ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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後日譚:魔術師と、あるいは刺客―後

 メジロマックイーンを破った天皇賞(春)の後、ライスシャワーの日常は静かに、しかし決定的に変わった。

 

 学園での彼女の扱いは、相変わらず「ヒール」と「畏怖」の狭間にあったが、彼女自身がそれを気にしなくなった。彼女の居場所は、グラウンドではなく、ヤン・ウェンリーのトレーナー室になったからだ。

 

「……お兄さま。紅茶、入りました」

 

 ヤンの部屋のドアを自信ありげにノックし、彼のために紅茶を淹れる。それが、皇帝と怪物と混沌に並ぶ、第四の「チーム・ヤン」のメンバー、すなわち「刺客」の日課だった。

 

 とはいえ、ヤンは『私は君のトレーナーではないよ』と、断固として否定しているが。

 

「ああ、そこに。ありがとう」

 

 彼女が淹れる紅茶は、いつも完璧な温度だった。ヤンが最も好む「微温」より少しだけ熱く、彼がため息をつきながら書類を一枚読み終える頃に、ちょうどいい温度になるように計算されていた。

 

 それは、彼女が「刺客」として培った、完璧なタイミングの算出能力の応用だった。

 

「さて」

 

 紅茶を一口飲んだヤンは、彼女の前に一枚の分厚いレポートを置いた。それはレースシミュレーションではなく、彼女自身の身体に関する、極めて冷徹な分析データだった。

 

「君の脚は、そう遠くない未来に壊れるだろうね」

 

 ヤンは、天気の話でもするかのように、あっさりと告げた。 ライスシャワーの肩が、微かに震える。だが、彼女はもう、かつてのように泣き出したりはしなかった。ただ、ヤンの次の言葉を待つ。

 

「君の『刺客』としての走りは、歴史的に見ても稀有だ。だが、それは君の小柄な身体、特に脚の関節と靭帯に、毎回、いわば自爆テロに近い負荷を強いている」

 

 ヤンはグラフを指差す。

 

「ルドルフやブライアンは、いわば『重戦車』だ。全身の筋肉で衝撃を分散し、どんな困難な戦場であっても前進していく。だが、君の走り方は戦場を崩すための『最終兵器(トール・ハンマー)』だ。一点突破の威力は凄まじいが、発射のたびに、射手自身が反動で壊れていく」

 

「……ライスは、もう、走れないん、ですか……?」

 

「そうは言っていない。ただ、このまま無策で走り続ければ、次のG1、あるいはその次のレースで、君は確実に『戦術的損耗』――世間一般でいうところの『故障』を経験する、と予測しているだけだ」

 

「……」

 

「どうするね? 私としては、ここで引退し、その知名度と、いくらか出るであろうURAの給付金で、どこかの片田舎で小さな喫茶店でも開いて暮らすことを強く推奨する。私も、時々、紅茶を飲みに行ってやろう」

 

 それは、ヤンなりの、最大限の優しさだった。 だが、ライスシャワーは、静かに首を横に振った。

 

「ライスは……()()()()の『刺客』です。走れなくなるのは、怖い。でも……『刺客』でなくなってしまうのは、もっと、嫌です」

 

 彼女の瞳には、もう涙はなかった。ただ、ヤンが教えた「プロフェッショナル」としての、静かな覚悟が宿っていた。

 

 ヤンは、天を仰ぎ、この日一番深いため息をついた。

 

「……やれやれ。お兄さま、か。シンボリルドルフにでも聞かれたら、何を言われるか」

 

 彼は、机の引き出しから、もう一冊のファイルを取り出した。

 

「仕方がない。プランBだ」

 

「プランB……?」

 

「君の脚を、君の『戦い方』に耐えうるように『改造』する。いや、『再構築』すると言った方が正確かな」

 

 ヤンが提示したのは、トレーニングメニューと呼ぶにはあまりに異質な、「脚部強化設計図」だった。

 

 根性論はゼロ。

 

 書かれているのは、日々の食事におけるタンパク質とカルシウムの精密な摂取グラム数、関節の可動域を広げるための地味で退屈なストレッチの反復回数、そして、走ることを一切禁じた上での、特定の筋肉だけを鍛え上げるための、精密なウェイトトレーニングの計画表だった。

 

「……走っちゃ、ダメなんですか?」

 

「今の君の脚は、いわば『違法建築』と言えるようなものだ。一度、基礎から解体し、設計図通りに組み直さねばならないからね。走るのは、私が許可するまで禁止とする」

 

 それは、アスリートにとって、ウマ娘という種族にとって、最も過酷な宣告だった。だが、ライスシャワーは間髪入れずに頷き、その設計図を両手で受け取った。

 

「……わかりました。ライスの脚、お兄さまに、預けます」

 

 それから数ヶ月。グラウンドから、レース場からライスシャワーの姿は消えた。学園やレース場では、

 

「やはり、マックイーンに勝った呪いが」

「ヤンに見捨てられた」

「燃え尽きた」

 

 と、無責任な噂が飛び交った。だが、彼女は、学園の片隅にあるトレーニングルームで、ただ黙々と、ヤンの「設計図」を実行していた。まるで、退屈な歴史書を一行ずつ読み解くかのように。それは、栄光とは無縁の、地味で、孤独な「戦争」と言えるものだった。

 

「……アンタ、あいつに何をさせてるんだ?」

 

 時折ナリタブライアンが、自らのトレーニングの合間にその様子を遠巻きに眺めていた。

 

「ブライアンか。見ての通り、基礎練習だよ。君のような『怪物』とは、そもそもの才能が違うからね」

「フン……。アンタらしく合理的だが、見ていると退屈だな」

「戦争の9割は、退屈な補給と整備で決まるものさ、ブライアン。君の脚だって、そうだっただろう?」

 

 ブライアンはそれ以上何も言わなかったが、次の日から、ライスシャワーのロッカーに、彼女が使っているものと同じ最高級のプロテインが、無言で置かれるようになっていた。

 

 

 季節は巡り、ヤンのトレーナー室で、ルドルフとヤンが一つのレース映像を囲んでいた。

 

「―――というわけだ、トレーナー君。次の重賞レースに出るであろうこのウマ娘、『サイレントクイーン』。彼女の戦術は、厄介だ」

 

 画面に映っていたのは、レース終盤、異常なまでの静かさで後方から忍び寄り、まるで音もなくライバルたちを抜き去っていく、不気味なウマ娘の姿だった。

 

「ふむ。『影』に徹し、他者のスタミナが切れるのを待ち、最小限の力で抜き去る。私の戦術の亜流だが、彼女はそれを『勝利』のためではなく、自らの『美学』として行っているようだ。そういう手合いは実に厄介だな」

 

「その通りだ。シミュレーションを重ねてみても、トレーナー君を相手にしているようで、実にやりづらい」

 

 とルドルフは頷く。

 

「それに加えて『チーム・ヤン』を負かす事を目標にしているらしくてね。直談判されたんだよ。次の重賞レースに私が出てくれ、とね。挑まれたからには、私は無論、出てもいいと思っているが、皇帝が新人を直接叩きに行くのはどうにも美しくない、などと思っていてね?」

 

「なかなかに傲慢だね?皇帝陛下」

 

 ヤンがルドルフに視線を向ける。すると、彼女は一瞬目を逸らしながら、口を開いた。

 

「まぁ……正直に言えば最近、練習に割く時間が減っていてね。勝つ自信が無いと言える」

 

「正直でよろしい。ルドルフは最近、生徒会の仕事と地方の有力ウマ娘のスカウトに熱心だものね。君の紅茶を飲む機会が減って寂しいよ」

 

「そう言ってくれるな、トレーナー君。それで、ブライアンも考えたのだが……」

 

 ヤンは首を横に振る。

 

「ブライアンのようなパワータイプでは、彼女の『影』を捕まえられないだろうね」

 

「その通りだトレーナー君。とはいえ、ゴールドシップではまた別の問題がある」

 

「……まぁ、ね。こういう詰まらなさそうな案件では、彼女は間違いなく言う事を聞かないだろう」

 

 そこで、ルドルフは、ヤンの後ろで静かに紅茶を淹れているライスシャワーに、視線を移した。

 

「そこで君の『刺客』を、1レースお借り出来ないだろうか」

 

「……彼女は、まだ『調整中』だ。いきなりの実戦、それも一級のウマ娘が揃う重賞は、脚への負荷が高すぎる。今回は……」

 

 ヤンが正否を答えるより早く、ライスシャワーが、ヤンの前に紅茶を置きながら、静かに言った。

 

「……お兄さま。ライス、行けます」

 

 彼女の脚は、ヤンの設計図通りに「再構築」され、以前よりもわずかに、しかし確実に、強靭さを増していた。何より、彼女の瞳に宿る覚悟は、もはや「ヒール」のそれではなく、同じフィールドで戦う「ライバル」を見据える、静かな闘志だった。

 

「いや、しかし……」

「お兄さま」

 

 ライスシャワーとヤンの視線が交錯する。ヤンは、微温の紅茶を一口飲むと、観念したように呟いた。

 

「……やれやれ。本人がやる気ならば、仕方ないか」

 

「お兄さま!」

 

「だが、いいかね?ライスシャワー。今回の君の任務は、ただ勝つことではない」

 

「え……?」

 

「君と同じ戦術を使う相手に対し、君の『刺客』としての走りがいかに完成されているか、その『格の違い』を見せつけることだ。彼女は、ラスト600mで仕掛けるだろう。君は、それより遅く、ラスト400mまで待て。彼女が『影』なら、君は『影よりも深い闇』になれ。彼女が音もなく走るなら、君は気配さえも消せ」

 

 ヤンはそこで初めて、魔術師らしい笑みを浮かべた。

 

「そして、彼女が『勝った』と思った、その一瞬後ろから、音もなく抜き去れ。最高の『刺客』とは、勝利の瞬間まで、誰にもその存在を気づかせないものだ」

「はい!お兄さま!」

「では、少し走りを見よう。先にグラウンドに行っててくれるかい?」

「うん!」

 

 ライスシャワーはそう答えると、扉の向こうに姿を消していった。

 

「……ところでトレーナー君。『お兄さま』とは?」

「うーん。深くは聞かないでくれると嬉しいかな」

「承知したよ、お兄さま?」

「勘弁してくれ」

 

 ヤンは残りの紅茶を飲み干しながら、頭を掻いていた。

 

 

 そして迎えた、重賞レースの当日。世間の注目は、不気味な新星『サイレントクイーン』と、長い休養から明けた『黒い刺客』ライスシャワーの、異色の対決に集まっていた。

 

 レースは、ヤンの指示通り、奇妙な展開となった。 集団がハイペースで進む中、二人のウマ娘――ライスシャワーとサイレントクイーンだけが、最後方で、まるで互いの存在を確かめ合うかのように、牽制しあっていた。

 

「影」対「刺客」。二人の世界だった。

 

 最終直線。 先に仕掛けたのは、サイレントクイーンだった。ラスト600m。彼女が得意とする「音のないスパート」で、バ群を縫うように上がっていく。 観客が「おおっ」とどよめく。

 

 だが、ライスは動かない。 ヤンの「設計図」を信じ、自らの「再構築」された脚を信じ、ラスト400mの標識まで、ただ息を潜める。

 

 ラスト400m。サイレントクイーンが先頭集団を捉え、勝利を確信しかけた、まさにその瞬間。

 

 その外側から。まるで最初からいなかったかのように。いや、まるでサイレントクイーン自身の影が、実体を持ったかのように。

 

 ライスシャワーが、音もなく、気配もなく、現れた。

 

 ヤンの「設計図」が許可した、たった一度の完璧な加速(アサシネーション)。「再構築」された脚が、一切の無駄なく、その推進力だけをターフに伝える。

 

 サイレントクイーンが並ばれたことに気づいた時にはもう遅かった。彼女は自分と同じ、あるいはそれ以上に静かで、速い「影」がこの世に存在したことに驚愕する暇さえなかった。

 

 結果は、ライスシャワー1着。

 

 だが、その勝利は、あまりに静かで、地味だった。ブライアンのような圧倒的なパワーも、ルドルフのような絶対的な威厳もない。

 

 

 ただ気づいた時にはそこにいた。

 

 

 そんな、地味な勝利。

 

 

 2着に敗れたサイレントクイーンも、なぜ負けたのか分からない、という顔をしている。案の定観客席からも、

 

「勝ったけど……地味なレースだったな」

 

「なんだかよく分からないうちに終わった」

 

 という言葉が聞こえ、その凄さに気づくものはおらず、困惑の声がこだましていた。

 

 

 ライスシャワーは、そんな観客席には目もくれなかった。彼女は、ターフを離れ、スタンドの一番上で静かに双眼鏡を構える「お兄さま」、そして「チーム・ヤン」の仲間達に向かって、深く、静かに、一礼するのであった。

 

「ライシャワー……見事な走りだった」

 

「やるじゃねーかライス」

 

 ブライアンとゴールドシップが賛美の声を送る。その隣で、ルドルフとヤンは深く頷き、拍手を送っていた。

 

「トレーナー君。君の完璧な『魔術』、見せてもらったよ」

 

「この勝利は魔術じゃあないよ。ルドルフ」

 

「では、トレーナー君が考える勝因は何かな?」

 

「君も人が悪いね。判っているんだろう?」

 

 観客の喝采は、もう、彼女には必要なかった。

 

「ライスシャワーの『勝ちたい』と思う気持ち。そして、そこから生まれる血のにじむような、そんな努力の結果だよ」

 

 魔術師と刺客の、静かな戦いは、これからも続く。

 

「それに、私は迷っていた彼女の背中を、ほんの少しだけ押したに過ぎない。彼女を菊花賞や天皇賞に勝利できる、そんな一流のウマ娘に育て上げたのは間違いなく、彼女を見出したトレーナーの手腕だからね」

 

「今日は随分と謙虚だね?トレーナー君」

 

「事実だから仕方がないさ、ルドルフ」

 

 そして、彼女が走る道の先に、ヤン達以外にも理解者はきっと増えていく事だろう。その先には、魔術師の手から離れる事も、有り得ることだろう。

 

 自らの意志で歩いていく覚悟。

 

 それこそが、彼女がその身を賭して手に入れた、何物にも代えがたい、真の「祝福」だったと言えるだろう。

 

「それにだ。私が思うに、ライスシャワーも、彼女のトレーナーも、少しだけ世間からの評価という雑音を気にし過ぎていただけに過ぎない。出来れば、元の鞘に戻ってほしいと、私はそう思っているよ」

 

 ほう、と感心するシンボリルドルフ。だがそれとは対照的に、ナリタブライアンは怪訝な表情をヤンに向けていた。

 

「で、アンタの本心は?」

 

「ん?……そのほうが私の平穏が保たれる、という所かな。ブライアン。刺客を身中に抱えておくのは、個人的な、非常に個人的な理由で心労が絶えないんだ。ま、とはいえ、ここまで面倒を見た手前、拒むつもりは毛頭ない。あとは本人の心次第さ」

 

 どこか遠くを見つめながらそう呟くヤンに、彼女達はくすりと笑うのだった。

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