脇役の生存戦略―前
その日のヤン・ウェンリーのトレーナー室は、いつになく騒がしく、そして奇妙なほどに優雅な香りに満ちていた。
「ねーねー魔術師!これ、全然甘くないよ!もっとハチミツをどばーって入れてよー!」
「……トウカイテイオー。君は走る練習より、私の部屋で油を売る練習に熱心なようだね。それに、それは歴史あるダージリンだ。少量の砂糖とミルクならばともかく、ハチミツを『どばーっ』と入れるのは、歴史に対する冒涜に近い」
ソファでふんぞり返り、足をバタバタさせているトウカイテイオーに対し、ヤンはやれやれと頭を抱えていた。
かつて彼女の足の故障を見抜き、フォーム改造を提案して以来、この無敵の帝王は事あるごとにヤンの部屋に入り浸るようになっていたのだ。ヤンが嘆息すると、部屋の隅で給湯ポットを管理していた小柄な影が、音もなく、しかし素早く動いた。
「あ、あの……テイオーさん。ハチミツ、ライスが持ってきたから……これ、使って?」
「おっ!さすがライス!気が利くぅ~!」
ライスシャワーだった。彼女は慣れた手つきで小瓶に入ったハチミツを差し出すと、今度はヤンの手元にあるカップに視線を移す。
「お兄さま……紅茶、渋くなってないですか?差し替えましょうか?」
「いや、大丈夫だよ。ありがとう、ライス」
黒い刺客改め、甲斐甲斐しい給仕係となったライスシャワーに礼を言いつつ、ヤンは再びため息をついた。
ここ最近は皇帝が去れば帝王が来て、怪物が去れば刺客が住み着く、加えて混沌が不定期に焼きそばパンを食いに来ると、定期的に設計図をよこせと科学者と助手がやってくる。
さらに言えば、週に4回は出しているであろう引退の嘆願は毎度拒否され、寧ろ『君はもっとウマ娘を担当するべきである!』『ほかのトレーナーの悩みも聞いてやると良い!』などと言われる始末だ。
(私の引退計画は、一体どの星系の彼方に飛び去ってしまったのだろうかね)
魔術師は苦笑を浮かべながら紅茶に口を付けて、頭を掻いた。
■
そんな日常の一コマに、控えめな、しかしどこか親しげなノック音が割り込んだ。
「……失礼しまーす。あ、やっぱりテイオーはここにいたんだね」
顔を出したのは、赤茶色のツインテールのウマ娘、ナイスネイチャだった。彼女は部屋の惨状――主にテイオーが散らかしたお菓子の包み紙と、それを片付けようとするライスの奮闘――を見て苦笑いしつつ、ペコリと頭を下げた。
「ナイスネイチャじゃん!なーに?ボクを探しに来たの?一緒に走る?」
「いや、今日はアンタじゃなくて……こちらの、ヤンさんに用があってね」
ネイチャは恐縮しながら、部屋の主であるヤンに向き直った。
「初めまして。ナイスネイチャです。えっと……アタシのトレーナーから『一度、話を聞いてこい』って言われてまして」
「君のトレーナーから?」
「はい。『ウチのネイチャは実力はあるのに、あと一皮むけない。ヤンさんの視点なら、何かヒントがあるかも』って。あ、もちろん、移籍とかじゃなくて、セカンドオピニオン的な?」
なるほど、とヤンは頷いた。自分の手で抱え込まず、教え子の成長のために他者の知見を求める。柔軟で、かつ教え子への愛情が深いトレーナーのようだ。ヤンとしては、そういう手合いは嫌いではない。
「歓迎するよ。……と言いたいところだが、私の部屋は見ての通り、騒がしい先客がいる。それでも良ければ話を聞こう」
「騒がしくなんかないやい!ね?そうだよね!?ネイチャ!」
「あはは、慣れてますから。……よいしょっと」
ネイチャはテイオーの隣に腰を下ろすと、まるで放課後の教室にいるかのように自然に馴染んだ。ライスシャワーが、すかさず新しいカップに紅茶を注いで彼女の前に置く。
「あ、ごめんねライスシャワー」
「ううん……。お客さまだから……。そ、それと……ライス、でいいです」
「わかった。ライス、ありがとね」
一口紅茶をすすり、ほっと息をつくと、ネイチャは少し自嘲気味に笑った。
「ヤンさんもご存じかもしれませんが、アタシ、重賞で3着ばっかりでして。世間じゃ『ブロンズコレクター』なんて有難くないあだ名までついちゃって」
「知っているよ。非常に安定した成績だ」
「安定、ねぇ……。褒め言葉に聞こえないのが辛いとこですよ」
ネイチャはカップの縁を指でなぞる。
「トレーナーとも話すんです。『いつも全力出し切ってるのに、なんで勝てないんだろう』って。周りはテイオーみたいなキラキラした主役級ばっかりで、アタシみたいな庶民派は、やっぱ引き立て役が限界なのかなぁ、なんて」
言葉の端々に滲む、諦めとコンプレックス。それを聞いていたテイオーが、不満げに口を尖らせた。
「なーに言ってんのさネイチャ!ボクと走る時だって、いつも凄いプレッシャーかけてくるじゃん!ボク、ナイスネイチャを脇役なんて思ったことないよ?」
「ありがとね、テイオー。アンタはそう言ってくれるけどさ……結果がねえ……」
ネイチャは肩をすくめた。その姿を見たヤンは、手元のタブレットを操作し、彼女のレース映像――有マ記念をはじめとする数々の激戦――を流し始めた。
「……ふむ。君は『全力』と言ったね。確かにその通りのようだ」
「でしょ?手なんて抜いてませんよ。死に物狂いで食らいついて、その結果が3着なんです。……もう、笑っちゃうくらい壁が厚くて」
「それが敗因だろうね」
ヤンが淡々と告げると、場の空気が止まった。 ネイチャがきょとんとし、テイオーが「え?」と言わんばかりに首を傾げ、紅茶を注いでいたライスの手が止まる。
「君は、テイオーのような『怪物』たちと同じ土俵で、同じように『全力』を出して戦っている。真正面から殴り合いをして、排気量の差で負けているだけだ。……実に勿体ない」
「勿体ない……?」
「ああ。君には、テイオーにはない稀有な才能があるのに、それをドブに捨てているようなものだ」
ヤンは、ネイチャの目をまっすぐに見た。
「君の才能は『生還率』だ。どんな激戦でも大崩れせず、必ず上位に食い込んで帰ってくる。そのしぶとさは、天性のものだよ。例えだが、軍隊で言えばね、最も評価されるのは派手に散る英雄じゃない。何度死地に送られても、必ず生きて帰ってくるベテラン兵士のほうなんだ」
ナイスネイチャは、呆気にとられた顔をしていた。3着という結果を、「勝ちきれない弱さ」ではなく「生き残る強さ」として評価されたことなど、今まで一度もなかったからだ。
「生き残る……強さ……」
「そうとも。その才能を『勝ち』に繋げる方法なら、いくらでもある」
魔術師は、悪戯っぽく口の端を上げた。
「どうだい?君のトレーナーも悩んでいるようだし、ここらで一つ、そこにいるトウカイテイオーのような、主役たちの足元をすくう、しぶとく、性格の悪い作戦を立ててみる気はないかな?」
■
「しぶとく……ですか」
ネイチャは複雑そうな顔をした。
「でも、しぶといだけじゃ勝てないですよ。最後はやっぱり、スピードとかパワーとか、そういうのがモノを言うんじゃないですか?」
「確かにその部分は大きいだろう。だが、何事も使い方だ。これまでの君は、レース中盤から英雄たちに必死に食らいついていた」
ヤンはホワイトボードに向かい、簡単な図を描いた。
「だが、戦術的に見てそれは自殺行為だ。彼女たちが一番強い時間帯に、まともにその加減速に付き合えば、考えるまでもなく君のスタミナが先に尽きる事は明白だろう」
先頭を行くテイオー。それを追うライバルたち。そして、その激流に飲まれているネイチャ。確かにこれは、いつものレース展開だと、ナイスネイチャは納得したように頷いた。
「そこで、次回のレースなんだが」
「次のレース……有マ記念ですけど」
「丁度いい。君のトレーナーにも了承を得て、作戦をガラリと変えてもらいたい」
「どう変えるんです?」
「君は、テイオーらのような本命と戦うな」
その言葉に、ハチミツ紅茶を飲んでいたテイオーが
「むっ!」
と声を上げた。
「ちょっと魔術師!ネイチャにボクを無視しろって言うの!?失礼しちゃうなぁ!」
「静かにしたまえ、お姫様。これは戦術論議だ」
ピシャリと言ったヤンの雰囲気に、テイオーは肩を竦めてソファーに沈む。
「……いいかい、ネイチャ君。君はテイオーと競り合うんじゃない。テイオーが『他の誰か』と競り合って、消耗するのを待つんだ」
ヤンは、ネイチャのポジションを、集団の最後方、内ラチ沿いのポケットに書き込んだ。そこは、バ群に包まれ、一見すると身動きが取れない死に体のような位置だ。
「英雄というのは、プライドが高い生き物だ。誰かが仕掛ければ、受けて立たざるを得ない。テイオーもそうだ。売られた勝負は必ず買うだろう?」
「うん、買う!」
テイオーが即答し、ヤンが肩をすくめる。
「だろうね。……君はその競い合いを、特等席で見物していればいい」
「見物……」
「そう。気配を消し、存在感を消し、誰のマークも受けない空気のような存在になる。そして、前の連中が『勝負所だ!』とスパートをかけ、脚を使い果たした瞬間――そこが君のスタートラインだ」
ヤンは、ホワイトボードのペンを走らせた。矢印が、消耗した集団の隙間を縫うように伸びていく。
「消耗した英雄の背中を、死角から刺す。……どうだい?主役の座を奪うには、少々薄汚い手だが」
ネイチャは、隣でむくれているテイオーを見た。いつも眩しい、雲の上の存在。まともに走っては勝てない相手。でも、その輝きの影に潜むことができたら。脇役だと思っていた自分が、実は誰よりも恐ろしいジョーカーになれるとしたら。
「……あはは。いいですね、それ」
ネイチャは、にやりと笑った。それはいつもの自虐的な笑みではなく、獲物を狙うハンターのそれだった。
「アタシ、性格悪いんで。そういうの嫌いじゃないかも」
「ネイチャ~!ボクを刺すとか物騒だよ!友達でしょー!?」
「ごめんごめん。でもさ、テイオー。アタシだって、たまにはセンター立ってみたいのよ。……アンタを泣かせてでもね」
その言葉に、テイオーは一瞬きょとんとし、次の瞬間、嬉しそうにニシシと笑った。
「へえ……。言うじゃん!いいよ、受けて立つ!ボクは絶対負けないけどね!」
その様子を見ていたライスシャワーが、小さく呟いた。
「……ネイチャさん、表情が変わったね。お兄さま」
「ああ。自分が何者かを知った者は強い。君もそうだっただろう?ライス」
ヤンは満足げに頷いた。そして、改めてナイスネイチャの目を見つめながら、口を開いた。
「さて、ナイスネイチャ。実にいい目になったね。では、君のトレーナーにも伝えておいてくれ。『彼女はもう、ただのレースの引き立て役じゃない』とね」
「わかりました。ちょっと、かっこよすぎですけどね」
ナイスネイチャはそういいながら、恥ずかしそうに縮こまる。と、不意にその瞳が不安に揺れた。
「でも、その、ヤンさん」
「なんだい?」
「もし、もしですよ?その、主役達が全然落ちてこなかったらどうすればいいんでしょう?」
素朴な疑問だった。作戦通りにレースが動かなかったらどうするのか、と。
ヤンはいつものように紅茶を一口。
そして、軽い口調でこう告げた。
「その時はまぁ、頭をかいてごまかすさ」
「………ぷっ、なんですかそれ」