 

 ある意味、平穏とは言えないまでも、奇妙に安定した日々。ルドルフに練習メニューを渡し、ブライアンにレポートを渡し、ゴールドシップの遊びに付き合う日々だが、その均衡は、いつだって女神の気まぐれによって破られる。

 

 ある晴れた日の午後、ヤンの部屋のドアが珍しく、壊されずに開いた。同時にゴールドシップが、一枚の旅行雑誌を手に飛び込んできた。

 

「よーっす、魔法使い!見てみろよ、これ!」

 

 彼女がヤンの顔に突きつけたページには、フランス・パリの風景が広がっていた。エッフェル塔、凱旋門、そして、緑の美しいロンシャンレース場。

 

「なんだかよく分かんねーけど、すっげーデカい遊び場があるらしいぜ!よし、行くぞ!凱旋門賞!」

 

 ヤンは、読んでいた古代戦記の本から顔を上げた。そして、一言。

 

「却下だ」

 

 即答だった。

 

「いいかね。海外遠征は兵站、つまりロジスティクスの悪夢だ。未知の環境、未知のデータ、未知の芝、未知のライバル。そして何より、言語の壁と面倒極まりない検疫手続き。君という、ただでさえ予測不能な存在を、そんな不確定要素の塊の中に放り込むなど、自殺行為に等しい」

 

 物分かりの良い、今のシンボリルドルフならば『確かにね』と納得したであろうヤンの完璧な正論は、ゴールドシップには一切通用しなかった。

 

「へーきへーき!なんとかなるって!じゃ、理事長に言ってくる!」

 

 言うが早いか、彼女は再び嵐のように去っていった。ヤンはため息をつき、まあ、理事長が許可するはずがない、と高を括っていた。

 

 その翌日。ヤンの部屋に、理事長自らが、一枚の書類と小さな冊子を持って現れた。

 

「決定ッ!である!ゴールドシップの凱旋門賞挑戦を、学園として全面バックアップする!そしてこれは、ヤン君が凱旋門に挑むと言うことで、全面支援を申し出た名家のリストである!」

 

「……職権濫用では?」

 

「未来への投資である!そもそも、シンボリルドルフを凱旋門で勝たせた君が動くのならば、こうなるのは当然だろう!」

 

 理事長の満面の笑みを前に、ヤンは己の運命を呪った。ヤンがあれこれ言う前に、外堀は、完全に埋められていたのだから。

 

 フランス行きを逃れられないと悟ったヤンは、再び研究に没頭し始めた。だが、彼が取り寄せる資料は、ロンシャンレース場のデータだけではなかった。

 

 パリの観光ガイド、フランスの文化史、現地の食事のマナー、そして、難解なフランス語会話集。シンボリルドルフの遠征ではあり得なかった様々な知識を集め、日々、糧にしていく。

 

 彼は、新たな日誌を開いた。

 

『対ゴールドシップ海外遠征リスク管理報告書』

 

 その内容は、悲壮感に満ちていた。

 

『第1章:渡航中のリスクについて。エコノミークラス症候群よりも、エコノミーで退屈した対象が、機内でプロレスを始める確率の方が遥かに高い(推定48%)』

 

『第2章:パリ市内における潜在的危険。ルーブル美術館(モナ・リザに落書きをする危険性:65%)。ベルサイユ宮殿(私が王だと宣言する危険性:80%)』

 

『第3章:レース本番について。伝統と格式を重んじるロンシャンレース場。対象がその雰囲気を『堅苦しくて、つまらない』と判断し、レース中に観客と記念撮影を始める確率:99.8%』

 

 彼の計画は、もはやゴールドシップを勝たせることではなかった。いかにして、国際問題を起こさずに日本へ生還するか。それだけが、彼の目標となっていた。

 

「楽しそうで何よりだ。トレーナー君」

「そう見えるならば、皇帝陛下。今の貴女は間違いなく眼が曇っていると断言できるよ」

「そうかな?」

「そうだとも。ああ、いっそ、ゴールドシップの気が変わって、ヤッパリ凱旋門はやーめた、とか言ってくれないものかな」

「はは。まぁ、それは無いだろう。彼女はああ見えて、謹厳実直なウマ娘だからね」

 

 そして、こういう時に限って、ゴールドシップもヤンも何も障害など無かったように、すんなりとパリに降り立つのだから、人生とは不思議なものであるな、などとヤンが思ったのも束の間。

 

 ヤンの懸念は、到着後すぐに現実のものとなる。

 

 ゴールドシップは、凱旋門の周りを走る車と競争しようとし、セーヌ川の遊覧船に向かって手を振り続け、街角のパントマイムアーティストにドロップキックを仕掛けようとした。

 

 ヤンは、飛行機の中で必死に覚えた付け焼き刃のフランス語で、謝罪を繰り返しながら彼女を追いかける羽目になった。

 

「ぱ、ぱるどん、むっしゅー……。あの子は、その……とれ、えねるぎっしゅ……?」

 

(助けてくれユリアン。私は異国の地で、意味の分からない言葉を叫びながら、芦毛の怪物に引きずり回されている)

 

 ヨーロッパの競馬関係者やメディアは、この奇妙な二人組を、困惑と侮りの目で見つめていた。日本の絶対王者が、なぜあんな道化のような振る舞いをしているのか。

 

 そして、あの生気の抜けた顔で彼女に付き従う男は、本当にあのルドルフやブライアンを育てた伝説のトレーナーなのか、と。

 

 レース前夜。

 

 ヤンは、ゴールドシップに作戦を伝えなかった。無意味だからだ。

 

 その代わり、彼はパリの夜景が見えるホテルの窓辺で、一枚の地図を広げた。

 

「いいかね、ゴールドシップ。これが、明日の君の『遊び場』だ」

 

 彼が指さしたのは、ロンシャンレース場。

 

「そして、あれが」

 

 ヤンは、遠くに煌めくエッフェル塔を指さした。

 

「君への、私からの『ご褒美』だ。もし君が、明日のレースで勝てたら……あの塔の一番上まで連れて行ってやろう。そこからなら、君が今日一日、滅茶苦茶にしたこの美しい街の全部が見渡せるはずだ」

 

 それは、作戦でも、予測でもなかった。

 

 混沌の女神の、子供のような征服欲と好奇心に、真正面から語りかける、ただ一つの、シンプルな約束。

 

 ゴールドシップは、ヤンの言葉に、初めて静かに、そして力強く頷いた。

 

 翌日、凱旋門賞。

 

 世界最高峰のウマ娘たちが集う、ロンシャンのパドック。ゴールドシップは、いつものようにおどけている。だが、その瞳の奥には、これまでとは違う、静かな闘志の炎が宿っていた。

 

 ヤンは、観客席で一人、紅茶の入った水筒を握りしめ、呟いた。

 

「さあ、女神様。世界という最高の舞台で、一体、どんな悪戯を見せてくれるんだい?」

 

 ゲートが開く。

 

 魔術師の、そして世界の想像を超えた、女神の円舞曲が、今、始まろうとしていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。