ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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ルドルフとくれば、テイオーも来るというもの。


トウカイテイオー編
後日譚:帝王の笑顔と魔術師の溜息


 ある日の昼下がり。

 

 トレセン学園のカフェテリアは、午後の授業を終えた生徒たちの喧騒から少し離れ、穏やかな空気に包まれていた。その一角で、ヤン・ウェンリーはスポーツ新聞を片手に、微温(ぬる)くなった紅茶を嗜んでいた。

 

「『トウカイテイオー、骨折から復帰。復帰レースは大阪杯か』……ね」

 

 ヤンは紙面に踊る「帝王復活」の文字を、まるで遠い銀河の戦況報告でも読むかのように淡々と読み上げ、視線を上げた。テーブルを挟んだ先に居たのは、同じように優雅な手付きでティーカップを傾ける生徒会長、シンボリルドルフだ。

 

「ルドルフ、君としては嬉しいんじゃないのかい?記事によれば、彼女は君に憧れて無敗の三冠を目指していたそうだが。懇意にしているんだろう?」

 

 ヤンの問いかけに、ルドルフはカップをソーサーに置き、静かに目を細めた。その表情には、先輩としての慈愛と、隠しきれない憂いが同居している。

 

「その通りだ、トレーナー君。彼女は私の背中を追いかけ、無敗のまま二冠を達成した。だが……最後の菊花賞は、骨折で出場すら叶わなかった」

 

 ルドルフは、少しだけ視線を伏せた。

 

「無敗の記録とは、積み上げれば積み上げるほど重くなるガラスの塔のようなものだ。一度砕ければ、その破片は走る者の心を深く傷つける。……だが、彼女は折れなかった。こうして復帰が目前となったことは、非常に嬉しく思っているよ」

 

「ふむ。不撓不屈(ふとうふくつ)の精神、というやつか。結構なことだ」

 

 ヤンは他人事のように頷き、新聞を畳んだ。

 

「英雄には試練が付き物だと言うが、怪我を乗り越えて再び戦場に戻るというのは、歴史的に見ても容易なことではない。彼女がその試練を無事に乗り越えられることを、一人のファンとして祈っておくよ」

 

「……ああ。そう願いたいのだがね」

 

 ルドルフの歯切れの悪い返事に、ヤンは一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに思考を切り替えた。今の自分は、歴史の傍観者だ。学園のアイドルウマ娘の復帰劇など、遠い国の出来事に過ぎない。この穏やかなティータイムが終われば、自室に戻って昼寝の続きでもしよう。

 

 そう考えていた、魔術師の平和な計算は――数十分後、粉々に打ち砕かれることになる。

 

 

 

 その日、ヤン・ウェンリーの平穏な午後は、またしても物理的な衝撃によって破られた。

 

 ただし今回は、ドアが蹴破られたわけではない。ドアは勢いよく開け放たれ、そこから「帝王」を自称する、やかましい春の嵐が吹き込んできたのである。

 

「ねえ!キミが『魔術師』って呼ばれてるトレーナー!?」

 

 ソファで歴史書を読んでいたヤンは、ページをめくる手を止め、ゆっくりと顔を上げた。けだるげに向けられたヤンの視線の先にいたのは、不遜なほどにキラキラとした瞳を向ける、栗毛のウマ娘――トウカイテイオーだった。

 

 彼女はヤンの返事も待たず、ビシッと彼を指さして宣言する。

 

「ボクをチーム・ヤンに入れてよ!カイチョーが認めたトレーナーなんでしょ?なら、ボクのことだって見れるはずだもん!」

 

 ヤンは、手元の微温(ぬる)くなった紅茶を一口すすると、まるで今日の天気を答えるかのように即答した。

 

「………当然、お断りする」

 

「はあ!?なんで即答なのさ!ボクだよ?トウカイテイオーだよ?無敵の帝王になる予定のウマ娘なんだよ!?」

 

「君が誰であろうと関係ない。私の管理能力は、既に皇帝と怪物と混沌と刺客によってパンクしている。これ以上、騒がしいお姫様の相手をする余裕は、私の給料袋の中身と同様に存在しないんだ」

 

「むっ……!ボクはお姫様じゃないやい!」

 

 テイオーが頬を膨らませ、抗議しようとしたその時、開け放たれたドアから、もう一人の――そしてヤンにとって最も頭の痛い人物が現れた。

 

「……すまないな、トレーナー君。私の可愛い後輩が、どうやら君に迷惑をかけているようだ」

 

 シンボリルドルフだった。彼女は困ったように、しかしどこか甘い顔でテイオーを見つめ、それからヤンに向き直った。ヤンは思わず顔を顰める。なぜならばルドルフのその目には、ヤンが最も苦手とする『個人的な頼み事』の色が浮かんでいたからだ。

 

「カイチョー!この人、ボクのこと見てくれないんだよ!ケチだよ!」

「こら、テイオー。彼はケチなのではなく、極度の省エネ主義なだけだ……。トレーナー君、少しだけ彼女の話を聞いてやってくれないか」

 

 そらきた。ヤンは頭を掻きながら、やれやれとため息をつき、読んでいた本を閉じた。

 

「皇帝陛下の頼みとあれば、聞くだけは聞こう。……それで?トウカイテイオー。クラシック戦線で大活躍し、ダービーウマ娘となった君が、そしてそれを成し遂げさせた専属のトレーナーがいるはずの君が、なぜこんな辺鄙な場所へ?」

 

「だって……トレーナーが、まだ走っちゃダメって言うんだもん!」

 

「ふむ。確か君はダービーの後骨折が発覚した、菊花賞もそれが元で辞退したと聞き及んでいる。その影響が残っているだけではないのかね?」

 

 テイオーは、不満たっぷりに訴えた。

 

「骨折はもう治ったの!お医者さんだって、骨はくっついたって言ってたよ。なのに、復帰戦はまだ早いとか、フォームを変えろとか……。」

「君のトレーナーがそういうのなら、従うのが筋だろう」

 

 さも当然といったヤンの雰囲気に、テイオーは地団駄を踏む。

 

「ボクは今すぐにだって走れる感覚があるの!」

「ふむ。意見が食い違っている、と。ルドルフ、そうなのかい?」

 

 ヤンは視線をルドルフに向ける。ルドルフは眉をひそめ、重々しく頷いた。

 

「……彼女の言う通りだ。テイオーの担当トレーナーは再発を恐れて慎重になっているし、間違ってはいないと思う。だが、テイオーの『走れる』という感覚もまた、天才ゆえの真実かもしれない。私としても、彼女の可能性を過保護に潰したくはないのだが……判断がつかなくてね」

 

 やれやれと言った具合に、ルドルフは頭を振る。そして、その手に持っていた封筒を、ヤンに手渡した。

 

「そこで、君に判断してほしい。必要なデータは用意してある」

 

 

 天才の感覚か、凡人の慎重論か。

 

「拝見しよう」

 

 ルドルフですら迷うその問いに対し、ヤンはルドルフが持参したテイオーのレントゲン写真と、過去のレース映像を交互に眺めた。ヤンの目が、歴史学者のそれから、戦場を見渡す『魔術師』の目へと変わる。

 

「なるほど。確かにデータ上は完治と言ってもいいだろうね。そして君には、以前と同じように走れる『感覚』が確かにあるわけだ」

「そうだよ!ボクのステップは無敵だもん!」

 

 彼はレントゲンの写真を軽く指で弾くと、紅茶をもう一口飲み込み、まるで明日の天気を予報するように淡々と告げた。

 

「となると、結論は一つだ」

 

 ヤンは、希望に輝くテイオーの瞳を真っ直ぐに見つめ、冷徹に言い放った。

 

「今のまま復帰すれば、君のその足は、間違いなくまた折れることだろうね」

 

「……え?」

 

 帝王の笑顔が、凍りついた。あまりにも断定的な物言いに、テイオーは言葉を失い、次いで怒りが湧き上がる。

 

「な、なんでそんな事言うのさ!ボクの感覚は嘘をつかないよ!今までだって、そうやって勝ってきたんだ!」

「そう。確かにその感覚に嘘はないのだろうね。―――だからこそ、問題しかない」

 

 ヤンはタブレットを操作し、彼女の走りのスローモーション映像を映し出した。

 

「君の最大の武器は、その柔軟な足首とバネだ。スローで見ればより判り易いが、着地の瞬間、常人なら耐えられない衝撃を君は、関節の柔らかさで吸収し推進力に変えている。実に素晴らしい才能であり、過去に類を見ないほど芸術的と言ってもいい」

「で、でしょ? なら……」

「だが、それは君の骨格が万全であり、君の出力が制御されていることが前提となる」

 

 ヤンはそう言いながら、テイオーが骨折した脚を指差した。

 

「今の君は、完治したとはいえ、一度、骨が折れてしまった体だ。にもかかわらず、君の『感覚』は、壊れる前と同じ100%の出力を要求している。強化ガラスにヒビが入った後、接着剤で直したとして、君はそれをハンマーで思い切り叩けるかね?」

「う……それは……」

「無理だろう。そんな不安定なものを、思い切り叩けば割れてしまうのは明白だ。つまるところ君の言う『無敵のステップ』は、今の状態では、君自身を破壊するための装置でしかない」

 

 静まり返る室内。ルドルフもまた、痛ましい表情で沈黙を守っていた。テイオーは唇を噛み締め、俯いた。

 

「……じゃあ、ボクは……もう走れないの? カイチョーみたいに、なれないの?」

 

 その声は震えていた。ヤンは、少しだけ眉を下げると、面倒くさそうに頭を掻いた。

 

「走れないとは言っていない。ただ、今のままではダメだというだけだ」

「え?」

「簡単な理屈だよ。構造に問題があるなら、補強するか、運用方法を変えればいい」

 

 ヤンは机の引き出しから、一枚のメモ用紙を取り出し、サラサラと何かを書き始めた。

 

「君のトレーナーが慎重なのは正しい。だが、君が走りたいというのもまた、ウマ娘の生理的欲求から来るものなのだろう。ならば折衷案だ」

 

 彼がテイオーに渡したのは、およそトレーニングメニューとは思えない代物だった。

 

『1.紅茶を入れたカップを持ち、一滴もこぼさずに廊下を往復する(一日2時間)』

『2.プールの中での、スローモーション歩行』

『3.歴史書(ハードカバー)を頭に乗せたままのスクワット』

 

「……なにこれ」

 

「君の『バネ』を一時的に殺し、衝撃をいなすための訓練だ。いわば、地面との対話の準備といったところだ。君のステップが『弾む』ものから『滑る』ものへと変われば、足への負荷は半減し、壊れる可能性は劇的に減るだろう」

 

 ヤンは、ソファに深く座り直した。

 

「これのうち、どれか一つを完璧にこなせるようになるまで、全力疾走は禁止。それが守れるなら、私が『臨時顧問』として、君と、君のトレーナーに口添えをしてやろう。どうだね?」

 

 それは、天才であるトウカイテイオーにとって、おそらく人生で最も退屈で、地味な時間の提案だった。だが、彼女はメモを握りしめ、顔を上げた。

 

「……やるよ。やってやるよ!」

「では、選びたまえ。どれを行うのかな?」

「一番!ボクは天才だもん、こんなのすぐに終わらせてやる!」

「いい返事だ。では、早速始めたまえ。ライスシャワー、彼女に練習用の水を入れたカップを」

 

 いつの間にか部屋の隅に控えていたライスシャワーが、

 

「は、はいっ!」

 

 と慌てて準備を始めるのであった。

 

 こうして、ヤン・ウェンリーの部屋に、また一つ、騒がしい日常が追加された。満足げに頷くルドルフと、カップを持ってプルプルと震えるテイオーを横目に、ヤンは心の中で大きくため息をついた。

 

(やれやれ。引退への道が、また一歩遠のいた気がするな……)

 

 魔術師の溜息は、今日も紅茶の湯気と共に消えていくのである。

 

 

「……ああっ! もう! またこぼれた!」

 

 バシャッ、という音と共に、ヤンのトレーナー室の床に水たまりができるのは、これで何度目だろうか。

 

(無敵の帝王たるボクが、こんな、カップに入ったただのお水に負け続けているなんて―――!!!)

 

 テイオーは悔しげに地団駄を踏み――その振動で、手元のコップからさらに水が跳ねるという悪循環に陥っていた。

 

「……ライスシャワー、雑巾を」

「は、はいっ!」

 

 ソファで分厚い歴史書を開いたまま、視線すら送らずに指示を出すヤン・ウェンリー。その横で、甲斐甲斐しく雑巾がけをするライスシャワー。

 

 ―――この奇妙な光景が、ここ数日のヤンとライスシャワー、そしてトウカイテイオーの日常となっていた。

 

「ねえ、魔術師!これ、本当に意味あるの!?」

 

 テイオーは濡れたジャージの袖を捲り上げながら、ヤンに食って掛かった。

 

「ボクは走る練習がしたいんだよ!こんな、お茶汲みの練習みたいなことしてて、いつになったらカイチョーに追いつけるのさ!」

「お茶汲みも立派な兵站、ロジスティクスの一部だがね。そして私は魔術師ではないと、何度言えば判るんだい?」

 

 ヤンは本に栞を挟むと、ようやく億劫そうに顔を上げた。

 

「そしてなにより、君は大きな勘違いを一つしている。君が水をこぼすのは、君が『下手』だからじゃない。君の性能が『高すぎる』からだ」

 

「え……?性能が、高すぎる?」

 

「そうだ。君のその足首のバネは、無意識のうちに地面を強く蹴り上げ、その反動で身体を前に飛ばそうとする。それが君の速さの源泉だが、今の低速動作においては、その過剰な出力が全て振動となってコップに伝わっているんだよ」

 

 ヤンは、手元のティーカップを持ち上げた。テイオーのカップと違い、ヤンの持つ紅茶の液面は、鏡のように静止している。

 

「いいかい?今の君に必要なのは、地面を『蹴る』ことじゃない。例えるなら、地面と『和解』することだ」

「和解……?」

「そう。喧嘩腰に足を地面に叩きつけるのではなく、卵の上を歩くように、あるいは薄氷の上を滑るように、衝撃を殺して接地する。出力をゼロにする制御を覚えなさい。それができれば――」

 

 ヤンはカップを置き、珍しくニヤリと笑った。

 

「君のそのガラス細工のような足は、強靭なサスペンションを手に入れることになる」

 

 地面と、和解する。

 

 テイオーはその言葉を反芻しながら、再びコップに水を注いだ。

 

(確かにボクのステップは、地面を叩いてた……。そうじゃなくて、もっと……こう?)

 

 抜き足、差し足。天才の彼女は、感覚を掴むのも早かった。これまで無意識に使っていた「バネ」を封印し、膝と股関節、そして足首を柔らかく使って、衝撃を逃がす。

 

 最初の一歩。水面が揺れる。

 

 次の一歩。大きく波打つ。

 

 

 だが、十歩目。

 

 

 ピタリと、波紋が消えた。

 

 

「――あ」

 

 

 感覚が変わった。身体が重力に逆らわず、ストン、と地面に収まる感覚。それは「弾む」ような高揚感はないけれど、どこまでも静かで、滑らかな移動だった。

 

「……ほう」

 

 本を読んでいたはずのヤンが、小さく声を漏らした。

 

 そして、その日の夕方。テイオーは、カップの『紅茶』を一滴もこぼすことなく、廊下の端から端までを歩ききってみせた。

 

「で、できた……!見た!?ねえ見た!?ボクってやっぱ天才!?」

 

「ああ、見ていたよ。私の見立てよりも随分と早く感覚を掴んだ様だね」

 

 ヤンは立ち上がり、空になった自分のティーカップを持ってテイオーに近づいた。

 

「合格だ。約束通り、顧問としての権限を行使して、明日から走路でのランニングを許可しよう」

「やったぁ!」

「ただし」

 

 ヤンは人差し指を立てた。

 

「今の『歩き方』を、そのまま『走り』に応用すること。地面を蹴ろうとした瞬間、君の足はまた悲鳴を上げるぞ」

 

「わかってるって!もうコツは『掴んだ』もん!」

 

 テイオーは自信満々に胸を張る。その笑顔は、部屋に来た当初の危ういものではなく、確かな技術に裏打ちされた、帝王の輝きを取り戻しつつあった。

 

(ルドルフから、『トウカイテイオーは天才だ』とは聞いていたが。これほどとはね)

 

 ■

 

 翌日。トレセン学園の練習コースには、久しぶりにジャージに袖を通し、ターフの上に立ったトウカイテイオーの姿があった。その周囲には、遠巻きに見守る他のウマ娘たちや、心配そうな顔をした本来の専属トレーナー。そして、コース脇のベンチで紅茶を飲んでいるヤンと、その隣に立つシンボリルドルフの姿もある。

 

「……トレーナー君。彼女はいきなりトップスピードを出そうとする癖があるが」

「心配ないよ、ルドルフ。彼女は賢い。それに、昨日までの特訓で『退屈』の味を十二分に思い知ったことだろう。彼女の性格的に、二度とあの地味な作業に戻りたくないだろうし、彼女は私の言いつけを守るはずさ」

 

 心配するルドルフと見守るヤンを尻目に、テイオーは軽く屈伸をすると、深呼吸をした。

 

(地面と、和解する。卵の上を歩くように……)

 

 そして、テイオーが腰を落とし、おもむろに地面を蹴る。その走り出しに、周囲がざわめいた。いつもの、弾むような独特の「テイオー・ステップ」ではない。頭の位置が上下せず、まるで氷の上を滑るように、スーッと加速していく。

 

 音が、しない。地面を蹴る音ではなく、風を切る音だけが残る。

 

「……なっ!?」

 

 専属トレーナーが目を見開く。

 

「あれは……もしかして、足への負担を極限まで減らしたフォーム……!?いつのまに……」

 

 そして誰よりも、走っているテイオー自身が一番驚いていた。

 

(軽い……! なにこれ、すごく軽い!)

 

 今までの走りが、地面との衝突の繰り返しだったとしたら、今の走りは、地面が勝手に後ろへ流れていくような感覚。バネを使っていないのに、スピードは以前と変わらない。いや、衝撃がない分、後半の伸びが違う。

 

 そして、コースを一周し、スタートした地点を駆け抜けた瞬間、テイオーは歓喜のあまり、思わず拳を突き上げた。

 

「痛くない。違和感もない。完全に治ってる……。それだけじゃない!前より、速く走れてる!!!」

 

 歓喜の声を上げて駆け回るトウカイテイオーの姿を、ヤンは少し離れたベンチから眺めていた。

 

 

(やれやれ、これでようやく肩の荷が下りた)

 

 そう思って腰を上げようとした時、テイオーの専属トレーナーである青いジャージの青年が、意を決したようにヤンの前に歩み出てきた。

 

「あの……ヤン・ウェンリー先生」

 

 彼は帽子を取り、深々と頭を下げた。

 

「本当に、ありがとうございました。そして……うちのテイオーが、多大なご迷惑をおかけしてしまって。本来なら私が導くべきところを、部外者である先生の手を煩わせてしまい、なんとお詫びすればよいか……」

 

 その誠実で、責任感の強そうな言葉に、ヤンは居住まいを正した。 先ほどまでの、本を片手に欠伸を噛み殺していた怠惰な男の気配は消え失せ、そこにはかつて同盟軍の式典で見せたような、人当たりの良い、穏やかな。―――言ってしまえば、「外向きのヤン・ウェンリー」が顔を出していた。

 

「いいえ、お気になさらないでください。同じトレセン学園のトレーナーでしょうに。迷惑だなんてとんでもない」

 

 ヤンは帽子のつばを軽く持ち上げるような仕草をして、柔らかく微笑んだ。

 

「彼女のような才能が、構造的な欠陥ひとつで失われてしまうのは、一人の歴史ファンとして見ていられなかっただけのことです。それに、彼女の足が『再構築』に耐えられたのは、貴方がこれまで、彼女の基礎を丁寧に作り上げてきたからこそですよ」

 

「私が、ですか……?」

 

「ええ。貴方が怪我の再発を恐れて慎重になった判断は、戦術的にも決して間違っていなかった。もし貴方が無理に走らせていたら、私が手を入れる前に、彼女の足は修復不能なほどに砕けていたでしょう。貴方は、彼女の未来の可能性を見事、温存して見せたのです。胸を張ってください」

 

 それは、単なる慰めではなく、事実に基づいた評価だった。ヤンの言葉に、若きトレーナーの顔に溜まっていた苦悩の色が、すっと晴れていく。

 

「……ありがとうございます。先生にそう言っていただけると、救われます」

 

「礼には及びませんよ。私はただ、整備マニュアルの1ページ目を書き換えたに過ぎない。ここから先、彼女を最強の帝王に育て上げるのは、貴方の仕事だ」

 

 ヤンは、コースに戻ってきたテイオーに視線をやった。

 

「今回相手にして判りましたが、彼女はとびきりの天才です。だが、それゆえに脆い。これからも手がかかるでしょうが、よろしく頼みますよ」

 

 まるで保護者のような、あるいは老成した将軍のような口調で語るヤンに、専属トレーナーは再び深く頭を下げた。その時、話が終わったのを察知したのか、テイオーが弾むような足取りで戻ってきた。

 

「あー!!トレーナー!!なーにお話してたの?ボクの事?」

「ああ。君の新しいフォームの運用の話だよ」

「そっか!すっごいでしょトレーナー!!!あ、そうだ魔術師!お礼に今度、ボクがとびきり甘い『はちみつ紅茶』淹れてあげるからね!」

 

 テイオーはウィンクをして見せた。

 

「ボク特製の、とろっとろに甘いやつ!疲れた頭に効くよー?」

 

 にししと笑うトウカイテイオー。それを見たヤンは一瞬、心の中で、

 

(できれば紅茶にはブランデーを数滴垂らしたいところだが……)

 

 と思ったが、すぐにその思考を打ち消した。ここは教育の場であり、目の前にいるのは未成年の生徒たちだ。大人の嗜みを見せつける場所ではない。彼は苦笑いと共に、無難な答えを返した。

 

「……気持ちだけ受け取っておこうかな。それとハチミツは控えめにしてくれ。私は甘すぎるのは苦手でね。添える程度にしてくれると助かる」

 

「えー?魔術師はお子ちゃまだなぁ。美味しいのに!」

 

「こらこら、ヤン先生にこれ以上ご迷惑をかけちゃいけないよ、テイオー」

 

 

 ブーたれるテイオーと、それを宥める専属トレーナー。その微笑ましい光景を見届け、ヤンは隣に立つルドルフに目配せをした。

 

「さて、皇帝陛下。一件落着だ。私の仕事はこれで終わり、ということでいいかね?」

「ああ、見事な采配だったよ、トレーナー君」

 

 ルドルフは満足げに頷いた。

 

「これで心置きなく、次の『案件』を君に回せるというものだ」

 

 ヤンは心底めんどくさそうな顔を、ルドルフに向ける。

 

「……君、常日頃、私の話を聞いていたのではないのかい?」

 

 ルドルフはキョトンとしながら、言葉を続けた。

 

「もちろんだとも。トレーナー君は常日頃から歴史書を読み、そして常日頃から引退したいとボヤいている。だが、その歴史書の殆どはウマ娘についてばかりだ。ウマ娘の歴史をもっと深く知りたいのではないのかな?とすれば、トレーナー君に引退などしている暇などは、万に一つも無いだろう」

 

「間違ってはいないが……」

 

「それに、本から得られる知識も大切だが、書物で学んだ知識を行動に移す、知行合一(ちこうごういつ)が重要だと私は思うんだ。例えば、歴史の知識を深めるには、本を読むだけでなく実際に現地へ赴き、実物を見ることが欠かせないだろう?

 

 ………おっと、歴史学者であるトレーナー君にとっては、釈迦に説法だったかな?」

 

 ヤン・ウェンリーは苦笑いを浮かべ、頭を掻いて、ため息を大いについた。

 

「やれやれ……ルドルフもいつの間にか、いやらしい論法を使うようになったものだね」

 

 その言葉にルドルフはと言えば、わざとらしく背筋を伸ばすと、すまし顔でこう言い切った。

 

「―――常日頃から、ご高配くださった賜物と心得ております。ヤン・ウェンリートレーナー」

 

 ヤンは、天を見上げると、再び大きなため息をついた。

 

「結構な賜物と相成ったようで、光栄の至りだよ。シンボリルドルフ生徒会長殿」

 

 彼の平和な隠居生活への道程はどうやらまだ、星の彼方にあるようだった。

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