ある日の夕方の事。魔術師が何時もの日課を熟すように、ソファーに座りながらライスシャワーの淹れた紅茶を飲んでいたときの事。
「ヤン・ウェンリートレーナー。この後、少々纏まったお時間を頂きたい」
その『招待状』は、あまりに唐突に、そしてシンボリルドルフを経由するという、全く不可解なルートでもたらされた。
「ルドルフ……?どうしたんだい、かしこまって」
「君自身に、招待状が届いている。この後、直ぐにだ」
ヤン・ウェンリーは、シンボリルドルフが持参した厚手の封筒を、中身も見ずにテーブルへ放り出した。手触りやその見た目から、明らかに権力者か、金持ちの招待状であることが明白であったからだ。
「却下だ。断固としてお断りする」
しかも、権力を傘にした上で、他人の時間が削られることを、全く考慮していない。『この後直ぐに』などという事をのたまう、ヤンが非常に嫌悪する手合いだ。
「いいかい、ルドルフ。私はただでさえ、君やブライアン、それにあの制御不能なゴルシの相手で手一杯なんだ。その上、財閥の御曹司だか何だか知らないが、金持ちの道楽に付き合わされて、『君の戦術論を聞かせてくれ』などと品定めされるのは御免被るよ」
ヤンは不機嫌そうに紅茶をすする。しかし、今日のルドルフはいつものように、やれやれ、と引き下がることはなかった。
「気持ちは分かるが、トレーナー君。今回の相手は、我がシンボリ家のメインスポンサーの一つ、『ローエングラム・ホールディングス』を束ねる若き総帥だ」
彼女は、珍しく深い紫色のドレスに身を包んでいた。その姿は、トレセン学園の生徒会長ではなく、名門シンボリ家の令嬢としての威厳に満ちていた。
「無下にすれば、私の立場、ひいては学園の運営にも関わる」
「権力を傘に着るとは、君らしくもない」
ヤンは嫌味を言うが、それを意にせずに、ルドルフは懐に手をやった。
「それに……彼から君に『伝言』を預かっている」
ルドルフは、一枚の小さなメッセージカードを差し出した。ヤンは仕方ない、と言わんばかりに、億劫そうにそれを受け取り、視線を落とす。そこには、流麗な、しかし力強い筆跡で、日本語でこう記されていた。
『卿(けい)は相も変わらず、コーヒーよりも紅茶を好んでいるようだな』
ヤンの動きが、文字通りに止まった。それを見たルドルフは、満足気に頷く。
「私には意味が判らなかったが、トレーナー君ならば、意味がわかるのだろう?」
この世界に来てから、彼を「卿」と呼ぶ人間などいなかった。そして、彼がコーヒーを嫌い、紅茶を好むことを、まるで昨日のことのように指摘するこの口調。ヤンの脳裏に、黄金色の髪と、氷のような蒼氷色の瞳を持つ、若き覇者の姿が蘇る。
「……まさか、な」
ヤンは小さく呟くと、カップを置き、ゆっくりと立ち上がった。その顔からは、いつもの気だるさが消え、かつてイゼルローン要塞で指揮を執っていた頃の、静かな緊張感が漂っていた。
「……分かった。行こう。彼を待たせるのは、あまり得策ではなさそうだ」
「承知したよ、トレーナー君。着替えも用意してある。こちらへ」
■
迎えの車は、見たこともないような高級リムジンだった。シンボリ家が用意したというそれの後部座席で、ドレスアップしたルドルフの隣に座りながら、ヤンは借りてきた猫のように窮屈そうにしていた。
「慣れないタキシードは、首元が痒くなるものだね」
「トレーナー君がそこまで緊張するとは珍しいな。相手に心当たりがあるのかな?」
ルドルフの言葉に、ヤンは後部座席の窓から、外の景色を無意識に眺めていた。既に夜の帳(とばり)は落ち、東京の夜景が流れていく。その様子はまるで、在りし日の星々のようだった。
「……古い知り合いに似ている気がしてね。もっとも、二度と会うことはないと思っていた相手だが」
そう言っている間にも、車は都心の超高級ホテルに到着する。そして、ボーイに案内され、2人がたどり着いたのは、豪華な装飾が目立つ最上階のスイートルームの前。
「シンボリルドルフ様、ヤン・ウェンリー様。お待ちしておりました」
そう言いながら、ボーイが重厚な扉を開けようとしたその時だ。
「私は、ここで待機しているよ。トレーナー君」
そう言って、ルドルフは足を止めた。
「君も同席するんじゃなかったのか?」
「そのつもりだったが、直感だ」
ルドルフは一歩身を引いて、更に言葉を続ける。
「……この扉の向こうには、シンボリ家として、私の用事は無い」
ルドルフは聡明な瞳でヤンを見つめ、背中を押すように微笑んだ。
「君自身の『再会』の場であるような気がしてね。行ってくれたまえ、我が、魔術師殿」
ヤンは微かに苦笑し、大きく息を吐き出すと、開け放たれた扉に、足を踏み入れた。
■
広大な部屋の中央、夜景を背にして一人の男が立っていた。
黒髪に黒目。背丈も中肉中背。どこにでもいそうな、純日本人の青年だ。
だが、彼が振り返り、その瞳がヤンを射抜いた瞬間、ヤン・ウェンリーは確信した。姿形は違っても、その身から放たれる圧倒的な覇気。周囲の空気すら支配するような、冷たく、そして激しい炎のような存在感。
「久しいな、ヤン・ウェンリー」
その男――かつてラインハルト・フォン・ローエングラムと呼ばれた青年は、傲岸不遜とも言える笑みを浮かべ、ヤンに歩み寄った。
「まさか、このような辺境の、しかも平和ボケしたような世界で、卿と再会することになるとはな」
「……全くです。世の中というのは、つくづく奇妙にできているらしいですね。閣下……いや、今は何とお呼びすれば?」
「好きに呼べ。今の名は一応あるが、卿に呼ばれるのは座りが悪い」
ラインハルトはソファを勧め、自らも優雅に腰を下ろした。テーブルには、極上の香りを放つ紅茶と、そして漆黒のコーヒーが用意されていた。
「卿の好みの物を用意させた」
「……お心遣い、痛み入ります。では、遠慮なく」
ヤンは、用意された紅茶を一口すする。香りや味は間違いなく一級品。そして淹れ方も最高のレベルで纏まっている。
「それで、ヤン・ウェンリー。卿はこの世界で何をしている?噂では、馬の耳を持つ少女たちの教官をしていると聞いたが」
「教官ではなくトレーナーです。それに、彼女たちが走る姿は、かつての艦隊戦よりも遥かに平和で、美しいものですから」
そして、かつての戦いのことではなく、この世界の経済のこと、政治のこと、そしてウマ娘という存在のこと、二人は語り合った。
会話の中で分かった事だが、彼はこの世界でも、その天才的な手腕で若くして財閥のトップに上り詰め、既に経済界を席巻しているという事だった。
「ヤン・ウェンリー。単刀直入に言おう」
一通りの雑談を終えると、ラインハルトは鋭い眼光をヤンに向けた。
「私の下に来い」
「……と、おっしゃいますと?」
ラインハルトはコーヒーを一口啜る。そして、改めてその口を開いた。
「我がグループの特別顧問、いや、副総帥の座を用意してもいい。卿のその知謀、たかが徒競走の作戦立案に使うには惜しすぎる。私と共に、この世界の経済を、構造を変えてみないか?卿なら、私の描く設計図を完璧に理解し、補佐できるはずだ」
それは、かつてバーミリオン会戦の直後、彼がヤンに提示した「元帥の地位」と同じ重みを持つ、最大級の勧誘だった。
だが、ヤンは困ったように眉を下げ、頭を掻いた。
「……光栄なお誘いですが、お断りします」
「何故だ?『民主主義を守るため』というお題目は、この世界では通用せんぞ」
「ええ。ですが、私には既に契約している『皇帝』がおりましてね」
ヤンは、扉の向こうにいるであろうルドルフの顔を思い浮かべる。
「それに……」
どこか生真面目すぎる、『皇帝』の顔を。
「それに?」
「ことのほか、彼女たちの淹れる紅茶が気に入っているんです」
それは、戦略的価値も、政治的合理性もない、ただの感傷的な理由。かつての「魔術師」ならば、鼻で笑ったかもしれない理由。
「この、閣下自ら用意して頂いた紅茶は間違いなく最高級品だ。文句のつけようがない。……ですが、あの子たちが、泥だらけになりながら勝利を掴み、その後に不器用な手つきで淹れてくれる、微温(ぬる)い紅茶の味も、案外と悪くないんですよ。―――あれを手放してまで、激務必至の財閥幹部になるというのは、私の性分じゃありません」
ヤンの減らず口に、ラインハルトは一瞬きょとんとし、次の瞬間、声を上げて笑った。
「ははは!そうか!そうか、そうか!紅茶か!紅茶の味で、私はまたしても卿にフラれたというわけか!」
ひとしきり笑うと、ラインハルトは楽しげに、しかしその黒いはずの瞳に、あの蒼氷色の鋭い光を宿して言った。
「二度目だな。私が卿に振られるのは」
「……恐縮です」
「一度目はバーミリオンで、私の元帥杖を。そして二度目は今ここで、私の右腕としての地位を。……宇宙を手に入れた私が、二度も同じ人間に拒絶されるとはな」
ラインハルトは、懐から一枚の、装飾のない黒いカードを取り出し、テーブルの上を滑らせてヤンの前に置いた。
「私の直通の連絡先だ。そして、我がグループの全権限を行使できるパスでもある」
「いや、お誘いをお断りした手前、そのような大層なものは……」
「持っておけ」
ラインハルトは、有無を言わせぬ口調で遮った。
「これは命令ではない。私の『我儘』だと思えばいい。二度も誘いを断り、私の顔を潰したのだ。せめてこれを受け取り、私の気が向いた時の話し相手になるくらいの借りは返してもらわねば、割に合わんというものだ」
それは、理屈になっているようでなっていなかった。だが、その言葉の裏には、かつて同じ時代、同じ銀河を駆け抜け、自分と対等に渡り合った唯一の存在──「好敵手」への、不器用な敬愛が込められていた。
ヤンは観念したように、小さくため息をついた。
「……やれやれ。断るという選択肢すら与えていただけないとは。相変わらず……覇気に満ち満ちたお方だ」
かつて一度だけ会見した時と同様、この男は生まれながらの支配者なのだと、ヤンは再認識した。
「分かりました。お守り代わりに預かっておきます。……もっとも、これを使うような事態にならないよう、平穏に暮らすつもりですがね」
「フン、卿のことだ。どうせまた、組織の論理やら、理不尽な権力やらに巻き込まれて往生するに決まっている。その時は遠慮なく使え。……とはいえ、星々の戦いで私を苦しめた卿が、困り果てて私を頼ってくる姿を見るというのも、それはそれで愉快だがな」
「性格が悪い」
「褒め言葉として受け取っておこう」
ラインハルトはニヤリと笑い、満足げにコーヒーを飲み干した。
「要件は済んだ。行け、ヤン・ウェンリー。卿の『皇帝』を、外で待たせているのだろう?」
■
ヤンが一礼して部屋を出ると、廊下ではルドルフが静かに待っていた。
「終わったのか?」
「ああ。正直、寿命が縮んだよ」
ヤンはネクタイを緩めながら、ポケットに入れた黒いカードの、鉛のような重みを感じていた。
「それで、どうだったかな?我が家のパトロンは」
「相変わらずだ。変わらないよ。姿形は違っても、中身はあの頃のままだ」
「そうか。やはり、知り合いだったのだね」
「再び会いたくはなかった手合いだがね」
ヤンは窓の外に広がる夜景を見つめ、ふと漏らした。
「……いつになったら、私に平穏な日々は訪れるのやら。君達ウマ娘達だけではなく、黄金の獅子まで現れては、枕を高くして昼寝もできやしない」
その心底嫌そうな愚痴を聞いたルドルフは、クスリと笑った。
「諦めたまえ、トレーナー君。君はウマ娘界の希望だ。平穏というモノは、当分、訪れないだろうと予言しておくよ」
「他人事だと思って……」
「それに」
ルドルフは、悪戯っぽくヤンの顔を覗き込んだ。
「君が本当に望んでいるのは、毒にも薬にもならぬ退屈な時間より、少々刺激的な『生きた歴史』の方ではないのかな?」
ヤンは一瞬言葉に詰まり、それから、いつもの困ったような、しかし穏やかな笑みを浮かべた。
「……やれやれ。皇帝陛下には、人の心を見透かす魔眼もおありのようだ」
彼は、脳裏に連なる顔ぶれを見た。
無邪気な帝王。
内気な刺客。
破天荒な女神。
不器用な怪物。
そして、生真面目すぎる皇帝。
彼女たちは、騒がしくて、手がかかって、非合理的で、ヤンの平穏を脅かす存在だ。だが、彼女たちが目指しているのは、領土の奪い合いでも、他者の支配でもない。
ただ純粋に、誰よりも速く走りたいという、眩しいほどの願いを持つ、ウマ娘達だ。
■
夜の帳が下りた東京の街を、二人を乗せた車が走り去っていく。その背後、高層ホテルの一室で、かつて銀河を統べた男は、窓辺で夜景を見下ろしながら小さく呟いた。
「達者でな、ヤン・ウェンリー。……次にこそは、卿を唸らせる紅茶を、必ず、用意させよう」
皇帝と魔術師、そして黄金の獅子の物語は、この平和な世界で、また新たな交錯を見せ始めたのである。