ライスシャワーには、トレーナーがいた。
ヤン・ウェンリーのような『魔術師』ではない。ただ、実直で、ウマ娘の勝利を心から願う、誠実な若手トレーナーだった。
彼とライスは、二人三脚で坂路を駆け上がり、小さな体でどうすれば大きなライバルに勝てるかを研究した。
そして、彼女らは一つの答えを見出した。
―――極限までスタミナを温存し、相手が最も油断する、あるいは最も苦しくなる瞬間に、その小さな体躯のすべてを爆発させる。
それは「刺客」の走り。彼ら二人だけが見つけた、勝利への細い細い、だが唯一の道筋だった。
その道筋が、ミホノブルボンの三冠を阻止した、あの菊花賞までは。
あの日。
ライスは勝った。トレーナーも、最初は涙を流して喜んだ。
「やったね、ライス!私たちの戦術が、最強を破ったんだ!」
と。だが、スタジアムを包む、あの冷たい静寂と、ミホノブルボンに向けられる同情の眼差しを浴びた瞬間から、何かが狂い始めた。
トレーナー室に戻っても、祝勝ムードはなかった。トレーナーは、世間の反応を気にしていた。彼は「誠実」であるがゆえに、「常識的」であるがゆえに、自分たちが「物語の破壊者」――『ヒール』になってしまったことに、耐えられなかった。
「……ライス。次からは、もっと……その、みんなが応援したくなるような、堂々とした走りをしよう。君ならできる」
ライスは、意味が分からなかった。
「堂々とした走り」とは何だろう? ライスは、いつでも、勝つために、教えられた通りに、全力で走ってきただけなのに。
■
菊花賞の後、ライスシャワーはスランプに陥った。
トレーナーが求める「堂々とした走り」を試みようとする。だが、それは彼女の本質ではなかった。小さな身体で、大きなライバルたちと正面からぶつかり合えば、消耗するだけ。レース終盤、彼女の武器であるはずの「一瞬の切れ味」は、完全に失われていた。
負けが、続いた。
「どうしてなんだ、ライス……」
トレーナーは頭を抱えた。彼は、菊花賞の勝利を「まぐれ」や「禁じ手」のように思い始めていた。
「あの時、菊花賞の走りを、世間が望んでいないんだ。君は『ヒール』じゃない。もっと強い、正統派の走りを見せて!」
トレーナーは悪人ではなかった。ただ、世間の「常識」と「物語」を、ウマ娘の「本質」よりも信じてしまっただけだった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
結果を出せないライスは謝り続けた。トレーナーの望む「正統派」の走りもできず、かといって、かつての「刺客」の走りに戻ることも許されない。
そしてその状態が続いたある日、トレーナーは、ついに言った。
「ごめんなさい……私にはもう、君の走りが分からない。どうすれば君を勝たせてやれるのか……」
それは、事実上の「敗北宣言」だった。トレーナーは、若さゆえか、ライスの本質を受け入れることを諦めてしまったのだ。
この瞬間、二人の間に、修復不可能な亀裂が入ったと言えるだろう。
■
契約は、まだ残っていた。だが、二人の間にはもう、信頼も、共通の「戦術」もなかった。
トレーナーは、どうライスを指導すればいいのか判らない。ライスは、どう走ればいいのか分からない。自分の走りを肯定してくれる人がいない。
誰も、ライスが勝つことを望んでいない。彼女たちは、そう感じるようにもなっていた。
学園の片隅で、膝を抱える日々。そんな彼女たちの耳に、ある噂が届いた。
「皇帝」シンボリルドルフと、「怪物」ナリタブライアン、そして予測不能なゴールドシップ。3人とも、常識外れの才能を持ち、常識外れの走りで、ターフを支配している。
そして、その3人を、たった一人で担当している、奇妙なトレーナーがいる、と。
「―――ヤン・ウェンリー。あの『魔術師』さ」
「覇気もやる気もないらしいが、彼の『眼』にかかれば、どんなウマ娘の『本質』も見抜かれるそうだ」
「ルドルフ会長の『覇道』も、ブライアンの『破壊』も、あの人は『歴史の必然』として、ただ受け入れて、最適化するだけらしい」
「常識も、ファンの期待も、あの人には関係ない。ただ、『勝つための論理』だけを信じているそうだ」
『勝つための論理』。『本質を見抜く』。
ライスは、震えた。もし、もし本当にそんな人がいるのなら。
ライスの、この「ヒール」と呼ばれる走りも、「勝つための論理」として、「本質」として、認めてくれるかもしれない。みんなが望む「物語」や「祝福」なんかじゃなく、ライス自身の「走り」だけを、見てくれるかもしれない。
それは、あまりに細く、淡い希望だった。伝説の魔術師が、自分のような「ヒール」のウマ娘に、興味を持つはずがない。きっと、また「面倒なことになった」とため息をつかれて、追い返されるだけだ。
だが、もう、行く場所はどこにもなかった。彼女は、今のトレーナーに「契約解除」を申し出るのではなく、ただ「相談したい人がいます」とだけ告げた。
おそらく、トレーナーもヤンの噂を聞いていたのだろう。ライスシャワーの申し出に、断ることはしなかった。
「……彼ならば、私よりも君を輝かせてくれるかもしれない。私の事は気にせず、君の心のままに行動してほしい」
ライスシャワーはその言葉に背中を押されて、その脚でしっかりと立ち上がった。そして、あの忌まわしい菊花賞の日以来、初めて、自らの意志で、走った。
グラウンドではないただ一つの目的地。
トレーナー寮の一室。「魔術師」ヤン・ウェンリーの、部屋のドアへ向かって。
■
彼女は、ドアの前に立った。心臓が、うるさいほどに鳴っている。
震える手を、ゆっくりと、持ち上げた。
(……このドアを開けたら、ライスの『呪い』は、終わるかもしれない)
彼女は、祈るような気持ちで、そのドアを、か細くノックした。
「……また君か、ゴールドシップ。悪いが、今日は焼きそばパンの在庫を切らしていてね。それに、ドアは蹴破るものじゃなく――」
開けられたドア。そこから現れたのは、黒髪にくたびれた表情を浮かべた、噂通りの男だった。ライスシャワーを見た男の言葉が、途中で止まる。
「あ、あの……っ」
「……何か用かね?」
「あ、あの……ご、ごめんなさい!やっぱり、なんでもない、です……!」
彼女はそう言うと、脱兎のごとく逃げ去ろうとした。
「待った」
ヤンは、その小さな背中を呼び止めた。
――これは、小さな刺客がその自信を取り戻す前の、物語のカケラである。