ヤン・ウェンリーが、この見知らぬ世界に迷い込んで、数週間が経っていた。
彼は、自分がなぜここにいるのか、どうすれば元の世界に帰れるのか、考えるのをとうの昔に諦めていた。歴史を紐解けば、個人の力ではどうにもならない巨大な流れというものは、常に存在する。
ならば、それに抗わず、流れ着いた岸辺で、できるだけ静かに、目立たず、平穏に暮らすのが最善の策だった。
今の彼のささやかな目標は、日払いのアルバイトで糊口をしのぎ、古本屋で買った歴史書を、公園のベンチで、ペットボトルの紅茶と共に読むこと。それだけだった。
その日、彼が偶然迷い込んだのは、巨大な敷地を誇る『トレセン学園』の、一般にも開放されている図書館だった。蔵書の量と質の高さに、歴史学者の血が騒いだ彼は、ここ数日、閲覧者のふりをして入り浸っていた。
彼が読んでいたのは、ウマ娘のトレーニング理論書ではない。彼が没頭していたのは、過去50年分の、全レースの記録。血統、バ場状態、天候、展開、そしてウマ娘の判断の癖。
彼はそれを、物語として読んでいた。一つ一つのレースを、名もなき兵士たちが織りなす会戦のように、あるいは、王朝の興亡史のように、読み解いていた。
それは、この世界の『理』を理解するための、彼なりのフィールドワークだった。
「ウマ娘、ねぇ。不思議な生物が居るものだ。しかもそれが一つの歴史となって根付いた世界、か。加えてどうやら、自由惑星同盟も、銀河帝国も、その思想すらもない。一見すればこの世界は過去と言えそうなのだが、とはいえ、私のいた時代の直接の過去かといえば、そうでも無い。………余計に訳がわからなくなってきた」
その時、図書館の静寂を破る者が現れた。
「良き静寂!良き知の香りであるッ!」
甲高く、それでいて奇妙な威厳のある声と共に、小さな影が図書館に突風のように吹き込んできた。
トレセン学園理事長、秋川やよい。
彼女は、何かを探すように、鷹のような鋭い眼光で、図書館の中をぐるりと見渡した。司書も、学生たちも、彼女の存在に気づき、ぴんと背筋を伸ばす。
ヤンは、面倒事の匂いを察知し、本の陰に隠れるように、さらに深く身をかがめた。だが、運命は、平穏を望む男を、決して放ってはおかなかった。
理事長の足が、ヤンの前で、ぴたりと止まった。
「君ッ!」
「……私でしょうか」
ヤンは、億劫そうに顔を上げた。
「うむ!君だ!その目!ただ文字を追う者の目ではない!歴史の奥底に流れる因果の糸を、手繰り寄せようとする探求者の目だッ!」
「はあ……まあ、歴史は好きですが」
理事長は、ヤンが読んでいた分厚い記録集を、ひったくるように手に取った。そして、適当なページを開き、ヤンに突きつける。
「問う!3年前のオークス!豪雨の中、12番人気の伏兵が、大外から一気の差し切り勝ち!世はこれを『奇跡』と呼んだ!君の見解は如何にッ!」
ヤンは、その紙面に一瞬だけ目を落とすと、心底面倒そうに、しかし、淀みなく答えた。
「奇跡、ではありませんよ」
「ほう!」
「そのウマ娘の母方の血統には、道悪巧者が集中している。稍重以上のバ場での勝率は、統計的に見ても、他のメンバーより2割程度は高かった。加えて、レースは極端なハイペース。先行集団が総崩れになるのは、歴史上の無謀な突撃作戦が失敗するのと同じく、必然の結果です」
ヤンは、残っていたぬるい紅茶を一口飲んだ。
「そして、彼女はキャリアの中で、左回りのコース、特に最終直線が長いコースを、明らかに得意としていた。……いくつかの低確率な事象が、幸運にも一つのレースで重なっただけ。奇跡ではなく、起こるべくして起きた、蓋然性の産物でしょう」
理事長は、ヤンの言葉を聞いている間、一瞬たりとも瞬きをしなかった。
彼女の『眼』には、見えていた。目の前の、この覇気のない男の頭の中で、膨大なデータが、無数の光の線となって結びつき、一つの『解』へと収束していく様が。
戦場の盤面を読むように、レースを、歴史を、完全に『理解』している、恐るべき知性が。
長い沈黙の後。
理事長は、持っていた記録集を閉じると、震える指で、ヤンを、ぴしりと指さした。
「逸材ッ!」
その声は、図書館中に響き渡った。
「逸材であるッ!ダイヤの原石!いや、磨き方さえ忘れ去られた、伝説の至宝ッ!君のような男が、なぜこんな場所で埃を被っているのだ!」
「はあ……成り行きで」
「もったいない!あまりにも、もったいないッ!君、名を名乗るのだ!!」
「ヤン・ウェンリー、と申しますが……」
次の瞬間、理事長は、どこからともなく一枚の契約書を取り出し、ヤンの目の前に叩きつけた。
「決定ッ!ヤン・ウェンリー!君を、本日ただ今をもって、このトレセン学園の専属トレーナーとして採用するッ!」
「……謹んで、お断りいたします」
ヤンの即答に、理事長は全く動じなかった。
「なぜだッ!」
「資格も経験もありません。何より、私は面倒事が嫌いです。走るのも、あまり好きではない」
「無問題ッ!問題なしである!君のその頭脳が、脚となり、速さへと繋がるのだ!さあ、ここにサインを!」
「ですから、私は……」
理事長は、有無を言わさぬ力で、ヤンの手を掴むと、契約書のサイン欄に、無理やり判を押させた。よく見れば、いつの間にか、彼女の手には朱肉が握られている。
「契約、完了ッ!である!ようこそ、ヤン・トレーナー!君の『魔術』、期待しているぞ!」
嵐のように言い放つと、彼女は満足げに頷き、再び風のように去っていった。
一人、残されたヤンは、手の中にある、インクの匂いがまだ新しい『雇用契約書』と、自分の親指についた朱肉を、呆然と見比べていた。
「実に、面倒なことになった」
やがて、彼は、天を仰いで、心の底から、深いため息をついた。
「……なったものは仕方ないとして考えるとしよう。それにまあ、なんであれ手に職があれば、ペットボトルの紅茶からは卒業出来るだろうしね」
魔術師が、その魔術をターフの上で振るうことになる、ほんの少し前の物語である。