ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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女神が届けたラプソディ

 凱旋門賞。世界中のホースマンが憧れる、ロンシャンのターフ。

 

 伝統と格式に彩られたその場所に、日本の芦毛のウマ娘は、いつも通りの飄々とした態度で立っていた。時折、観客席に手を振ったり、地団駄を踏んだりしている。

 

 欧州のメディアや関係者は、侮りと好奇の目を彼女に向ける。

 

「本当に強いのか?」

「ただの変わり者ではないのか?」

 

 観客席の片隅で、ヤン・ウェンリーは、紅茶の入った水筒を握りしめ、ただ静かにゲートが開くのを待っていた。

 彼の頭の中には、もはや作戦も、シミュレーションもなかった。あるのは、昨夜交わした、女神とのたった一つの約束だけだ。

 

 ファンファーレが鳴り響き、ゲートが開く。

 

 その瞬間、ロンシャンに集まった観衆は、最初の衝撃を受けることになる。

 

 ゴールドシップが、完璧なスタートを切ったのだ。

 

 これまでの彼女のレースを知る者ほど、その「普通さ」に度肝を抜かれた。

 

『おっと、ゴールドシップ、今日は真面目に走る気か?素晴らしいスタートです!』

 

 解説者の声も、どこか拍子抜けしている。だが、ヤンだけは、その完璧なスタートに、背筋が凍るのを感じていた。

 

「……一番、嫌な予感がするスタートだ。嵐の前は、いつだって静かなものだからね……」

 

 レースは、欧州の猛者たちが作る淀みないペースで進んでいく。ゴールドシップは、まるで優等生のように、好位集団の内側でじっと脚を溜めていた。あまりに普通すぎて、逆に不気味なほどだった。

 

 ロンシャン名物、偽りの直線『フォルスストレート』。

 

 ここで毎年、幾多のウマ娘たちが焦って仕掛け、最後の直線で沈んでいく。今年も、世界のトップウマ娘たちが動き出し、激しいポジション争いが始まった。

 

 しかし、ゴールドシップは動かない。まるで、周りの喧騒など我関せずと、眠っているかのように静かだった。

 

 ヤンは双眼鏡を構え、思考を巡らせる。

 

(これまでのデータなら、この展開の退屈さに耐えきれず、間違いなく何か仕掛けるはずだ。だが、動かない。一体何を考えている……?まさか、本当に最後まで普通に走る気か?いや、そんなはずはない。彼女は、私の想像を、必ず超えてくるはずだ!)

 

 そして、運命の最後の直線。

 

 バ群は内外に大きく広がり、有力ウマ娘たちによる、世界最高峰の叩き合いが始まる。ゴールドシップはまだ馬群のど真ん中。前も、横も、完全に壁。もはや、進路はどこにもない。

 

『ゴールドシップは前が壁!これは届かないか!万事休すか!』

 

 その、絶望的な状況の、刹那。ゴールドシップは、誰もが、そしてヤンさえもが予想しなかった動きをする。

 

 

 加速するのではなく、ほんの一瞬、ほんのわずかだけ、自らブレーキをかけたのだ。

 

 

 常識ではありえない、自殺行為にも等しい行動。しかし、その一瞬の『間』によって、超高速で動いていたレースという名の複雑なシステムに、致命的なバグが生まれた。

 

 一瞬遅くなった彼女を避けようと、後続のウマ娘が左右に分かれる。その影響で、バ群が僅かに広がる。そしてそれを嫌ったウマ娘が、前に被せるように僅かに加速をかける。そして、その影響で、彼女の前を走っていたウマ娘たちの完璧な連携のリズムが、コンマ数秒だけ、僅かにズレ、全体の速度が落ちたのだ。

 

 その結果、目の前の壁に、ウマ娘一頭がギリギリ通れるだけの、奇跡のような隙間が、一瞬だけ生まれた。更には、他のウマ娘が速度を落としたのに対し、ゴールドシップだけは一人、腰を落とし、完全なる加速体制に入っていた。

 

 ヤンは、目を見開いたまま、声もなく戦慄した。

 

(まさか……!自らの、ほんのわずかな行動変化によって、周囲の複雑な、絡まった糸の動きを、自らにとって有利な状況へとコントロールしたというのか!?そんな馬鹿なことが……!)

 

 その神の啓示のような隙間を、ゴールドシップは針の穴を通すようにすり抜けた。

 

(もしあれがゴールドシップの思惑通りなら、あれは、実力と技術を持つウマ娘、なんて枠には収まらない。もはや、ローエングラム伯を超えるような頭脳と観察力、そして影響力の持ち主に他ならないぞ!)

 

 そして、そこから。これまで溜めに溜めていた末脚を、解き放った。

 

「うおりゃああああああ!」

 

 彼女の走りは、もはや奇行ではなかった。

 

 それは、世界のどの強豪も見たことのない、異次元のレースIQと、神がかった走行技術。混沌を遊び道具にしていた女神が、世界という最高の舞台で、初めて見せた『神技』だった。

 

 世界中が沈黙する中、彼女は、まるで何事もなかったかのように、先頭で悠々とゴール板を駆け抜けた。

 

 

レース後、欧州のメディアがヤンに殺到した。

 

「今の走りは指示だったのか!?」

「彼女の走りをどう分析しているんだ!?」

 

 ヤンは、心底疲れ果てた顔で、しかしどこか満足げに、通訳を介してただ一言、こう答えた。

 

「私は、何もしていません。ただ、女神の気まぐれを、世界一の特等席で眺めていただけです」

 

 そして、その夜。

 約束通り、ヤンはゴールドシップをエッフェル塔の展望台に連れて行った。閉館後、理事長の力によって貸し切りにされたそこには、二人以外誰もいない。

 

 眼下には、宝石をちりばめたような、パリの夜景が広がっていた。

 

「どーだ、魔法使い!世界獲ったぜー!」

 

 ゴールドシップは、いつものようにはしゃぎながら、ガラスにへばりついている。

 

「ああ、全く。君というウマ娘には、驚かされてばかりだ」

 

 ヤンは、手すりに寄りかかりながら、静かに答えた。その時、ゴールドシップは、ふと、真面目な顔でヤンを振り返った。

 

「なあ。今日のレース、面白かったか?」

 

 ヤンは、少し驚いてから、心の底からの、穏やかな笑みを浮かべた。

 

「ああ。面白かったよ」

 

 彼は、夜景に目を向けながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。

 

「私のこれまでの人生の、全ての退屈が、残らず吹き飛んでしまうくらいには……最高のレースだった」

「だろー!?」

 

 それは、ヤン・ウェンリーが、彼女に送った、初めてにして、最大の賛辞だった。

 

「じゃあ、次はどこの遊び場に行く?」

 

 ゴールドシップは、満足そうにニッと笑う。

 

「ヤン・ウェンリー」

 

 ヤンは、やれやれと首を振った。

 

「その前にひとついいかな?ゴールドシップ」

 

 キラキラと輝くパリの光の中、魔術師と女神の、奇妙で、最高に面白い航海は、まだ続く。

 

「凱旋門にまで半ば強制的に引っ張られて来たんだ。少しくらいは休ませて貰っても、問題はないんじゃないのかい?」

 

 皇帝、怪物、女神。そして新たにヤンの指導を受けるであろう、まだ見ぬ彼女らを従えて。

 

「仕方ねぇーなー。じゃー、今すぐ宇宙に飛ぼうぜ!壮大なスペースオペラを観に行くぞー!!!!」

「断固、お断りする。君は少しくらい人の話を聞きたまえ」

 

 ヤン・ウェンリーという船はこれからも、「平和で豊かな時代」を進むのだから。




ひとまず、彼が導く彼女達の物語はここまでです。

「平和で豊かな時代」で彼はさらに多くのウマ娘を導くことでしょう。

思いつきの短編でしたが、ご評価、ご感想を多数いただきまして、非常に嬉しく思います。

ご覧いただきまして、ありがとうございました!
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