ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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後日譚:刺客の前日譚

 ライスシャワーには、トレーナーがいた。

 

 ヤン・ウェンリーのような『魔術師』ではない。ただ、実直で、ウマ娘の勝利を心から願う、誠実な若手トレーナーだった。

 

 彼とライスは、二人三脚で坂路を駆け上がり、小さな体でどうすれば大きなライバルに勝てるかを研究した。

 

 そして、彼女らは一つの答えを見出した。

 

 ―――極限までスタミナを温存し、相手が最も油断する、あるいは最も苦しくなる瞬間に、その小さな体躯のすべてを爆発させる。

 

 それは「刺客」の走り。彼ら二人だけが見つけた、勝利への細い細い、だが唯一の道筋だった。

 

 その道筋が、ミホノブルボンの三冠を阻止した、あの菊花賞までは。

 

 あの日。

 

 ライスは勝った。トレーナーも、最初は涙を流して喜んだ。

 

「やったね、ライス!私たちの戦術が、最強を破ったんだ!」

 

 と。だが、スタジアムを包む、あの冷たい静寂と、ミホノブルボンに向けられる同情の眼差しを浴びた瞬間から、何かが狂い始めた。

 

 トレーナー室に戻っても、祝勝ムードはなかった。トレーナーは、世間の反応を気にしていた。彼は「誠実」であるがゆえに、「常識的」であるがゆえに、自分たちが「物語の破壊者」――『ヒール』になってしまったことに、耐えられなかった。

 

「……ライス。次からは、もっと……その、みんなが応援したくなるような、堂々とした走りをしよう。君ならできる」

 

 ライスは、意味が分からなかった。

 

 「堂々とした走り」とは何だろう? ライスは、いつでも、勝つために、教えられた通りに、全力で走ってきただけなのに。

 

 

 菊花賞の後、ライスシャワーはスランプに陥った。

 

 トレーナーが求める「堂々とした走り」を試みようとする。だが、それは彼女の本質ではなかった。小さな身体で、大きなライバルたちと正面からぶつかり合えば、消耗するだけ。レース終盤、彼女の武器であるはずの「一瞬の切れ味」は、完全に失われていた。

 

 負けが、続いた。

 

「どうしてなんだ、ライス……」

 

 トレーナーは頭を抱えた。彼は、菊花賞の勝利を「まぐれ」や「禁じ手」のように思い始めていた。

 

「あの時、菊花賞の走りを、世間が望んでいないんだ。君は『ヒール』じゃない。もっと強い、正統派の走りを見せて!」

 

 トレーナーは悪人ではなかった。ただ、世間の「常識」と「物語」を、ウマ娘の「本質」よりも信じてしまっただけだった。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 

 結果を出せないライスは謝り続けた。トレーナーの望む「正統派」の走りもできず、かといって、かつての「刺客」の走りに戻ることも許されない。

 

 そしてその状態が続いたある日、トレーナーは、ついに言った。

 

「ごめんなさい……私にはもう、君の走りが分からない。どうすれば君を勝たせてやれるのか……」

 

 それは、事実上の「敗北宣言」だった。トレーナーは、若さゆえか、ライスの本質を受け入れることを諦めてしまったのだ。

 

 この瞬間、二人の間に、修復不可能な亀裂が入ったと言えるだろう。

 

 

 契約は、まだ残っていた。だが、二人の間にはもう、信頼も、共通の「戦術」もなかった。

 

 トレーナーは、どうライスを指導すればいいのか判らない。ライスは、どう走ればいいのか分からない。自分の走りを肯定してくれる人がいない。

 

 誰も、ライスが勝つことを望んでいない。彼女たちは、そう感じるようにもなっていた。

 

 学園の片隅で、膝を抱える日々。そんな彼女たちの耳に、ある噂が届いた。

 

「皇帝」シンボリルドルフと、「怪物」ナリタブライアン、そして予測不能なゴールドシップ。3人とも、常識外れの才能を持ち、常識外れの走りで、ターフを支配している。

 

 そして、その3人を、たった一人で担当している、奇妙なトレーナーがいる、と。

 

「―――ヤン・ウェンリー。あの『魔術師』さ」

 

「覇気もやる気もないらしいが、彼の『眼』にかかれば、どんなウマ娘の『本質』も見抜かれるそうだ」

 

「ルドルフ会長の『覇道』も、ブライアンの『破壊』も、あの人は『歴史の必然』として、ただ受け入れて、最適化するだけらしい」

 

「常識も、ファンの期待も、あの人には関係ない。ただ、『勝つための論理』だけを信じているそうだ」

 

『勝つための論理』。『本質を見抜く』。

 

 ライスは、震えた。もし、もし本当にそんな人がいるのなら。

 

 ライスの、この「ヒール」と呼ばれる走りも、「勝つための論理」として、「本質」として、認めてくれるかもしれない。みんなが望む「物語」や「祝福」なんかじゃなく、ライス自身の「走り」だけを、見てくれるかもしれない。

 

 それは、あまりに細く、淡い希望だった。伝説の魔術師が、自分のような「ヒール」のウマ娘に、興味を持つはずがない。きっと、また「面倒なことになった」とため息をつかれて、追い返されるだけだ。

 

 だが、もう、行く場所はどこにもなかった。彼女は、今のトレーナーに「契約解除」を申し出るのではなく、ただ「相談したい人がいます」とだけ告げた。

 

 おそらく、トレーナーもヤンの噂を聞いていたのだろう。ライスシャワーの申し出に、断ることはしなかった。

 

「……彼ならば、私よりも君を輝かせてくれるかもしれない。私の事は気にせず、君の心のままに行動してほしい」

 

 ライスシャワーはその言葉に背中を押されて、その脚でしっかりと立ち上がった。そして、あの忌まわしい菊花賞の日以来、初めて、自らの意志で、走った。

 

 グラウンドではないただ一つの目的地。

 

 トレーナー寮の一室。「魔術師」ヤン・ウェンリーの、部屋のドアへ向かって。

 

 

 彼女は、ドアの前に立った。心臓が、うるさいほどに鳴っている。

 

 震える手を、ゆっくりと、持ち上げた。

 

(……このドアを開けたら、ライスの『呪い』は、終わるかもしれない)

 

 彼女は、祈るような気持ちで、そのドアを、か細くノックした。

 

「……また君か、ゴールドシップ。悪いが、今日は焼きそばパンの在庫を切らしていてね。それに、ドアは蹴破るものじゃなく――」

 

 開けられたドア。そこから現れたのは、黒髪にくたびれた表情を浮かべた、噂通りの男だった。ライスシャワーを見た男の言葉が、途中で止まる。

 

「あ、あの……っ」

 

「……何か用かね?」

 

「あ、あの……ご、ごめんなさい!やっぱり、なんでもない、です……!」

 

 彼女はそう言うと、脱兎のごとく逃げ去ろうとした。

 

「待った」

 

 ヤンは、その小さな背中を呼び止めた。

 

 ――これは、小さな刺客がその自信を取り戻す前の、物語のカケラである。

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