ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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歴史家の不確定性原理③

 4月の中山レース場は、独特の熱気と湿気を帯びていた。

 クラシック三冠の初戦、皐月賞。

 若き才能たちが初めてぶつかり合うこの場所は、歴史的に見ても、多くの夢が生まれ、そしてそれ以上の多くの夢が散っていく古戦場だ。

 

 観客席の喧騒から少し離れた関係者席の片隅で、ヤン・ウェンリーは紙コップに入った紅茶―――とはいっても彼にとっては許しがたいことに、それはティーバッグですらない、給茶機から出てくる味気ない液体だった―――を口に運び、小さく顔をしかめた。

 

「……やれやれ。歴史的な大一番だというのに、兵站の質はどうにかならないものかなあ」

 

 彼がティーサーバーに不満を漏らすのも無理はない。ここ数週間、彼はトレーナー業という名の「実験助手」として、アグネスタキオンという名の「暴走機関車」のメンテナンスに奔走させられていたのだから。

 

 食事の管理に始まり、徹夜で実験を続けようとする彼女に睡眠を強制させ、そして何より、彼女の精神という名のソフトウェアに、全く新しい戦術アルゴリズムを書き込む作業。

 それは、自由惑星同盟軍の複雑怪奇な事務処理にも匹敵するほどの、神経を使う作業だった。

 

「なんとか形にはなったが………。鬼が出るか蛇が出るか」

 

 ふと、隣に気配を感じる。振り返ると、そこには腕を組み、厳しい表情でターフを見つめるシンボリルドルフの姿があった。

 

「珍しいな、トレーナー君。君がパドックにも行かず、観客席にも向かわず、このような奥まった場所から戦況を見守るとは」

「ま、今回、私は良くてアドバイザーだ、アグネスタキオンとモルモット君とやらのね。加えて言えば、参謀が最前線の現場に出張るのは負け戦の典型だよ、ルドルフ。

 それに、今の彼女に必要なのは、どちらかといえば『私の檄』というより、計算通りに動くための『冷徹な静寂さ』だ」

「計算通り、か」

 

 ルドルフは、眼下のパドックに視線を落とす。そこには、18人のウマ娘たちがお披露目を終えて、思い思いにレースまでの時間を過ごしていた。誰もが緊張に顔を強張らせ、あるいは闘志を剥き出しにしている。だが、その中で一際異彩を放っているウマ娘がいた。

 

 アグネスタキオンだ。

 

 彼女は、いつものように怪しげな独り言を呟くこともなければ、周囲を観察してニヤニヤと笑うこともない。ただ、能面のような無表情で、俯き加減に、ゆっくりと、あまりにもゆっくりと歩いている。

 その姿は、まるで病人のようにも、あるいは嵐の前の静けさのようにも見えた。

 

「こう見ると、彼女の静寂は、実に不気味だ」

 

 ルドルフが呟く。

 

「彼女の周りだけ、空気が淀んでいるようにも見える」

「ルドルフからもそう見えるのならば、実にいい傾向だ」

 

 ヤンは紙コップを揺らした。

 

「それが、私の書いたシナリオの第一幕だからね」

 

 

 パドックでの心理戦は、既に始まっていた。

 

 アグネスタキオンというウマ娘は、これまでの3戦で圧倒的なパフォーマンスを見せつけてきた。故に、誰も彼もが彼女をマークしている事は明らかだ。

 

 彼女が動けば、周りも動く。

 彼女が走れば、周りも走る。

 

 この皐月賞と言うレースは、そういうレース展開になるである事が、容易に予想出来る。だからこそ、ヤンは彼女にこう命じたのだ。

 

『何もしなくていい。ただ、そこにいろ。幽霊のように、あるいは座礁した戦艦のように。君という存在がそこにあるだけで、敵は勝手に疑心暗鬼に陥る』

 

 その狙いは的中していた。ライバルたちの視線が、痛いほどタキオンに突き刺さる。

 

『どうしたんだ?』

『調子が悪いのか?』

『いや、これは罠か?』

『いつもみたいに実験だなんだと騒がない』

『……逆に怖い』

 

 情報がない、という事実は、時として誤った情報以上に人を迷わせる。タキオンの「沈黙」は、周囲のウマ娘たちのリズムを、目に見えないレベルで狂わせていた。

 

 焦り、戸惑い、警戒。それらの感情は、筋肉を硬直させ、呼吸を浅くする。

 

 タキオン自身は、その重苦しい空気の中で、内なる衝動と必死に戦っていた。

 

(……退屈だ。ああ、退屈だとも!今すぐにでも叫び出し、この芝の上を光速で駆け抜けたい!だが……)

 

 彼女の脳裏に、気だるげな男の声がよぎる。

 

『君が光の速さを出したいのなら、最後の200メートルだけでいい』

 

(クク……いいだろう、ヤン・ウェンリー。君の言う通り、今はただの『重り』に徹しようじゃないか。この退屈なパレードが、最高の実験のための準備運動だと言うのならね)

 

 

 ファンファーレが鳴り響き、18人のウマ娘がゲートに収まる。中山2000メートル。スタート直後の急坂と、小回りのコーナーが続く、紛れの多いコースが、彼女たちを待ち構えている。

 

「スタートしました!」

 

 ゲートが開く音と共に、実況の声が響き渡る。同時に、観客席からは歓声が沸き上がる。

 

 だが、次の瞬間、スタジアムの空気が一変した。歓声が、どよめきに変わる。

 

 ―――誰も、行かない。

 

 いや、正確には、逃げ宣言をしていた数名のウマ娘は前に出た。だが、その後ろに続くはずの先行集団が、まるで目に見えない壁に阻まれたかのように、殺到しないのだ。

 

 ―――誰も、行『け』ない。

 

 原因は一つ。一番人気のアグネスタキオンが、好スタートを決めたにも関わらず、全く前に行こうとしなかったからだ。

 

 彼女はバ群のちょうど真ん中、中団の内側にぽっかりと空いたスペースに、すとんと収まった。そして、走るというよりは、まるで散歩でもするかのようなリラックスしたフォームで、淡々と脚を動かしている。

 

『アグネスタキオン、行きません!動きません!中団待機!これはどうしたことか!?』

 

 実況が困惑の声を上げる。本命が動かない。その事実は、先行するウマ娘たちに強烈なプレッシャーを与えていた。

 

『後ろから来るはずの怪物が来ない』

『溜めているのか?』

『いや、それとも不調か?』

『下手にペースを上げて、最後にかわされたら……』

 

 誰もがタキオンの出方を伺い、誰もがペースを上げる勇気を持てなかった。結果として、レース全体が、異様なまでのスローペースに支配された。

 

 1000メートルの通過タイムが電光掲示板に表示され、更に観客席がどよめいた。

 

 62.7秒。

 

 G1の舞台とは思えないほどに、遅い。

 

 そして、その通過タイムを見た、スタンドで見守るヤンの口元が、微かに歪んだ。

 

「……作戦通りだ」

「なるほど、これが君の狙いか」

 

 隣のルドルフが、感嘆とも呆れともつかない声を出す。

 

「アグネスタキオンの沈黙によって、レースが、文字通り誰もがペースを上げられず、精神をすり減らし、そして泥沼に沈んでいく。それによって、彼女の脚にかかる負荷を最小限に抑えつつ、他者の体力を無駄に摩耗させる……。といったところだろうか?」

「概ね正解だ。流石だね、ルドルフ」

「実に、性格の悪い戦術だと思うよ。トレーナー君」

 

 ヤンは冷めた紅茶を一口飲んだ。味は変わらず不味いが、喉を通る感覚は悪くない。

 

「最高の褒め言葉だね、ルドルフ。正攻法でぶつかり合って、才能ある若者が壊れていくのを見るよりはずっといいさ」

 

 そして、再びヤンの目は、コーナーを駆け抜けるアグネスタキオンに固定される。

 

「さあ、ここからが正念場だ。退屈な行軍は長くは続かないだろう。誰かが痺れを切らした時、本当のレースが始まるはずだ」

「本当のレース、か。まだ何か、仕込んでいるのかい?」

 

 ルドルフが疑問を投げると、ヤンは視線をそのままに、冷静に告げる。

 

「大したことじゃあない。この終盤まで全く動かない『本命』のことなど、いい加減、誰も気にせず前に出て『しまう』事だろう。そして、私の予想通りならば、4コーナーあたりで、有力ウマ娘達による、実に無駄な体力を使うであろう位置争奪戦が始まることだろうね。

 特に力のあるウマ娘ほど、スローペースで形成された内ラチ沿いのバ群を嫌って、大きく外に広がりを見せるはずだし、加えて内にいたウマ娘達もそれに感化され、無駄に大きく加速をかけて、遠心力で多少なりとも外に振り回されることになるだろう」

 

 ぞくり、とルドルフは寒気を覚えていた。この、ヤン・ウェンリーと言う男の頭の中には、一体、何が見えているのだろうか、と。

 

「トレーナー君の予想が当たれば………つまり、多少なりとも使って『しまった』脚でウマ娘達は中山の急坂を迎えなければならない。そして更に、4コーナーで全体が加速し、ほぼ全てのウマ娘のコース取りが膨らむことによって、全く足を使って『いない』タキオンの進路上の、それも最短距離である内ラチ沿いに、差し込める隙間が出来る可能性が高い、という事になる、わけか」

 

 ヤンは、小さく頷きながら、頭を掻いた。

 

「まあね。特に今回は、経験の浅いウマ娘が集い、最終直線が短いという条件を兼ね備えた『皐月賞』だからこそ、この予想が成り立つんだ。―――あとはその隙を、狙い撃つだけさ」

 

 

 第3コーナーを過ぎ、第4コーナーへ。

 

 すると、中山の短い直線を前にして、ついに我慢の限界を迎えたウマ娘たちが動き出した。それを皮切りに、外から、中から、一気にペースが上がる。スローペースで溜まっていたエネルギーが、決壊したダムのように溢れ出す。

 

 だが、タキオンはまだ動かない。彼女はまだ、バ群の中に埋もれていた。前後左右を壁に囲まれ、一見すると進路がないように見える。

 

(……まだだ。まだ早い)

 

 タキオンは、自身の脚と対話していた。今までの彼女なら、この時点で外に持ち出し、強引にねじ伏せていただろう。その負荷が、脚を蝕んでいるとも知らずに。

 

 だが、今は違う。ヤンの「設計図」が、脳内で警告音を鳴らしている。

 

『敵が自滅し、道が開くその瞬間まで、出力はアイドリング状態を維持せよ』

 

 周囲のウマ娘たちが、スパートをかける。筋肉が唸り、汗が飛び散る。その喧騒の真ん中で、タキオンだけが、静寂の中にいた。

 

 そして、コーナーを抜けたウマ娘達がいよいよ直線を迎える。カーブの出口で先行集団がばらける。外に広がるウマ娘たち。

 

 その瞬間、ヤンの予想通りに。

 

 内ラチ沿いに、ほんのわずかな、人一人が通れるだけのスペースが生まれた。

 

 ―――そこだ。

 

 関係者席でそれを見ていたヤンは内心でそう呟いた。

 

 それと同時に、観客席の最前列で、一人のトレーナーが叫びを上げる。

 

『思い切り行け、タキオン!』

 

 その声が届いたわけではないだろう。だが、アグネスタキオンという実験体は、そのタイミングを完璧に理解していた。

 

「……ああ、待っていたよ。この時を!!」

 

 タキオンの瞳孔が開く。抑制されていた狂気が、理性という名の枷を粉砕する。演技はここで、終了だ。

 

 ここからは、彼女だけの時間。アグネスタキオンという科学者が追い求めた、純粋な実験の時間だ。

 

 衝撃音と共に、彼女の脚がターフを蹴った。――いや、蹴ったのではない。文字通り爆発させたのだ。これまで温存され、圧縮されていたエネルギーが、たった一歩に集約される。

 

 まるで、止まっていた映像がいきなり早回しになったかのような、不連続な移動。それは、常識的な加速ではない。

 一瞬前まで中団、下手をすれば後方に近い場所にいたはずの栗毛の影が、瞬きをするその刹那、先頭集団に切り込んでいた。

 

『アグネスタキオン!内から来た!ものすごい脚だ!』

 

 実況の声が裏返る。 残り200メートル。中山名物の心臓破りの急坂がウマ娘達の前に聳え立つ。多くの名ウマ娘がここで脚を鈍らせる、魔の坂だ。

 

 だが、タキオンにとって、それは存在しないも同然だった。なぜなら、彼女の脚は、このレースに限ってはまだ「使われていない」に等しかったのだから。

 

(見える……!見えるぞ!景色が流れていく!)

 

 風切り音が消える。歓声が遠のく。視界の端が白く飛び、色彩が消えていく。彼女が追い求めた「速さの向こう側」の片鱗が見え隠れする。体が浮き上がるような浮遊感に口角が上がる。

 

 ―――だが、明らかに以前とは違う感覚も彼女は感じていた。それは、かつて感じたような骨が悲鳴を上げ、筋肉が断裂しそうになる死の予感がない。あるのは、精巧に組まれたエンジンのように滑らかで、それでいて暴力的な推進力だけ。

 

(これが……これが、ヤン・ウェンリーの設計図の片鱗か!)

 

 彼女は笑っていた。極限のスピードの中で、心からの歓喜に震えていた。ヤン・ウェンリーという希代のペテン師が用意した、最高の舞台。そこで彼女は、誰よりも速く、そして誰よりも自由に、実験結果を証明してみせた。

 

 気が付けば彼女は先頭に立っていた。後ろを振り返る必要さえない。圧倒的な、絶対的な速さ。

 

(ハ、ハハハハハ!面白い、実に面白いぞ!)

 

 アグネスタキオンは、光となってゴール板を駆け抜けた。

 

 

 ゴール後、スタジアムはしばしの静寂のあと、割れんばかりの大歓声に包まれた。だが、ヤン・ウェンリーは勝利の瞬間に酔いしれることもなく、双眼鏡で一点を見つめ続けていた。    

 

 タキオンの歩様。右足、左足。リズム、着地の衝撃を、無言で観察していく。

 

「……ふむ」

 

 双眼鏡を下ろし、ヤンは深く息を吐き出した。タキオンは、跳ねるように歩いている。観客に手を振り、不敵な笑みを浮かべている。少なくとも、歩けなくなるようなダメージは負っていないようだ。

 

「……どうやら、実験は成功のようだね」

 

 隣でルドルフが、感心したように言った。

 

「あの爆発的なスパートを見せておきながら、脚へのダメージは最小限に見える。君の魔術は、相も変わらず素晴らしい」

 

「だから、魔術なんてものじゃないよ。ただ……」

 

 ヤンは言葉を探し、少し照れ臭そうに頭を掻いた。

 

「ただ、まぁ、トレセンに勤めるトレーナーの同僚として、約束を守っただけさ」

 

 その時、ヤンの視界の端に、一人の青年トレーナーの姿が入った。青いスーツを着た彼は、観客席の最前列で、手すりを握りしめたまま、アグネスタキオンに釘付けになっている。その表情は、関係者席からはうかがい知ることは出来ない。

 

「約束?」

「ああ。レースで自爆しようとしているウマ娘を一人、間違いなく生還させるというね」

 

 彼が抱える今の気持ちが、安堵のものなのか、それとも悔しさのものなのか、それはヤンには分からない。だが、少なくとも、彼が守りたかった『タキオンの未来』は、形を変えて守られたのだ。

 

「……さて」

 

 ヤンは立ち上がった。

 

「私の仕事は終わりだ。帰って、まともな紅茶でも淹れてくれないか?久しぶりに君の紅茶を飲みたいんだけどね。ルドルフ」

「待った、トレーナー君。ターフへは行かないのかい?彼女も君を待っているはずだ」

 

 ヤンは頭を掻いて、首を横に振った。

 

「ご免だよ。あのマッドサイエンティストのことだ、会えばまた『素晴らしい実験のデータが取れた!早速、次の実験の話をしようじゃあないか!』などと騒ぎ出し、徹夜で付き合わされるに決まっている」

「それもトレーナーという仕事の一環だと思うが」

「お断りする。そもそもタキオンのトレーナーは私じゃあない」

 

 そういいながら手を振り、出口へと向かう。

 

「それに、いいかい?ルドルフ。私はただの歴史の観測者で、裏方だ。表舞台で英雄になる役目は、君達ウマ娘に任せるよ」

 

 背を向けた魔術師の足取りは、来た時よりも心なしか軽く見えた。『皐月賞』という古戦場には、まだレースの熱気と、勝負事の匂いが残っている。

 

「相変わらず素直ではないね。では、タキオンの元へは私が行こう。何か、彼女に伝えておくことは?」

「………そうだな。『また妙な実験を思いついたのならば、トレーナー室に来ると良い。今度は仲良く、モルモット君とやらと一緒にね』とでも言っておいてくれ」

「ふふ。任されたよ」

 

 だが、その向こう側には、確かに新しい歴史の1ページが刻まれていた。

 

 そして、マッドサイエンティストの、次なる実験計画―――日本ダービー、そして菊花賞での実験―――が、既に水面下で動き出していることを。

 

『やはり来ていたかモルモット君!私はどうやら、まだまだ走れてしまうようだ!ヤン・ウェンリーの設計図は実に面白い!

 ………おいおいおいおい、モルモット君。何を呆けた顔をしているのかね!?………我々の喧嘩?そんなものは実に些細な事だ!

 次はダービー、そしていずれは菊花賞が待っているのだよ!?さあさあ、次の実験の準備を開始しようじゃあないか!その手始めに、魔術師の元へ次の設計図を聞きに行くぞ!さあさあ!ん?ああ!無論、君も一緒にだとも!』

 

 この時のヤンはまだ知らない『ふり』をするのであった。

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