歴史家の不確定性原理①
3月某日。冬の寒さが弱まって、春の陽気が顔を覗かせ始めたある日の昼下がり。ヤン・ウェンリーは、ライスシャワーの淹れた紅茶を嗜みながら歴史書を読んでいた。
「うん。美味しいよ。ライスシャワー。腕を上げたんじゃないかい?」
「あ、ありがとうございます。お兄さま」
穏やかなひととき。だが、ヤンの頭の片隅には、少しばかり面倒事が記憶されているようだ。
「話によるとそろそろ来るはず、なんだが」
「誰か、いらっしゃるんですか?」
「なに、ちょっとね」
ヤンがそう呟く。すると、つかの間、ドアがひとりでに開かれていた。
「……やあ、魔術師君。失礼するよ」
トレーナーの部屋を訪れたのは、そんな穏やかな陽気とは正反対な、幽霊のような顔をしたウマ娘だった。
栗毛の髪はボサボサで、自慢の白衣には何かの薬品のシミがついている。そして何より、その瞳には理性的な光と、狂気じみた焦燥が、ドロドロに混ざり合っていた。
彼女は挨拶もそこそこに、ヤンの向かいのソファに、糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
「入室を許可した覚えはないのだけどね?」
「そうかね。些細な事だよ」
「では、せめて名前ぐらいは教えてくれないかな」
「私はアグネスタキオンという。少々、退屈しのぎに付き合ってくれないかい?」
「ふむ。では、ライスシャワー、悪いけどアグネスタキオンと2人にしてもらえるかな?」
心底嫌そうな顔でヤンは溜息を吐く。そして読んでいた本を置き、彼女の顔をじっと見た。
「……顔色が悪いな」
「そうかね。特に私は変わりはないのだがね?」
「君は、専任トレーナーはいるのかい?」
「ああ、いるとも」
「その、君の管理をしているトレーナーは何をしているんだい?」
その問いが出た瞬間、タキオンの表情が凍りついた。彼女は乾いた笑い声を漏らす。
「クク……モルモット君の事か。少しばかり喧嘩をしてね」
「喧嘩?穏やかじゃないね」
「ああ。彼は優秀だったが、優しすぎたのだよ。私の脚が軋む音を聞くたびに、彼は実験の中止を訴えた。……つまり、速度を落とし、脚を温存し、凡庸なウマ娘として生き延びろとね」
タキオンはそう言いながら、自身の脚を強く握りしめた。
「……それはね、私への冒涜に他ならないのだよ」
爪が食い込むほどに強く。
「私は長生きがしたいんじゃない。『向こう側』が見たいんだ。肉体が弾け飛び、骨が砕け散ったとしても、その先にある光の景色を網膜に焼き付けたい。……だが、彼はそれを止めた。私の幸福を願って、私の夢を殺そうとした」
「向こう側、ねぇ。随分と君はロマンチストのようだ」
やれやれ、とヤンは首を横に振って、言葉を続ける。
「実験と言うのであれば、例えば、他のウマ娘のデータを収集することによって『向こう側」とやらを知る、という手段もあったのではないのかい?」
「ああ、ああ。ああ!そうだとも!私も最初はそう考えていたとも!だが、可能性を知ってしまっては、自らの脚で掴みに行かなければならないだろう!?」
「可能性?」
彼女は顔を上げ、ヤンを射抜くように睨んだ。
「その通り。だから、君のところに来たんだ、ヤン・ウェンリー」
タキオンは立ち上がり、ヤンのデスクに両手をついて身を乗り出した。
「君は『怪物』ナリタブライアンをレースという戦場に送り出し、その才能を極限まで引き出していると聞いた。『設計図』も見せてもらったよ!
―――ああ、あの設計図は素晴らしい!自らの脚の脆弱性を強化しつつ、長所を伸ばしつつ、それでいて勝利に的確だ!それにトウカイテイオー、ライスシャワー。彼女らの脚も君に出会ってから間違いなく強化され、そして、信じられない成果を生み出している!私のシミュレーション以上の成果を彼女たちは出し続けている!」
「………なるほど、それで」
「そうとだとも!特異点とも言える君ならきっと用意できるのだろう?」
ぐっと、タキオンは顔をヤンに近づけて、瞳には狂ったような光を湛えながら、叫ぶように言葉を紡ぐ。
「この私、アグネスタキオンの『設計図』を!例えば、そう!壊れゆく兵器を、最後の一撃まで完璧に運用する、トレーナーらしからぬ、冷徹な!軍隊にいるような指揮官、そんな存在が命じる、無慈悲な計画を!」
彼女の要求は、悲痛なほどの懇願だった。つまりそれは言い換えれば。
『私を使い潰してくれ。優しく守るのではなく、私の目的のために、私を燃やし尽くしてくれ』
という事に他ならない。ヤンは、タキオンの鬼気迫る表情を、静かに見つめ返していた。そして、手元の微温(ぬる)くなった紅茶を一口すすり、ゆっくりと口を開いた。
「……買い被りだよ、アグネスタキオン。私は冷徹な指揮官でもなければ、君が望むような死神でもない」
「謙遜は不要だ!君の戦術眼があれば……!」
「だが」
ヤンは言葉を遮り、さらに冷めた声で言った。
「『速度を落として生き延びろ』という、君のトレーナーの意見には賛同しかねるな」
「……ほう?」
タキオンの眉がピクリと動く。
「一般的なウマ娘のトレーナーとしては正しいが、アグネスタキオンというウマ娘のトレーナーとしては三流の判断だ、と言わざるを得ないだろう」
「どういう意味かね?」
「夢に向かって進むウマ娘の進路を邪魔するのは、トレーナーの仕事ではない、と言ったんだ」
ヤンは一つ溜息を吐いて、再び紅茶で口を濡らす。
「歴史上、偉大な発見や勝利の多くは、常軌を逸したリスクの先にあった。―――だから私は、君の『向こう側』を見たいという欲求自体は否定しない」
「ほう!流石だねえ、ヤン・ウェンリー!」
「だが、その代償として『肉体が弾け飛ぶ』ことを許容するのは、非合理的だと私は思う」
ヤンは立ち上がり、本棚から一冊の古い戦記を取り出した。
「例えばこの歴史書。これは、観測者が生き残ったからこそ、ここにあるわけだ。そして観測者が生き残ったからこそ歴史書として証明され、認められている」
「当然だ。そういった書物は、観測と実証によってのみ存在が証明される」
ヤンはその言葉に頷いた。
「判っているのならば話が早い。君は観測者がいなくなった実験の結果を、誰が証明すると思っているんだい?」
「それは……」
「君がゴール手前で壊れて、光の速さの片鱗を見たとする。アグネスタキオンというウマ娘、その個人は満足するのだろう。だが、その脚が焼き切れ、ウマ娘としての機能が停止したら、そのデータはどこへ行く?
答えは簡単で、ウマ娘を壊すような走行データなどは誰にも相手にされず、歴史にも残らず、ただ虚空に消え去るだけだ。
良くて『この走り方はウマ娘としての生を閉ざすものだからやめましょう』と、後進へのプロバガンダとなるだけだ。それは科学などという崇高なものではなく、単純な自己満足の成れの果て、と言っていいだろうね」
そう言い切ると、ヤンは本をタキオンに放った。その歴史書のタイトルは『ウマ娘の歴史と系譜』という、ごくありふれた書物だ。
だが、このありふれた物ですら、正しく観測者が存在し、そして、それを後世に『伝えるべきだ』と証明された物なのだ。
「それに君はひとつ、大きな勘違いをしている。私がブライアンに教えているのは、玉砕の方法じゃない。『生還』の方法だ。生き残ってこそ、レースでの結果が評価される」
「なんだ、結局君も『速度を落として生き延びろ』と、凡庸な結論に至ってしまうのか」
「結論を急ぎすぎだ。……いいかい、アグネスタキオン」
ヤンの瞳に、かつてイゼルローン要塞で数多の艦隊を指揮した、底知れぬ智謀の光が宿る。
「君の元トレーナーは『壊れるから走るな』と言ったそうだが、私はそうは言わない」
「ほう?では、どうするのだね」
疑問を浮かべたタキオンに、まるで紅茶を頼むときのような気軽さで、ヤンは答える。
「壊れるタイミングを、自ら選べばいい」
予想外の言葉だったのだろう。アグネスタキオンの動きが文字通り停止した。
「……壊れる、タイミング?」
「そうだ。例えば2400のレースがあったとしてだ。君の脚が限界を迎えるのが、スタートから2000メートル地点だとしよう。これでは全くレースにならない。
だが、もし君が他者を欺き、レース展開を支配し、最後の直線まで脚への負荷を極限までゼロに近づける『詐術』を使えばどうだ。その脚は温存され、ここぞという時に全力を出すことが可能になる。
上手く行けば『向こう側』を、より見やすくなるかもしれない」
ヤンはニヤリと笑った。
「そして、選択と集中とも言える『詐術』の先に、君の脚が砕けるその瞬間を、ゴール板の1センチ先まで『先送り』にする。それができれば、君は『向こう側』を見たまま、観測者として生還できる。
そして『向こう側』から生還した君を見て、皆はこう言うだろう。『あれだけ速く走れる、その方法を知りたい』とね」
タキオンは、呆気にとられたように口を開けていた。
「……と、まあ、机上の空論ではあるけれどね。どうだろう?私のプランは、君の相棒のプランよりは、幾分か刺激的だと思うが」
ヤンの言葉に宿るそれは、優しさではない。かといって、使い捨ての非情さでもない。崩壊という確定した未来を、戦術という名の詭弁でねじ伏せようとする、傲慢なまでの「解決策」。
「……ハ、アハハハハッ!!」
タキオンは、腹を抱えて笑い出した。目に涙を浮かべ、狂ったように笑い続けた。
「素晴らしい!素晴らしいよ、魔術師君!私の脚が壊れることを前提に、その崩壊位置(ポイント)を管理(マネジメント)するだと!?君はやはり、最高の狂人だ!」
「お褒めに与り光栄だよ。それで、どうする?私のプランに乗るか、それとも、自爆への道を突き進むのか。選ぶと良い、アグネスタキオン」
彼女は目元の涙を拭うと、先ほどまでの絶望が嘘のように、爛々とした瞳でヤンを見た。
「いいだろう、乗ったよそのプラン!私の脚がゴール板までもつのか、それとも君の計算が外れて私がただの肉塊になるのか……。モルモット君がついぞ納得しなかったこの『実験』、君になら任せられそうだ!頼んだよ、ヤン・ウェンリー!」
「……やれやれ。私はただ、君が満足して、くだらない喧嘩とやらが収まってくれれば、それで私の平穏が守られると思っただけなんだがね」
ヤンは肩をすくめ、空になったティーカップを置いた。
「ではまず、食事の改善あたりから始めるとしようか」
「食事?そんなもの、サプリメントでかまわないだろう?」
「……その顔色で言われても説得力は皆無だ。アグネスタキオン、私の戦術を選んだ以上、私の言う事には従ってもらうからね。そうでなければ、この話は無しだ」
「承知したよ。なるほど、ヤン・ウェンリー。君もなかなかに頑固者らしいねえ?」
孤高なマッドサイエンティストと、稀代の魔術師。互いの利害だけが一致した、危険な共犯関係がここに成立したのである。