ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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アグネスタキオン編 前編
歴史家の不確定性原理①


 3月某日。冬の寒さが弱まって、春の陽気が顔を覗かせ始めたある日の昼下がり。ヤン・ウェンリーは、ライスシャワーの淹れた紅茶を嗜みながら歴史書を読んでいた。

 

「うん。美味しいよ。ライスシャワー。腕を上げたんじゃないかい?」

「あ、ありがとうございます。お兄さま」

 

 穏やかなひととき。だが、ヤンの頭の片隅には、少しばかり面倒事が記憶されているようだ。

 

「話によるとそろそろ来るはず、なんだが」

「誰か、いらっしゃるんですか?」

「なに、ちょっとね」

 

 ヤンがそう呟く。すると、つかの間、ドアがひとりでに開かれていた。

 

「……やあ、魔術師君。失礼するよ」

 

 トレーナーの部屋を訪れたのは、そんな穏やかな陽気とは正反対な、幽霊のような顔をしたウマ娘だった。

 栗毛の髪はボサボサで、自慢の白衣には何かの薬品のシミがついている。そして何より、その瞳には理性的な光と、狂気じみた焦燥が、ドロドロに混ざり合っていた。

 

 彼女は挨拶もそこそこに、ヤンの向かいのソファに、糸が切れた人形のように崩れ落ちた。

 

「入室を許可した覚えはないのだけどね?」

「そうかね。些細な事だよ」

「では、せめて名前ぐらいは教えてくれないかな」

「私はアグネスタキオンという。少々、退屈しのぎに付き合ってくれないかい?」

「ふむ。では、ライスシャワー、悪いけどアグネスタキオンと2人にしてもらえるかな?」

 

 心底嫌そうな顔でヤンは溜息を吐く。そして読んでいた本を置き、彼女の顔をじっと見た。

 

「……顔色が悪いな」

「そうかね。特に私は変わりはないのだがね?」

「君は、専任トレーナーはいるのかい?」

「ああ、いるとも」

「その、君の管理をしているトレーナーは何をしているんだい?」

 

 その問いが出た瞬間、タキオンの表情が凍りついた。彼女は乾いた笑い声を漏らす。

 

「クク……モルモット君の事か。少しばかり喧嘩をしてね」

「喧嘩?穏やかじゃないね」

「ああ。彼は優秀だったが、優しすぎたのだよ。私の脚が軋む音を聞くたびに、彼は実験の中止を訴えた。……つまり、速度を落とし、脚を温存し、凡庸なウマ娘として生き延びろとね」

 

 タキオンはそう言いながら、自身の脚を強く握りしめた。

 

「……それはね、私への冒涜に他ならないのだよ」

 

 爪が食い込むほどに強く。

 

「私は長生きがしたいんじゃない。『向こう側』が見たいんだ。肉体が弾け飛び、骨が砕け散ったとしても、その先にある光の景色を網膜に焼き付けたい。……だが、彼はそれを止めた。私の幸福を願って、私の夢を殺そうとした」

 

「向こう側、ねぇ。随分と君はロマンチストのようだ」

 

 やれやれ、とヤンは首を横に振って、言葉を続ける。

 

「実験と言うのであれば、例えば、他のウマ娘のデータを収集することによって『向こう側」とやらを知る、という手段もあったのではないのかい?」

 

「ああ、ああ。ああ!そうだとも!私も最初はそう考えていたとも!だが、可能性を知ってしまっては、自らの脚で掴みに行かなければならないだろう!?」

 

「可能性?」

 

 彼女は顔を上げ、ヤンを射抜くように睨んだ。

 

「その通り。だから、君のところに来たんだ、ヤン・ウェンリー」

 

 タキオンは立ち上がり、ヤンのデスクに両手をついて身を乗り出した。

 

「君は『怪物』ナリタブライアンをレースという戦場に送り出し、その才能を極限まで引き出していると聞いた。『設計図』も見せてもらったよ!

 ―――ああ、あの設計図は素晴らしい!自らの脚の脆弱性を強化しつつ、長所を伸ばしつつ、それでいて勝利に的確だ!それにトウカイテイオー、ライスシャワー。彼女らの脚も君に出会ってから間違いなく強化され、そして、信じられない成果を生み出している!私のシミュレーション以上の成果を彼女たちは出し続けている!」

 

「………なるほど、それで」

 

「そうとだとも!特異点とも言える君ならきっと用意できるのだろう?」

 

 ぐっと、タキオンは顔をヤンに近づけて、瞳には狂ったような光を湛えながら、叫ぶように言葉を紡ぐ。

 

「この私、アグネスタキオンの『設計図』を!例えば、そう!壊れゆく兵器を、最後の一撃まで完璧に運用する、トレーナーらしからぬ、冷徹な!軍隊にいるような指揮官、そんな存在が命じる、無慈悲な計画を!」

 

 彼女の要求は、悲痛なほどの懇願だった。つまりそれは言い換えれば。

 

『私を使い潰してくれ。優しく守るのではなく、私の目的のために、私を燃やし尽くしてくれ』

 

 という事に他ならない。ヤンは、タキオンの鬼気迫る表情を、静かに見つめ返していた。そして、手元の微温(ぬる)くなった紅茶を一口すすり、ゆっくりと口を開いた。

 

「……買い被りだよ、アグネスタキオン。私は冷徹な指揮官でもなければ、君が望むような死神でもない」

「謙遜は不要だ!君の戦術眼があれば……!」

「だが」

 

 ヤンは言葉を遮り、さらに冷めた声で言った。

 

「『速度を落として生き延びろ』という、君のトレーナーの意見には賛同しかねるな」

「……ほう?」

 

 タキオンの眉がピクリと動く。

 

「一般的なウマ娘のトレーナーとしては正しいが、アグネスタキオンというウマ娘のトレーナーとしては三流の判断だ、と言わざるを得ないだろう」

「どういう意味かね?」

 

「夢に向かって進むウマ娘の進路を邪魔するのは、トレーナーの仕事ではない、と言ったんだ」

 

 ヤンは一つ溜息を吐いて、再び紅茶で口を濡らす。

 

「歴史上、偉大な発見や勝利の多くは、常軌を逸したリスクの先にあった。―――だから私は、君の『向こう側』を見たいという欲求自体は否定しない」

「ほう!流石だねえ、ヤン・ウェンリー!」

「だが、その代償として『肉体が弾け飛ぶ』ことを許容するのは、非合理的だと私は思う」

 

 ヤンは立ち上がり、本棚から一冊の古い戦記を取り出した。

 

「例えばこの歴史書。これは、観測者が生き残ったからこそ、ここにあるわけだ。そして観測者が生き残ったからこそ歴史書として証明され、認められている」

「当然だ。そういった書物は、観測と実証によってのみ存在が証明される」

 

 ヤンはその言葉に頷いた。

 

「判っているのならば話が早い。君は観測者がいなくなった実験の結果を、誰が証明すると思っているんだい?」

 

「それは……」

 

「君がゴール手前で壊れて、光の速さの片鱗を見たとする。アグネスタキオンというウマ娘、その個人は満足するのだろう。だが、その脚が焼き切れ、ウマ娘としての機能が停止したら、そのデータはどこへ行く?

 答えは簡単で、ウマ娘を壊すような走行データなどは誰にも相手にされず、歴史にも残らず、ただ虚空に消え去るだけだ。

 良くて『この走り方はウマ娘としての生を閉ざすものだからやめましょう』と、後進へのプロバガンダとなるだけだ。それは科学などという崇高なものではなく、単純な自己満足の成れの果て、と言っていいだろうね」

 

 そう言い切ると、ヤンは本をタキオンに放った。その歴史書のタイトルは『ウマ娘の歴史と系譜』という、ごくありふれた書物だ。

 だが、このありふれた物ですら、正しく観測者が存在し、そして、それを後世に『伝えるべきだ』と証明された物なのだ。

 

「それに君はひとつ、大きな勘違いをしている。私がブライアンに教えているのは、玉砕の方法じゃない。『生還』の方法だ。生き残ってこそ、レースでの結果が評価される」

「なんだ、結局君も『速度を落として生き延びろ』と、凡庸な結論に至ってしまうのか」

「結論を急ぎすぎだ。……いいかい、アグネスタキオン」

 

 ヤンの瞳に、かつてイゼルローン要塞で数多の艦隊を指揮した、底知れぬ智謀の光が宿る。

 

「君の元トレーナーは『壊れるから走るな』と言ったそうだが、私はそうは言わない」

「ほう?では、どうするのだね」

 

 疑問を浮かべたタキオンに、まるで紅茶を頼むときのような気軽さで、ヤンは答える。

 

「壊れるタイミングを、自ら選べばいい」

 

 予想外の言葉だったのだろう。アグネスタキオンの動きが文字通り停止した。

 

「……壊れる、タイミング?」

 

「そうだ。例えば2400のレースがあったとしてだ。君の脚が限界を迎えるのが、スタートから2000メートル地点だとしよう。これでは全くレースにならない。

 だが、もし君が他者を欺き、レース展開を支配し、最後の直線まで脚への負荷を極限までゼロに近づける『詐術』を使えばどうだ。その脚は温存され、ここぞという時に全力を出すことが可能になる。

 上手く行けば『向こう側』を、より見やすくなるかもしれない」

 

 ヤンはニヤリと笑った。

 

「そして、選択と集中とも言える『詐術』の先に、君の脚が砕けるその瞬間を、ゴール板の1センチ先まで『先送り』にする。それができれば、君は『向こう側』を見たまま、観測者として生還できる。

 そして『向こう側』から生還した君を見て、皆はこう言うだろう。『あれだけ速く走れる、その方法を知りたい』とね」

 

 タキオンは、呆気にとられたように口を開けていた。

 

「……と、まあ、机上の空論ではあるけれどね。どうだろう?私のプランは、君の相棒のプランよりは、幾分か刺激的だと思うが」

 

 ヤンの言葉に宿るそれは、優しさではない。かといって、使い捨ての非情さでもない。崩壊という確定した未来を、戦術という名の詭弁でねじ伏せようとする、傲慢なまでの「解決策」。

 

「……ハ、アハハハハッ!!」

 

 タキオンは、腹を抱えて笑い出した。目に涙を浮かべ、狂ったように笑い続けた。

 

「素晴らしい!素晴らしいよ、魔術師君!私の脚が壊れることを前提に、その崩壊位置(ポイント)を管理(マネジメント)するだと!?君はやはり、最高の狂人だ!」

 

「お褒めに与り光栄だよ。それで、どうする?私のプランに乗るか、それとも、自爆への道を突き進むのか。選ぶと良い、アグネスタキオン」

 

 彼女は目元の涙を拭うと、先ほどまでの絶望が嘘のように、爛々とした瞳でヤンを見た。

 

「いいだろう、乗ったよそのプラン!私の脚がゴール板までもつのか、それとも君の計算が外れて私がただの肉塊になるのか……。モルモット君がついぞ納得しなかったこの『実験』、君になら任せられそうだ!頼んだよ、ヤン・ウェンリー!」

 

「……やれやれ。私はただ、君が満足して、くだらない喧嘩とやらが収まってくれれば、それで私の平穏が守られると思っただけなんだがね」

 

 ヤンは肩をすくめ、空になったティーカップを置いた。

 

「ではまず、食事の改善あたりから始めるとしようか」

「食事?そんなもの、サプリメントでかまわないだろう?」

「……その顔色で言われても説得力は皆無だ。アグネスタキオン、私の戦術を選んだ以上、私の言う事には従ってもらうからね。そうでなければ、この話は無しだ」

「承知したよ。なるほど、ヤン・ウェンリー。君もなかなかに頑固者らしいねえ?」

 

 孤高なマッドサイエンティストと、稀代の魔術師。互いの利害だけが一致した、危険な共犯関係がここに成立したのである。

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