ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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歴史家の不確定性原理②

 アグネスタキオンとヤン・ウェンリーの奇妙な共犯関係が成立してから、数日が経過していた。

 気が付けばトレーナー室には各種実験道具や資料が山積みとなり、完全にタキオンの「第二研究室」と化していた。

 

 が、そこで行われている「実験」は、彼女が期待していたような、脳髄を痺れさせるような刺激的なものではなかったようだ。

 

 

「……魔術師君。これは一体、どういう冗談かね?」

 

 昼下がりのトレーナー室。タキオンは、ヤンから渡された物体を、ピンセットでつまみ上げながら不満の声を上げた。それは、緑、赤、黄色と彩り豊かな――ごく一般的な「野菜スティック」だった。

 

「冗談?見たままの食事だよ。君のトレーナーから幾つか話を聞いた上で、取り寄せた資料を見たがね、君は研究に没頭すると食事を抜く悪癖があるようだ。それでは困る」

 

 ヤンは自席で、タキオンが持ち込んだ怪しげな機材を勝手にどかしてスペースを作り、そこで優雅に、ライスシャワーが淹れた紅茶を口にしながら答えた。

 

「君が望む結果、すなわち『崩壊の先送り』を実行するためには、アグネスタキオンという軍隊の補給線を維持しなければならない。腹が減っては戦はできぬ、というやつさ」

 

「……私はね、もっとこう、魔術師と呼ばれるに至った未知の戦略や、細胞分裂を強制的に加速させるような練習面でのアプローチを期待していたんだがねぇ。それが栄養学だなんて。枯れた学問だよ」

 

「あいにくと、私は『魔術師』ではないし、栄養学なんて高尚なものは分からないよ。ただ、歴史が教えてくれるのは、補給を軽視した軍隊は、敵と戦う前に自滅するということだけだ」

 

 ヤンは、まるで歴史の教科書を読み上げるように、気だるげに言った。

 

「君は『向こう側』へ行きたいんだろう?にもかかわらず、ガス欠でたどり着けないというのは、あまりに喜劇が過ぎると思わないか?」

 

 タキオンは「チッ」と舌打ちをすると、不承不承、人参スティックを口に運び、小動物のようにガリガリと齧り始めた。

 

「……味気ない。実に味気ないよ、この実験は」

「平和な食事というのは、得てして味気ないものさ」

 

 ヤンは満足げに頷くと、手元のタブレット端末に視線を落とした。そこには、タキオンの過去のレースデータと、彼女自身が計画を立てた今後のスケジュールが事細かに表示されている。

 

「ところで、タキオン。確認しておきたいんだが」

「んぐ……なんだい?」

 

「君はこれまで、幾つの戦場を駆けてきたんだ?」

 

 まるで、今日の天気を聞くような軽さだった。タキオンは野菜を飲み下し、ハンカチで口元を拭いながら答える。

 

「公式戦は3戦だ。メイクデビュー、それにホープフルステークス、あとは弥生賞」

「勝敗は?」

「……全勝さ。トレーナー……モルモット君が止めるほどに、私の脚が壊れかけるほどの出力を出しているのだから、当然の結果だがね」

 

「ふむ。3戦3勝。結構な戦績だ」

 

 ヤンは画面をスクロールさせ、次の予定欄を指でなぞった。

 

「で、次の実験場はどこになるんだい?このスケジュール表には『要検討』としか書かれていないが」

「ああ、それかね」

 

 タキオンは、ビーカーに残っていた怪しげな青い液体を揺らしながら、ニヤリと笑った。

 

「決めてはいなかったが、君に会って決心したよ。次は、『皐月賞』さ」

「……サツキショウ?」

 

 ヤンは聞き覚えのある単語に、少しだけ眉を動かした。ルドルフやブライアンが血道を上げていた、クラシック三冠の第一関門。

 

「なるほど。私の隷下に入るやいなやの、いきなりクラシックのG1というわけか。……やれやれ、少々ハードルが高い気がするな」

 

 思わずヤンは、ため息を吐きながら頭を掻く。それをみたタキオンは、意外そうな表情を浮かべていた。

 

「おや?怖気づいたのかね、魔術師君。三冠ウマ娘を2人も輩出しているというのに」

 

「まさか。ただ、準備期間の短さを憂いているだけさ」

 

 ヤンは紅茶を一口すすると、いつもの気だるげな調子で言った。

 

「皐月賞まで、あと数週間。君の脚を作り直す時間はないし、私にはそんな専門知識もない。となればやはり、当初の予定通り『運用方法』を変えるしかないようだね」

 

「運用方法……。例の『詐術』とやらだね?ヤン・ウェンリー」

「そうだ。いいかい、アグネスタキオン」

 

 ヤンは立ち上がり、ホワイトボードに簡単な図を描き始めた。

 

「私は中山のコース適性だとか、ラップタイムだとかいう数字遊びは、君に比べれば大幅に劣ると言わざるを得ない。だが、集団心理なら君よりは少しは分かる」

 

 それは、レースコースの分析図ではなく、まるで軍隊の布陣図のような、単純な丸と矢印だった。

 

「……君のこれまでのレースを見る限り、君は『目立ちすぎている』」

「褒め言葉として受け取っておこう」

「いや、戦略的には悪手だと言っているんだ。君という『脅威』が動けば、周りの敵も過剰に反応して加速する。結果、戦場全体の消耗速度が上がる。それは君の脚にとって、最も避けたい事態だろう?」

 

 ヤンは、ホワイトボード上の『タキオン』を示す駒を、集団の中に埋没させた。

 

「今回の作戦目標は、『勝つこと』ではない。『戦場の時間を遅らせること』だ」

「時間を……遅らせる?」

「ああ。別に先頭に立つ必要はない。そして、君が動くことで周りが警戒するということは、君が止まることで周りが安堵するというロジックが成り立つ。

 ……まあ、なんだ。簡単に言えば、アグネスタキオンという存在を『重り』にして、集団全体の行軍速度を、その脚が耐えうるギリギリのラインまで『遅く』させるんだ」

 

 ヤンは、ホワイトボードのペンを置いた。

 

「敵(ウマ娘)を欺き、味方(トレーナー)すら欺き、誰もが『まだ本気を出さなくていい』と錯覚するような、ぬるま湯の状況を作り出す。特に経験の少ないウマ娘が集まるクラシック級のG1、しかもその第一戦目となれば、効果覿面と言えるだろうね」

 

 その言葉を聞いていたタキオンの瞳が、妖しく輝いた。

 

「つまり?」

「そうすれば、アグネスタキオンという兵器が本気を出すのは、最後のほんの一瞬で済むはずだ。思い切り加速をかけたとしても、一つのレースという戦術において、その負荷は相対的に小さくなる、という算段さ」

 

 全くもって、科学的なアプローチではない。だが、それは『敵の心理を利用して、自らの限界をごまかす』という、極めて合理的で、そして狡猾な戦略だった。

 

「……ククッ、ハハハ!面白い!私に『ブレーキ』役になれと言うのか!周りの凡百なウマ娘たちの心理を操り、泥沼の消耗戦に引きずり込めと!」

 

「人聞きが悪いな。あくまで『無駄な流血を避けるための遅滞戦術』と言ってくれたまえ」

 

 ヤンは肩をすくめた。

 

「君が光の速さを出したいのなら、最後の1ハロン、200メートルだけでいい。そこまでは、私の計画した退屈な行軍に付き合ってもらうよ」

「いいだろう!採用だ、そのプラン!私の脚が持つまでの時間を、心理戦で稼ぐ……。実に興味深い実験だ!」

 

 タキオンは白衣を翻し、上機嫌で部屋の中を歩き回り始めた。ヤンはそれを見ながら、少しやつれた野菜スティックを一本手に取り、ポリポリと齧った。

 

(やれやれ。これで少しは大人しくなってくれればいいんだが……)

 

 窓の外では、冬の寒さは消え失せて、春の陽気が漂う。

 

「まあ、タキオン。具体的なプランはまた後で伝えるから、君はしっかりと朝・昼・晩と、三食の食事を取るように」

「承知したよ。ヤン・ウェンリー。……しかし、やはり食事を取るなど、その行為は非効率だ。サプリメントでは駄目かい?」

 

「駄目だ。いいかい?サプリメントで数値を誤魔化すのは結構だが、固形物を咀嚼し、内臓を動かさなければ、基礎代謝という名のエネルギー変換効率は上がらない。ここ数日の食事改善で君の顔色は幾分か良くなったが、まだまだ焼け石に水と言っていいだろうね」

 

「むう………」

 

「ウマ娘にとって体は資本だ。特に君は『向こう側』というロマンチックなものを見ようと、そのために誰よりも速くあろうとするくせに、そこを誰よりも蔑ろにしている」

 

「モルモット君と同じような事を言うねえ?」

 

「トレーナーとしての当たり前の意見さ。何事も基礎・基本を疎かにしては、成功する物も成功しない。『規則正しい食事』はそのための、極めて合理的な補給作戦と言っても良い行為だよ」

 

 魔術師とマッドサイエンティストが挑む、最初の実験場。そのゲートが開く時は、刻一刻と迫っていた。

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