ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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ライスシャワー編
後日譚:魔術師と、あるいは刺客―前


 ヤン・ウェンリーが、皇帝シンボリルドルフと怪物ナリタブライアンという、歴史の転換点に立つような二人のウマ娘のトレーナーとなったことは、学園において「魔術師の気まぐれ」として知られていた。

 

 更に言えば、彼が、混沌の権化であるゴールドシップの『観察官』を引き受ける羽目になったのは、もはや歴史の必然というよりは、単なる事故ということも学園以内ではよく知られた事実だった。

 

 彼女らのおかげで「チーム・ヤン」は、今や学園で最も注目される集団となったが、その実態は、皇帝と怪物がそれぞれに自らの覇道と闘争を極め、時折、魔術師がそれを「歴史的観点から」傍観・分析し、ゴールドシップという混沌がそれを茶化しに来る、という奇妙な均衡で成り立っていた。

 

 ヤン本人は、相変わらずトレーナー寮の自室で、曰く、引退後の余生のために、歴史書を読みふける日々を送っていた。

 

 彼にとって、ルドルフとブライアンはもはや「自走する歴史」であり、またゴールドシップも「自由に動く混沌」であり、彼女らは自らが介入すべきいわば『戦場』はとうに過ぎ去っていた。

 

「やれやれ、これだけ実績を上げたんだ。いい加減、理事長も私に年金という褒美を持たせて、私を解放してくれるべきだと思うんだが」

 

 微温の紅茶をすすりながら、彼は窓の外を眺める。グラウンドでは、今日も勝利という名の栄光を目指し、ウマ娘たちが火花を散らしている。ヤンにとっては、それは遠い国の、自分とは関係のない戦争のように見えていた。

 

 

 そんなある日の夕暮れ。

 

 ヤンが自室で、またしても理事長に叩き返された引退願を眺めてため息をついていると、ドアが、か細くノックされた。

 

「……また君か、ゴールドシップ。悪いが、今日は焼きそばパンの在庫を切らしていてね。それに、ドアは蹴破るものじゃなく――」

 

「あ、あの……っ」

 

 ドアを開けると、そこに立っていたのは、予想していた芦毛の嵐ではなかった。青いリボンをつけた、小柄なウマ娘。大きな瞳は不安げに揺れ、その存在すべてが「申し訳ありません」と謝罪しているかのように縮こまっていた。

 

 ライスシャワーだった。彼女は、ヤンの顔を見るなり、ビクッと肩を震わせ、今にも泣き出しそうな顔で俯いてしまう。

 

「……何か用かね?」

 

 ヤンは、面倒事がまた一つ増えたことを直感し、無意識にため息をついた。そのため息に、ライスシャワーの肩が、またビクリと震える。

 

「あ、あの……ご、ごめんなさい!やっぱり、なんでもない、です……!」

 

 彼女はそう言うと、脱兎のごとく逃げ去ろうとした。

 

「待った」

 

 ヤンは、その小さな背中を呼び止めた。

 

「……入りたまえ。何か私に用事があるのだろう?暖かい紅茶を淹れよう。どうせ、ルドルフが置いていった上等な茶葉が余っている」

 

「は、はい……」

 

 歴史上、最も厄介なのは、中途半端な介入だということを彼は良く知っている。ここで彼女を帰せば、彼女は明日も、明後日も、このドアの前で躊躇し、結果としてヤンの平穏な時間を「ノックするかしないか」という些細な問題で乱し続けるだろう。

 

 それこそが、ヤンにとっての最大の面倒事だった。

 

 

 トレーナー室のソファに、ライスシャワーは半分も沈み込むことなく、浅く腰掛けていた。ヤンが差し出した紅茶にも、ほとんど口をつけていない。

 

「さて」

 

 とヤンは、彼女のレースや練習状況の資料に目を通しながら、切り出した。

 

「君が私に何の用か、統計的に推測してみよう。君は、今、スランプだ」

 

 ライスシャワーはヤンの言葉に縮こまる。それを見たヤンは、少し首を横に振って、言葉を紡ぎ直した。

 

「いや、違うな。君のデータはむしろ上がっている。だが、君の周囲の『期待値』と、君が出す『結果』が、致命的に噛み合っていない」

 

 ライスシャワーが、驚いたように顔を上げた。

 

「私のところに来たウマ娘は、今のところ三種類だ。ルドルフのように歴史を創りたい者、ブライアンのように歴史を壊したい者、そしてゴールドシップのように歴史を滅茶苦茶にしたい者。だが、この資料と君の姿を見る限り、どれにも当てはまらないように思える」

 

 ヤンは、タブレット端末を操作し、彼女のレース映像を映し出した。それは、彼女がミホノブルボンの三冠を阻止した、菊花賞だった。

 

「私の直感が正しければ君は、ただ……」

 

 タブレットからヤンは目を離し、ライスシャワーへとその視線を向け直す。

 

「レースに『勝ちたい』だけだ。だが、君自身、君の勝利が他の誰かの『物語』を否定することになると、そう思っている。違うかね?」

 

「……っ」

 

 ライスシャワーの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

 

「ライスは……ライスは、ただ、一生懸命走っただけで……。なのに、みんな、ライスのこと『ヒール』って……。ブルボンさんの夢を壊したって……っ」

 

「ふむ」

 

 ヤンは、彼女の涙に動揺するでもなく、淡々と分析を続けた。

 

「一つ君に聞きたいことがある。君は、『祝福』されたいのかね?」

 

「え……?」

 

「歴史の主役として、観客の喝采を浴び、祝福されたいかと聞いている」

 

「そ、それは……」

 

 ライスシャワーは思わず目を泳がせていた。心の奥底では「勝ちたい」と間違いなく思っていたからだ。だが……。

 

「で、でも、ライスが勝つと、みんなが悲しむから……。ライスは、みんなの『敵』だから……」

 

 ヤンは、彼女の心を知ってか知らずか、心底面倒くさそうに、しかし、その瞳の奥には、かつて戦場で敵の心理を読んだ時と同じ、冷徹な光を宿しながら淡々と告げた。

 

「馬鹿馬鹿しい。実に非合理的だ」

 

「え……?」

 

 ライスシャワーは涙を目に溜めたまま、思わずヤンの顔を見つめていた。だが、ヤンはその驚きを無視するように言葉を続ける。

 

「いいかね、ライスシャワー君。レースとは、いわば戦争だ。そして、観客の『期待』だの『物語』だのというのは、戦場における『霧』や『地形』と同じ、ただの環境変数に過ぎないと断言できる」

 

 ヤンは、新しい紅茶を淹れながら続けた。

 

「君は、データを見る限り、ウマ娘というレースの歴史上、極めて稀有な才能を持っている。それは、ルドルフやブライアンのような、圧倒的な『戦力』ではないし、ゴールドシップのような『不確実性』でもない。君の才能は、敵の『戦略』そのものを、最低限のコストで破綻させることにある」

 

 彼は、カップをライスシャワーの前に置いた。

 

「……戦略、ですか……?」

 

「ああ。もっと言えば君は『ヒール』などではないよ。君は、最高の『刺客』といえるだろうね。あるいは、敵の作戦中枢をピンポイントで叩く『魔術師』と呼んでもいい」

 

「まじゅつし……?」

 

「そう。私の同類だ」

 

 ヤンは、初めて、ほんの少しだけ口の端を上げた。

 

「君は、ミホノブルボンという強大な、いわば『正規軍』。その三冠という『戦略目標』を、単騎で、最小限の力で、完璧に阻止してみせた。あれは、歴史に残る見事な『局地戦勝利』だと言っても良いね。それ以上でも、それ以下でもない」

 

「でも、ライスは……」

 

 ライスシャワーは菊花賞のレースを思い出していた。勝利したところまでは良かった、とてもうれしく、やった、という気持ちが溢れていたあの瞬間を。だが、次の瞬間、観客席から聞こえてきたのは彼女を批判するような言葉ばかりだった。

 

 そして、それに耐えきれず、逃げ出してしまった過去の自分を。

 

「だが、君は戦後処理に失敗した。勝利した『刺客』が、戦場で泣き出してどうする。君が泣けば泣くほど、観客は『ああ、やはり彼女は罪の意識で泣いているのだ』と、『彼女は勝つべきではなかった』などと、自分たちの都合の良い『物語』に君を当てはめるだろう」

 

 ヤンは、彼女の目をまっすぐに見た。

 

「いいかね、ライスシャワー。歴史とは、いつだって『勝者』によって描かれる。だが、その『勝者』が、観客の顔色をうかがっていては、真の勝者にはなれないよ」

 

「……じゃあ、私は、どうすれば、いいんですか……?」

 

「簡単なことだ。君は、君の『戦い方』を、君自身が肯定すればいい。そうだな……」

 

 ヤンは、タブレットにとあるのレースのデータを表示した。天皇賞(春)。

 

「私の助言を聞きたいのであれば、この、『天皇賞(春)』に出る事を条件としよう」

 

 相手は連覇を狙う当代最強のステイヤー、メジロマックイーン。彼女が挑むのはまたしても、学園の「ヒーロー」だった。

 

「次も、君は『ヒール』を強要されるだろう。マックイーンの天皇賞(春)連覇という『物語』を、君が壊しに来たと、誰もが思う。そして、君はまた、その『霧』に惑わされる」

 

「……ライスは、また、ヒールに……」

 

 ライスシャワーの目に、再び涙が溜まり始める。だが、それを無視するように、ヤンは冷静に告げた。

 

「だが、その『霧』を見る事をやめて、データだけを見るとどうだろうか?確かにメジロマックイーンの持久力は驚異的だ。だが、彼女の過去のレースパターンを分析すると、ラスト400mの地点で、一瞬だけ、本当にコンマ数秒だけ、息を入れる癖がある。それは、彼女が『勝った』と確信する瞬間の、ほんの僅かな油断だ」

 

「……!」

 

 ヤンの分析。それを聞いたライスシャワーの目には、涙ではなく、確かな闘志が宿る。『勝ちたい』その気持ちが、奥底から溢れてくるようだった。

 

 その姿を見たヤンは、心の中で静かに頷いた。

 

「君がすべきことは、レースの序盤から終盤まで、彼女の『影』になりきることだ。音もなく、気配もなく、ただひたすらに、彼女の『勝利への確信』という名の油断が生まれる、その一点まで、君の全スタミナを温存し続ける」

 

「ライスが……マックイーンさんの、影に……」

 

「そうだ。そして、彼女が『勝った』と思った、その瞬間に、君は彼女の内側から、あるいは外側から、静かに『こんにちは』と顔を出す。それだけでいい」

 

「そんなこと……」

 

「できるさ。君は『刺客』なんだから。君のその小柄な身体、音のしない走りは、そのための完璧な『隠密装備』だ。皇帝や怪物には、絶対に真似のできない戦い方だ」

 

 ヤンは、いつもの気だるげな表情に戻った。

 

「まあ、やるかやらんかは、君が決めなさい。私は、これ以上面倒事を抱えるのは御免被る。君のトレーナーになる気も、毛頭ない」

 

 彼は立ち上がり、ドアを開けた。

 

「私が言えるのはここまでだ。今日はお引き取り願おう。ただ……」

 

 ライスシャワーは、顔を上げた。

 

「もし、君が君自身の『戦い方』で勝利し、観客全員を黙らせることができたなら、その迷いは少しは晴れる事だろう」

 

 彼女の瞳に写ったのは、彼女を間違いなく信頼し、そして彼女ならば間違いなくメジロマックイーンという強者に勝つであろうという確固たる自信を持った――。

 

「その時は、君が私に、紅茶でも淹れてくれたまえ。その方が、皇帝陛下が淹れるものより、よほど『勝利の味』がしそうだ」

 

 そんな、魔術師の貌(かんばせ)であった。

 

 

 そして、迎えた天皇賞(春)。

 

 ライスシャワーは、ヤンの『設計図』通り、メジロマックイーンの影に、完璧になりきった。観客も、解説者も、そしてマックイーン自身も、ライスシャワーの存在を、レースの主役として見ていなかっただろう。

 

 だが、最後の直線。マックイーンが、連覇を確信し、わずかに、ほんのわずかに、息を入れようとした、その刹那。

 

 黒の勝負服が、まるでマックイーンの影から生まれ出たかのように、内側から音もなく、彼女に並びかけた。

 

 絶望的なまでの、完璧な奇襲。マックイーンは差し返そうとするが、一度生まれた「油断」という名の隙間は、もはや埋まらない。

 

 ライスシャワーは、先頭でゴール板を駆け抜けた。

 

 レース場の観客は、静まり返った。

 

 それは、菊花賞の時のような、非難の沈黙ではなかった。あまりに完璧な、あまりに冷徹な「魔術」を目の当たりにした、畏怖による静寂だった。

 

 ライスシャワーは、その静寂の中で泣かなかった。彼女の目には、彼女を信じ、見届けた一人のトレーナーが写っていたからだ。

 

 彼女は、静かに、しかし凛として、ターフに一礼した。その姿は、もはや「ヒール」ではなかった。自らの役割を完璧に理解し、それを遂行した、孤高の『プロフェッショナル』の姿だった。

 

 その日の夕方。ヤンのトレーナー室のドアが、静かにノックされた。

 

「……どうぞ」

 

 入ってきたライスシャワーは、緊張した面持ちで、ヤンに一杯の紅茶を差し出した。

 

「……お、お待たせしました……。お兄、さま……」

 

「……その呼び方は、どこで覚えてきたんだね」

 

 ヤンは、ため息と共に、その紅茶を受け取った。

 

「……まあ、いいか。約束は、間違いなく果たされたからね」

 

 彼は、微温の紅茶を一口すする。その味は、勝利のシャンパンよりも、ずっと複雑で、それでいて、ほんの少しだけ、彼の引退願望を遠のかせる味がした。

 

「美味しい、ですか?お兄さま」

 

「ああ。……やれやれ。これで、私の『面倒事リスト』に、皇帝と怪物と混沌に加えて、『刺客』まで加わってしまったか」

 

 頭を掻きながら、そう呟く魔術師の横顔は、困ったように、それでいて、ほんの少しだけ楽しそうに見えた。

 

「本当に、このままではろくな死に方をしないだろうな、私は」

 

 これは、誰にも祝福されなかった少女が、世界で最も気だるげな魔術師と出会い、自らの「呪い」を「祝福」に変えていく、そんな歴史の、ほんの欠片である。

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