ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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皇帝と魔術師2―ロンシャンの夕日

 前人未到のG1・7勝。

 

 その輝かしい金字塔を打ち立てた後、シンボリルドルフと彼女のトレーナー、ヤン・ウェンリーの名は、トレセン学園における生ける伝説となっていた。皇帝の覇道は国内において完成され、誰もがその栄光の永続を信じて疑わなかった。

 

 ヤン本人を除いては。

 

 

 

 

 

「――というわけで、理事長。私、そろそろトレーナーを引退したいのですが」

 

 

 

 

 

「却下ッ!である!」

 

 

 

 

 トレーナー室で、ヤンは秋川理事長の甲高い声を思い出し、実に、本日七度目のため息をついた。彼の前には山積みの書類――ルドルフの次走に関する提案書や、メディアからの取材依頼だ。

 

「いやしかし、彼女はもう国内に敵なしです。私の役目は終わったでしょう。これからは、暖かい部屋で歴史書でも読みながら、紅茶と共に穏やかな余生を……」

 

「まだ君は若いだろう!?それに、他のウマ娘達の指導もしてもらわねば困るッ!君ほどの才能をもったトレーナーなど稀なのだからな!?」

 

 

 その日の夕暮れ、トレーニングを終えたルドルフは、いつものようにヤンのために紅茶を淹れながら、静かに、しかし断固とした口調で告げた。

 

「トレーナー君。私は、海外へ行きたい」

 

 カップに注がれていた紅茶の液面が、ぴたりと静止した。ヤンは顔を上げる。

 

「……海外?パリあたりに観光旅行でもかね?」

「凱旋門賞だ」

 

 ヤンのささやかな「トレーナー引退」という願いは、皇帝自身の言葉によって、より完全に打ち砕かれることになる。その単語が持つ重みを、ヤンは知っていた。ウマ娘の世界における最高峰。数多の日本のウマ娘が挑み、そして夢破れてきた、憧れと絶望の舞台。

 

 ヤンは即座に首を横に振った。

 

「却下だ。リスクが高すぎる。第一、欧州のレースはデータが少なすぎるし、芝も環境もまるで違う。不確定要素の塊だ。君ほどのウマ娘を、そんな分の悪い賭けに晒すわけにはいかない」

 

 それは、彼の本心だった。この世界に来て、初めて得た平穏。手塩にかけた才能が傷つく姿など、見たくはなかった。それは、かつて数えきれないほどの部下を失った男の、偽らざる祈りだった。

 

 しかし、皇帝は揺るがない。

 

「君が不可能だと言うのなら、私は一人でも行く。私の覇道は、この島国だけで完結するものではない。世界の強豪と鎬を削り、その先にこそ、全てのウマ娘が目指すべき道標を創ることができる」

 

 ルドルフはヤンの目をまっすぐに見据えた。

 

「それに……私は確かめたいのだ。君の『魔術』が、この世界で本当に通用するのかを。それとも、日本のターフだけでしか使えない、ささやかなまやかしなのかをね」

 

 挑発的な言葉。しかし、その瞳の奥には、ヤンに対する絶対的な信頼が宿っていた。ヤンは天を仰ぎ、観念したように息を吐き出した。

 

「……やれやれ。どうやら私は、とんでもない野心家を主に持ってしまったらしい。分かった、行こう。世界だろうがどこだろうが、付き合うよ」

 

 彼はニヤリと口の端を上げた。

 

「ただし、君のその挑戦が、ただの無謀な遠征で終わるか、歴史的な快挙となるか。そのすべては、この私――しがない歴史学者の双肩にかかっていることを忘れないでくれたまえ、皇帝陛下。私の言う事には、全て従ってもらうよ。ルドルフ?」

 

「望むところだ、我が魔術師殿」

 

 こうして、伝説の新たな章の幕が上がった。目指すは、フランス、ロンシャンレース場だ。

 

 

 ヤンの日常から、くたびれた表情が消えた。

 

 トレーナー室に運び込まれたのは、レース雑誌やスポーツ新聞ではない。欧州の気象学に関する論文、ロンシャンレース場開設以来の全レースデータ、フランスの芝に関する土壌学の専門書、果てはナポレオンの遠征記録に至るまで。ヤンはそれらの情報という名の海に溺れるように没頭し、その目はかつて敵艦隊の動きを盤上で読んでいた頃の鋭い輝きを取り戻していた。

 

「欧州の芝は、粘土質で水分を多く含む。パワーだけでは勝てない。日本の高速バ場のようにスピードで押し切ろうとすれば、最後の200メートルで確実に沈む」

 

 ヤンはルドルフに、全く新しいトレーニング理論を提示した。

 

「必要なのは『燃費』だ。君の心肺機能と脚力を、いかに温存し、最後の最後に爆発させるか。我々はレースで勝つんじゃない。戦争に勝つんだ。補給(スタミナ)を完璧に管理し、敵が疲弊した一瞬の隙を突く電撃戦を仕掛ける」

 

 それは、ルドルフの走りを根底から作り変える試みだった。彼女もまた、ヤンの言葉を信じ、血の滲むような努力でそれに応えた。

 

 そして、秋。二人は花の都パリに降り立った。

 

 現地のメディアは、日本の皇帝の到来を大きく報じたが、その隣に立つ気のない男には誰も注意を払わなかった。

 

「あれが噂の魔術師と呼ばれているトレーナーか?」

「覇気が感じられないな」

 

 そんな囁きが聞こえてくる。だが、ヤンはどこ吹く風。彼はルドルフの最終調整を学園から共に来ていたスタッフに任せると、一人、ロンシャンのコースが見えるカフェで、現地の紅茶の味を品評していた。

 

 ―――しかし、その手元のタブレットには、ライバルとなるウマ娘たちの最新の調教データと、リアルタイムで更新される風速、湿度、バ場状態が、複雑な数式と共に表示され続けていた。

 

 

 凱旋門賞当日。

 

 空は泣いていた。降りしきる冷たい雨が、ロンシャンの美しい芝を容赦なく叩き、ターフは重くぬかるんだ沼のようだった。ヤンが想定していた中で、最悪のシナリオ。

 

 観客席の一角で、ヤンは双眼鏡を手に、ただ静かに戦場を見つめていた。その隣では、日本の関係者たちが固唾を飲んでゲートが開く瞬間を待っている。

 

 ゲートが開く。

 

 ルドルフは好スタートを切るが、すぐに欧州の猛者たちによる厳しいマークにあう。進路は塞がれ、思うようにポジションを上げられない。泥が跳ね、視界を奪う。

 

(落ち着け…焦りこそが最大の敵だ…)

 

 ルドルフは心の中で、レース前にヤンから受けたブリーフィングを反芻する。

 

『いいかい、ルドルフ。完璧な作戦など存在しない。戦場では必ず想定外のことが起きる。重要なのは、パニックに陥らず、手持ちのカードで最善の答えを導き出すことだ。君にはそのための知識と判断力を叩き込んできたはずだよ』

 

 そして、最終コーナー手前。事件は起きた。

 

 密集したバ群の中で、一人のウマ娘がバランスを崩した。それを避けたルドルフは、大きく外に振られるという絶望的なロスを被る。先頭集団は遥か彼方。

 

 誰もが、皇帝の敗北を確信した。日本の応援団から悲鳴が上がる。

 

 ヤンの隣にいたスタッフが

 

「ああ…万事休すだ…」

 

 と天を仰いだ。しかし、ヤンは眉一つ動かさず、ターフを睨み続けていた。彼の瞳は、絶望的な状況の中に、まだ残されているはずの、コンマ数パーセントの可能性を探し続けていた。

 

 その頃、ターフ上のルドルフもまた、同じ結論に達しようとしていた。

 

(常識的なコース取りでは、もう間に合わない――)

 

 その時、彼女の脳裏に蘇ったのは、いつかの午後の、穏やかな紅茶の香りとともに語られたヤンの戦術講義だった。

 

『歴史上、完全な包囲網というものは存在しない。必ずどこかに綻びがあるんだ。そして面白いことに、その綻びは多くの場合、最も堅固で、最も危険に見える場所にこそ生まれる。敵の意図の裏をかくんだ。誰もが不可能だと思う一点にこそ、活路は開かれる』

 

 退屈そうに、しかし本質を突くその言葉。ルドルフは目の前の、絶望的に見えるウマ娘たちの壁に意識を集中させた。常識で考えれば、安全な大外を回すしかない。だが、それでは届かない。

 

(信じよう。彼の言葉を。そして、彼が信じてくれた、私自身の『眼』を!)

 

 レース前、最後にヤンはこう言った。

 

『あらゆる事態を想定し、何十通りものシミュレーションを君に渡した。だが、最後の引き金を引くのは、いつだって君自身だ。私は君を信じている』

 

 ルドルフは、進路を探すのをやめた。彼女は、自ら活路を「創り出す」ことに決めた。

 

―――来た。

 

 ほんのコンマ数秒、一人のウマ娘が息を継ぐためにわずかに外に膨らんだ。そこに生まれた、ウマ娘一人がギリギリ通れるかどうかの隙間。誰もが躊躇する、危険極まりない針の穴のような進路。

 

 彼女はそこに全存在を賭けて突っ込んだ。

 

 その瞬間、観客席のヤンの口元に、誰にも気づかれないほどの微かな笑みが浮かんだ。

 

「……それでこそ、だ」

 

 

 泥を切り裂き、水飛沫を上げる。

 

 ヤンが設計し、ルドルフが完成させた『省エネ走法』によって温存されてきたスタミナが、最後の最後で爆発する。

 

 一人、また一人と、世界の強豪たちを抜き去っていく。その姿は、まるで黒い稲妻だった。

 

 そして――。

 

 静寂に包まれたゴール板を、ルドルフは先頭で駆け抜けた。一瞬の沈黙の後、ロンシャンレース場は割れんばかりの歓声とどよめきに包まれた。歴史的瞬間だった。

 

 レース後、泥だらけのままヤンの元へ駆け寄ったルドルフは、息を切らしながらも誇らしげに言った。

 

「トレーナー君!やった、やったぞ!」

「ああ。なんとか、負けずにすんだ」

「君のおかげだ!君が、私に多くの『武器』を持たせてくれたから……!」

「君、いつになく大袈裟だね」

 

 ヤンは穏やかに答えると、持っていたタオルでルドルフの頬の泥を拭った。

 

「私にできるのは、地図を渡し、コンパスの使い方を教えることだけだ。どのルートを選び、嵐の中でどう進むかを決めるのは、いつだって君自身の役目だよ」

 

 彼はそう言って、心からの笑みを浮かべた。

 

「よくやった、ルドルフ。君は最高の生徒であり、最高の戦友だ」

 

 その言葉に、ルドルフは一瞬目を見開いた後、満面の笑みで応えた。

 

 二人が見つめる先、凱旋門の向こうに、燃えるような夕日が沈んでいく。

 

 伝説は、海を越えた。皇帝の覇道は、世界を照らし始めた。その隣には、いつも気だるげに紅茶を愛する稀代の魔術師がいる。彼らの物語は、まだまだ続くのであろう。

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