4月の中山レース場は、独特の熱気と湿気を帯びていた。
クラシック三冠の初戦、皐月賞。
若き才能たちが初めてぶつかり合うこの場所は、歴史的に見ても、多くの夢が生まれ、そしてそれ以上の多くの夢が散っていく古戦場だ。
観客席の喧騒から少し離れた関係者席の片隅で、ヤン・ウェンリーは紙コップに入った紅茶―――とはいっても彼にとっては許しがたいことに、それはティーバッグですらない、給茶機から出てくる味気ない液体だった―――を口に運び、小さく顔をしかめた。
「……やれやれ。歴史的な大一番だというのに、兵站の質はどうにかならないものかなあ」
彼がティーサーバーに不満を漏らすのも無理はない。ここ数週間、彼はトレーナー業という名の「実験助手」として、アグネスタキオンという名の「暴走機関車」のメンテナンスに奔走させられていたのだから。
食事の管理に始まり、徹夜で実験を続けようとする彼女に睡眠を強制させ、そして何より、彼女の精神という名のソフトウェアに、全く新しい戦術アルゴリズムを書き込む作業。
それは、自由惑星同盟軍の複雑怪奇な事務処理にも匹敵するほどの、神経を使う作業だった。
「なんとか形にはなったが………。鬼が出るか蛇が出るか」
ふと、隣に気配を感じる。振り返ると、そこには腕を組み、厳しい表情でターフを見つめるシンボリルドルフの姿があった。
「珍しいな、トレーナー君。君がパドックにも行かず、観客席にも向かわず、このような奥まった場所から戦況を見守るとは」
「ま、今回、私は良くてアドバイザーだ、アグネスタキオンとモルモット君とやらのね。加えて言えば、参謀が最前線の現場に出張るのは負け戦の典型だよ、ルドルフ。
それに、今の彼女に必要なのは、どちらかといえば『私の檄』というより、計算通りに動くための『冷徹な静寂さ』だ」
「計算通り、か」
ルドルフは、眼下のパドックに視線を落とす。そこには、18人のウマ娘たちがお披露目を終えて、思い思いにレースまでの時間を過ごしていた。誰もが緊張に顔を強張らせ、あるいは闘志を剥き出しにしている。だが、その中で一際異彩を放っているウマ娘がいた。
アグネスタキオンだ。
彼女は、いつものように怪しげな独り言を呟くこともなければ、周囲を観察してニヤニヤと笑うこともない。ただ、能面のような無表情で、俯き加減に、ゆっくりと、あまりにもゆっくりと歩いている。
その姿は、まるで病人のようにも、あるいは嵐の前の静けさのようにも見えた。
「こう見ると、彼女の静寂は、実に不気味だ」
ルドルフが呟く。
「彼女の周りだけ、空気が淀んでいるようにも見える」
「ルドルフからもそう見えるのならば、実にいい傾向だ」
ヤンは紙コップを揺らした。
「それが、私の書いたシナリオの第一幕だからね」
■
パドックでの心理戦は、既に始まっていた。
アグネスタキオンというウマ娘は、これまでの3戦で圧倒的なパフォーマンスを見せつけてきた。故に、誰も彼もが彼女をマークしている事は明らかだ。
彼女が動けば、周りも動く。
彼女が走れば、周りも走る。
この皐月賞と言うレースは、そういうレース展開になるである事が、容易に予想出来る。だからこそ、ヤンは彼女にこう命じたのだ。
『何もしなくていい。ただ、そこにいろ。幽霊のように、あるいは座礁した戦艦のように。君という存在がそこにあるだけで、敵は勝手に疑心暗鬼に陥る』
その狙いは的中していた。ライバルたちの視線が、痛いほどタキオンに突き刺さる。
『どうしたんだ?』
『調子が悪いのか?』
『いや、これは罠か?』
『いつもみたいに実験だなんだと騒がない』
『……逆に怖い』
情報がない、という事実は、時として誤った情報以上に人を迷わせる。タキオンの「沈黙」は、周囲のウマ娘たちのリズムを、目に見えないレベルで狂わせていた。
焦り、戸惑い、警戒。それらの感情は、筋肉を硬直させ、呼吸を浅くする。
タキオン自身は、その重苦しい空気の中で、内なる衝動と必死に戦っていた。
(……退屈だ。ああ、退屈だとも!今すぐにでも叫び出し、この芝の上を光速で駆け抜けたい!だが……)
彼女の脳裏に、気だるげな男の声がよぎる。
『君が光の速さを出したいのなら、最後の200メートルだけでいい』
(クク……いいだろう、ヤン・ウェンリー。君の言う通り、今はただの『重り』に徹しようじゃないか。この退屈なパレードが、最高の実験のための準備運動だと言うのならね)
■
ファンファーレが鳴り響き、18人のウマ娘がゲートに収まる。中山2000メートル。スタート直後の急坂と、小回りのコーナーが続く、紛れの多いコースが、彼女たちを待ち構えている。
「スタートしました!」
ゲートが開く音と共に、実況の声が響き渡る。同時に、観客席からは歓声が沸き上がる。
だが、次の瞬間、スタジアムの空気が一変した。歓声が、どよめきに変わる。
―――誰も、行かない。
いや、正確には、逃げ宣言をしていた数名のウマ娘は前に出た。だが、その後ろに続くはずの先行集団が、まるで目に見えない壁に阻まれたかのように、殺到しないのだ。
―――誰も、行『け』ない。
原因は一つ。一番人気のアグネスタキオンが、好スタートを決めたにも関わらず、全く前に行こうとしなかったからだ。
彼女はバ群のちょうど真ん中、中団の内側にぽっかりと空いたスペースに、すとんと収まった。そして、走るというよりは、まるで散歩でもするかのようなリラックスしたフォームで、淡々と脚を動かしている。
『アグネスタキオン、行きません!動きません!中団待機!これはどうしたことか!?』
実況が困惑の声を上げる。本命が動かない。その事実は、先行するウマ娘たちに強烈なプレッシャーを与えていた。
『後ろから来るはずの怪物が来ない』
『溜めているのか?』
『いや、それとも不調か?』
『下手にペースを上げて、最後にかわされたら……』
誰もがタキオンの出方を伺い、誰もがペースを上げる勇気を持てなかった。結果として、レース全体が、異様なまでのスローペースに支配された。
1000メートルの通過タイムが電光掲示板に表示され、更に観客席がどよめいた。
62.7秒。
G1の舞台とは思えないほどに、遅い。
そして、その通過タイムを見た、スタンドで見守るヤンの口元が、微かに歪んだ。
「……作戦通りだ」
「なるほど、これが君の狙いか」
隣のルドルフが、感嘆とも呆れともつかない声を出す。
「アグネスタキオンの沈黙によって、レースが、文字通り誰もがペースを上げられず、精神をすり減らし、そして泥沼に沈んでいく。それによって、彼女の脚にかかる負荷を最小限に抑えつつ、他者の体力を無駄に摩耗させる……。といったところだろうか?」
「概ね正解だ。流石だね、ルドルフ」
「実に、性格の悪い戦術だと思うよ。トレーナー君」
ヤンは冷めた紅茶を一口飲んだ。味は変わらず不味いが、喉を通る感覚は悪くない。
「最高の褒め言葉だね、ルドルフ。正攻法でぶつかり合って、才能ある若者が壊れていくのを見るよりはずっといいさ」
そして、再びヤンの目は、コーナーを駆け抜けるアグネスタキオンに固定される。
「さあ、ここからが正念場だ。退屈な行軍は長くは続かないだろう。誰かが痺れを切らした時、本当のレースが始まるはずだ」
「本当のレース、か。まだ何か、仕込んでいるのかい?」
ルドルフが疑問を投げると、ヤンは視線をそのままに、冷静に告げる。
「大したことじゃあない。この終盤まで全く動かない『本命』のことなど、いい加減、誰も気にせず前に出て『しまう』事だろう。そして、私の予想通りならば、4コーナーあたりで、有力ウマ娘達による、実に無駄な体力を使うであろう位置争奪戦が始まることだろうね。
特に力のあるウマ娘ほど、スローペースで形成された内ラチ沿いのバ群を嫌って、大きく外に広がりを見せるはずだし、加えて内にいたウマ娘達もそれに感化され、無駄に大きく加速をかけて、遠心力で多少なりとも外に振り回されることになるだろう」
ぞくり、とルドルフは寒気を覚えていた。この、ヤン・ウェンリーと言う男の頭の中には、一体、何が見えているのだろうか、と。
「トレーナー君の予想が当たれば………つまり、多少なりとも使って『しまった』脚でウマ娘達は中山の急坂を迎えなければならない。そして更に、4コーナーで全体が加速し、ほぼ全てのウマ娘のコース取りが膨らむことによって、全く足を使って『いない』タキオンの進路上の、それも最短距離である内ラチ沿いに、差し込める隙間が出来る可能性が高い、という事になる、わけか」
ヤンは、小さく頷きながら、頭を掻いた。
「まあね。特に今回は、経験の浅いウマ娘が集い、最終直線が短いという条件を兼ね備えた『皐月賞』だからこそ、この予想が成り立つんだ。―――あとはその隙を、狙い撃つだけさ」
■
第3コーナーを過ぎ、第4コーナーへ。
すると、中山の短い直線を前にして、ついに我慢の限界を迎えたウマ娘たちが動き出した。それを皮切りに、外から、中から、一気にペースが上がる。スローペースで溜まっていたエネルギーが、決壊したダムのように溢れ出す。
だが、タキオンはまだ動かない。彼女はまだ、バ群の中に埋もれていた。前後左右を壁に囲まれ、一見すると進路がないように見える。
(……まだだ。まだ早い)
タキオンは、自身の脚と対話していた。今までの彼女なら、この時点で外に持ち出し、強引にねじ伏せていただろう。その負荷が、脚を蝕んでいるとも知らずに。
だが、今は違う。ヤンの「設計図」が、脳内で警告音を鳴らしている。
『敵が自滅し、道が開くその瞬間まで、出力はアイドリング状態を維持せよ』
周囲のウマ娘たちが、スパートをかける。筋肉が唸り、汗が飛び散る。その喧騒の真ん中で、タキオンだけが、静寂の中にいた。
そして、コーナーを抜けたウマ娘達がいよいよ直線を迎える。カーブの出口で先行集団がばらける。外に広がるウマ娘たち。
その瞬間、ヤンの予想通りに。
内ラチ沿いに、ほんのわずかな、人一人が通れるだけのスペースが生まれた。
―――そこだ。
関係者席でそれを見ていたヤンは内心でそう呟いた。
それと同時に、観客席の最前列で、一人のトレーナーが叫びを上げる。
『思い切り行け、タキオン!』
その声が届いたわけではないだろう。だが、アグネスタキオンという実験体は、そのタイミングを完璧に理解していた。
「……ああ、待っていたよ。この時を!!」
タキオンの瞳孔が開く。抑制されていた狂気が、理性という名の枷を粉砕する。演技はここで、終了だ。
ここからは、彼女だけの時間。アグネスタキオンという科学者が追い求めた、純粋な実験の時間だ。
衝撃音と共に、彼女の脚がターフを蹴った。――いや、蹴ったのではない。文字通り爆発させたのだ。これまで温存され、圧縮されていたエネルギーが、たった一歩に集約される。
まるで、止まっていた映像がいきなり早回しになったかのような、不連続な移動。それは、常識的な加速ではない。
一瞬前まで中団、下手をすれば後方に近い場所にいたはずの栗毛の影が、瞬きをするその刹那、先頭集団に切り込んでいた。
『アグネスタキオン!内から来た!ものすごい脚だ!』
実況の声が裏返る。 残り200メートル。中山名物の心臓破りの急坂がウマ娘達の前に聳え立つ。多くの名ウマ娘がここで脚を鈍らせる、魔の坂だ。
だが、タキオンにとって、それは存在しないも同然だった。なぜなら、彼女の脚は、このレースに限ってはまだ「使われていない」に等しかったのだから。
(見える……!見えるぞ!景色が流れていく!)
風切り音が消える。歓声が遠のく。視界の端が白く飛び、色彩が消えていく。彼女が追い求めた「速さの向こう側」の片鱗が見え隠れする。体が浮き上がるような浮遊感に口角が上がる。
―――だが、明らかに以前とは違う感覚も彼女は感じていた。それは、かつて感じたような骨が悲鳴を上げ、筋肉が断裂しそうになる死の予感がない。あるのは、精巧に組まれたエンジンのように滑らかで、それでいて暴力的な推進力だけ。
(これが……これが、ヤン・ウェンリーの設計図の片鱗か!)
彼女は笑っていた。極限のスピードの中で、心からの歓喜に震えていた。ヤン・ウェンリーという希代のペテン師が用意した、最高の舞台。そこで彼女は、誰よりも速く、そして誰よりも自由に、実験結果を証明してみせた。
気が付けば彼女は先頭に立っていた。後ろを振り返る必要さえない。圧倒的な、絶対的な速さ。
(ハ、ハハハハハ!面白い、実に面白いぞ!)
アグネスタキオンは、光となってゴール板を駆け抜けた。
■
ゴール後、スタジアムはしばしの静寂のあと、割れんばかりの大歓声に包まれた。だが、ヤン・ウェンリーは勝利の瞬間に酔いしれることもなく、双眼鏡で一点を見つめ続けていた。
タキオンの歩様。右足、左足。リズム、着地の衝撃を、無言で観察していく。
「……ふむ」
双眼鏡を下ろし、ヤンは深く息を吐き出した。タキオンは、跳ねるように歩いている。観客に手を振り、不敵な笑みを浮かべている。少なくとも、歩けなくなるようなダメージは負っていないようだ。
「……どうやら、実験は成功のようだね」
隣でルドルフが、感心したように言った。
「あの爆発的なスパートを見せておきながら、脚へのダメージは最小限に見える。君の魔術は、相も変わらず素晴らしい」
「だから、魔術なんてものじゃないよ。ただ……」
ヤンは言葉を探し、少し照れ臭そうに頭を掻いた。
「ただ、まぁ、トレセンに勤めるトレーナーの同僚として、約束を守っただけさ」
その時、ヤンの視界の端に、一人の青年トレーナーの姿が入った。青いスーツを着た彼は、観客席の最前列で、手すりを握りしめたまま、アグネスタキオンに釘付けになっている。その表情は、関係者席からはうかがい知ることは出来ない。
「約束?」
「ああ。レースで自爆しようとしているウマ娘を一人、間違いなく生還させるというね」
彼が抱える今の気持ちが、安堵のものなのか、それとも悔しさのものなのか、それはヤンには分からない。だが、少なくとも、彼が守りたかった『タキオンの未来』は、形を変えて守られたのだ。
「……さて」
ヤンは立ち上がった。
「私の仕事は終わりだ。帰って、まともな紅茶でも淹れてくれないか?久しぶりに君の紅茶を飲みたいんだけどね。ルドルフ」
「待った、トレーナー君。ターフへは行かないのかい?彼女も君を待っているはずだ」
ヤンは頭を掻いて、首を横に振った。
「ご免だよ。あのマッドサイエンティストのことだ、会えばまた『素晴らしい実験のデータが取れた!早速、次の実験の話をしようじゃあないか!』などと騒ぎ出し、徹夜で付き合わされるに決まっている」
「それもトレーナーという仕事の一環だと思うが」
「お断りする。そもそもタキオンのトレーナーは私じゃあない」
そういいながら手を振り、出口へと向かう。
「それに、いいかい?ルドルフ。私はただの歴史の観測者で、裏方だ。表舞台で英雄になる役目は、君達ウマ娘に任せるよ」
背を向けた魔術師の足取りは、来た時よりも心なしか軽く見えた。『皐月賞』という古戦場には、まだレースの熱気と、勝負事の匂いが残っている。
「相変わらず素直ではないね。では、タキオンの元へは私が行こう。何か、彼女に伝えておくことは?」
「………そうだな。『また妙な実験を思いついたのならば、トレーナー室に来ると良い。今度は仲良く、モルモット君とやらと一緒にね』とでも言っておいてくれ」
「ふふ。任されたよ」
だが、その向こう側には、確かに新しい歴史の1ページが刻まれていた。
そして、マッドサイエンティストの、次なる実験計画―――日本ダービー、そして菊花賞での実験―――が、既に水面下で動き出していることを。
『やはり来ていたかモルモット君!私はどうやら、まだまだ走れてしまうようだ!ヤン・ウェンリーの設計図は実に面白い!
………おいおいおいおい、モルモット君。何を呆けた顔をしているのかね!?………我々の喧嘩?そんなものは実に些細な事だ!
次はダービー、そしていずれは菊花賞が待っているのだよ!?さあさあ、次の実験の準備を開始しようじゃあないか!その手始めに、魔術師の元へ次の設計図を聞きに行くぞ!さあさあ!ん?ああ!無論、君も一緒にだとも!』
この時のヤンはまだ知らない『ふり』をするのであった。