有マ記念を数週間後に控えた、ある霧の濃い早朝。トレセン学園の練習コースには、二人のウマ娘の足音だけが、静かに、しかし確かに響いていた。
「……呼吸を、合わせて。足音を、重ねて……」
「っ、こう……? いや、リズムが遅れた……!」
走っているのは、ライスシャワーとナイスネイチャだった。だが、それは通常の併走と比べると、随分と異質に見える。なぜならば、競い合うのではなく、まるでナイスネイチャがライスシャワーの『影』に入り込もうとするかのような、奇妙なものだからだ。
そしてコース脇のベンチでは、ヤン・ウェンリーが水筒の紅茶を片手にその様子を眺めており、その隣ではトウカイテイオーがフェンスに身を乗り出して、不満げに頬を膨らませていた。
「ねえ魔術師ー。あれってなんの練習?2人共スピードも全然出てないし、ただ後ろにくっついて走ってるだけじゃん。ネイチャを勝たせる気があるのー?」
「勝つ気があるからこそ、爪を研いでいるのさ」
ヤンは湯気の立つ紅茶を一口すすると、淡々と答えた。
「今のナイスネイチャに必要なのは、最高速度を上げることじゃない。君たちが全力を出している横で、いかに『存在を消す』かだ。その点において、ライスシャワー以上の教師はいないだろう?」
「ライスが……先生ぇ?」
「ああ。彼女は『気配を消して相手の死角に潜り込む』技術においては、歴代のウマ娘の中でも突出しているからね。いわば、最強の『隠密』から、その極意を盗んでいる最中だ」
ヤンは目を細めた。
かつて、メジロマックイーンという巨星を音もなく刺したライスシャワー 。その技術体系を、しぶとさと観察眼を持つナイスネイチャに移植する。それは、ヤンが思い描いた『脇役の逆襲』と言える作戦を完成させるための、ひとつのピースだった。
「……ネイチャの足音、消えてきたね」
テイオーが、ふと真面目な声を出した。コース上。最初はバラバラだった二人の足音が、今は完全に一つに重なっていた。霧の中に溶け込むように、二人のシルエットが時折、一つに見える瞬間がある。
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「ネイチャさんは……周りをよく見てるから……。ライスの呼吸に合わせるの、すごく上手……」
走りながら、ライスが静かにアドバイスを送る。
「前の人が『苦しい』って思うタイミング……息を吸うタイミング……。そこに、自分のリズムを、すっ、て滑り込ませるの。そうすれば、相手はネイチャさんがいることに、気づかない、から」
「……なるほどね。ライス。アンタいつもこんな事考えて走ってたわけ?こりゃ敵わないわけだわ……!」
ネイチャは額に汗を滲ませながらも、口元に不敵な笑みを浮かべていた。彼女は、確実にライスシャワーの技術を吸収している。
自分が「主役」になれないのなら、主役が最も嫌がる「影」になってやるという執念が、彼女の走りを変質させていた。
「……ふーん」
その光景を見ていたテイオーが、フェンスを握る手に力を込めた。彼女の特有の、無邪気な笑顔が消えている。その瞳に宿っているのは、獲物を狙う猛禽類のような、冷たく鋭い光――『帝王』としての本能だった。
「魔術師」
「なんだい?」
「ネイチャ、本気だね」
テイオーの声のトーンが、一段低くなった。
「ただの思い出作りとか、そういうのじゃない。……あの子、本気でボクを、本命のウマ娘達を『喰らう』つもりで仕上げてきてる」
「怖いかい?」
ヤンが試すように尋ねると、テイオーは振り返り、ニヤリと笑った。
「まっさかー!ゾックゾクするよ!」
だがその、ナイスネイチャを見る目は、一切笑っていなかった。
「……へえ、そう来るんだ。いいよ、ネイチャ。脇役だなんて言わせない。ボクが、最大のライバルとして、完膚なきまでにキミを叩き潰してあげる」
バチッ、と見えない火花が散る。ヤンは満足げに頷くと、残りの紅茶を飲み干した。
(やれやれ。ナイスネイチャの刺激になれば、とトウカイテイオーを連れてきただけのはずなんだが……どうやら火に油を注いでしまったようだね)
牙を研ぐ脇役と、玉座で迎え撃つ主役。
―――舞台は整った。あとは、本番のファンファーレを待つだけである。
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いよいよ迎えた、年末の有マ記念。
中山レース場を埋め尽くす10万人の観衆が醸し出すその熱気は、冬の寒空を焦がすようだった。
ゲート入り直前の輪乗りの中、ナイスネイチャは不思議なほど冷静だった。
いつもなら、周りのG1ウマ娘たちを見て『うわぁ、強そうだなぁ』『アタシ場違いじゃない?』と気圧されていた。だが今は、全く別の視点で彼女たちを見ていた。
(テイオー、ちょっと掛かり気味かな。気合入りすぎちゃってる?マックイーンは相変わらず落ち着いてるけど……少し発汗が多いかも)
やる気満々の主役たちを見て、ナイスネイチャは心の中で思う。
―――どうぞどうぞ、お先にどうぞ。アタシはのんびり行かせてもらいますよ、と。
ファンファーレと共に、ゲートイン。
そして、大歓声と共に、18人のウマ娘が飛び出した。
ナイスネイチャは、ヤンとの打ち合わせ通り、そして彼女のトレーナーが組んでくれた作戦通り、中団の後ろ、内ラチ沿いにぴったりと張り付いた。この段階で目指すのは省エネ。徹底的な省エネ。1ミリも無駄に動かない。
『ナイスネイチャ、中団待機!今日は動きません!いつもの積極策はどうしたんでしょうか!?』
実況の声が耳を掠める。
(積極策?いつもならそうなんだけどさ。ナイスネイチャさんは今日は動かないのよね。……アタシは今、狩りの準備中なんだから)
ホームストレッチを過ぎて第1コーナー、そして第2コーナーを抜けていくウマ娘達。少しずつ位置取りを進めるウマ娘達の中で、ナイスネイチャは実に静かに、影に徹している。
そして迎えた第3コーナー。レースが動く。ロングスパートを仕掛ける有力ウマ娘たち。もちろん、トウカイテイオーも動く。ヤンが下地を作り、トレーナーと共に作り上げた彼女独特の『無敵のステップ』が唸りを上げ、前のウマ娘を捉えにかかる。
いつものネイチャなら、ここで『置いていかれる!』と焦って自分の脚に鞭を入れていただろう。だが、今日は動かない。
(まだだ。まだ早い。……もっとやり合え、もっと削り合え!)
ヤンの言葉がリフレインする。
『英雄が、落ちる瞬間を待て』
直線を向き、中山の急坂。早めに仕掛けた先行勢の脚色が鈍る。テイオーがそれをねじ伏せようと前へ出る。だが、その足取りも、激戦の疲労でわずかに重い。集団が外に膨らむ。勝利への渇望が、彼女たちを外へ、外へと誘う。
―――そこだ。
内側に、ぽっかりと空いたヴィクトリーロード。 誰もいない、真空地帯。ナイスネイチャは、溜めに溜めたスタミナを、そこで一気に解放した。
「……今日の主役はアタシなんだからッ!!」
それは、彼女のキャリアで最も鋭い、殺意の籠もった末脚だったと言えるだろう。まさにごぼう抜き。 一瞬で数人をかわし、先頭を行くテイオーに並びかける。
「えっ!?」
テイオーの驚愕した顔が、すぐ横に見える。
(驚いた?そりゃそうよね。今まで視界にいなかった「脇役」が、いきなり喉元に噛み付いてきたんだから!これがアタシの、ナイスネイチャの意地だぁッ!!)
並び。そして瞬間でかわす。先頭に立つ。G1レースにおいて初めて見る、誰もいない先頭の景色。歓声が全て自分に向けられているような錯覚。
(これが、主役の見る景色……!)
だが、現実は甘くない。驚きから立ち直ったテイオーが、帝王の意地で二の脚を使う。
「負けないもんッ!負けてたまるかあっ!」
「私だって主役になれるんだからあっ!」
ゴール板が迫る。内、ネイチャ。外、テイオー。二人の体が重なり合うようにして、ゴールへ飛び込んだ。
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レース後の地下通路。ナイスネイチャは壁に手をつき、荒い息を整えていた。
結果は――3着。
最後の最後、テイオーの驚異的な差し返しと、大外から飛んできた別の伏兵、メジロマックイーンにハナ差で敗れてしまった。
「……はぁ、はぁ。また、ブロンズ!……やっぱ、勝てないかぁ。チクショウ」
「ネイチャー!!」
後ろから、トウカイテイオーが飛びついてきた。彼女も汗だくで、息を切らせている。
「わっ!?て、テイオー!?」
「凄かった!今の凄かったよ!ボク、本当に負けたかと思った!いつあそこに来たの!?全然気づかなかったよ!」
「……あはは。テイオーをビビらせたなら、まあ、上出来かな」
ネイチャは膝に手をつき、笑った。悔しい。でも、清々しい。そこへ、いつもの気だるげな足取りで、ヤン・ウェンリーがやってきた。隣には、心配そうに見つめるライスシャワーの姿もある。
「ヤンさん。ライスも」
ネイチャは顔を上げ、汗を拭った。
「……ダメでした。作戦成功したのに、最後は地力の差が出ちゃいましたね。結局3着、ブロンズコレクター卒業ならず、です」
「ネイチャさん……凄かったです……!ライス、鳥肌が立ちました……!」
ライスが興奮気味に言うと、ヤンも静かに頷いた。
「いや、見事だったよ。95点だ」
「えっ、そこは100点って言うところじゃないんですか!?」
「さっきスタンドで君のトレーナーと話したんだがね、『最後、欲を出して少し外に色気を見せたのが敗因だな』と意見が一致してね。あそこで徹底して内を突いていれば、あるいは……」
ヤンはそこで言葉を切り、肩をすくめた。
「まあ、タラレバを言っても歴史は変わらないか。……だが、君のトレーナーは興奮していたよ。『あんな牙を隠し持っていたなんて、これで勝ち切れてないのは俺の指導不足だ』とね。君はもう、誰も無視できない存在になった」
ヤンが差し出したのは、スポーツドリンクではなく、水筒のふたに注がれた紅茶だった。ネイチャはそれを受け取り、一気に煽った。
微温くて、少し渋い。
でも、今まで飲んだどの飲み物よりも、身体に染み渡るようだった。
「……へへ。ありがとございました」
ネイチャは空になったふたを返しながら、ニカっと笑った。
「ウチのトレーナーがそう言ってるなら、戻ったら早速『次はもっと上手くやろう』って言われちゃいそうですね。……アタシ、もうちょっと頑張ってみます。脇役だって、主役を食えるって分かっちゃいましたからね」
その顔に、かつての諦めは微塵もなかった。あるのは、次こそはと牙を研ぐ、したたかな勝負師の顔だけだ。
「覚悟しててよ、テイオー。次は絶対、アンタからセンターを奪ってやるから!」
「にしし!望むところだよ!次はもっとぶっちぎってやるー!」
じゃれ合いながら去っていく二人のウマ娘を見送り、ヤンは微かに笑みを浮かべた。
主役と、それを脅かす最強の脇役。
その切磋琢磨が続く限り、この学園の歴史はまだまだ面白くなりそうだ。
「お兄さま……ネイチャさん、とってもかっこよかったです」
「ああ、そうだね」
ヤンは、空になった水筒をライスに手渡した。
「さて、トレセンに戻って熱い紅茶でも淹れ直そうか。今日はいいものを見せてもらったからね。せっかくだ、パトロンから頂いた、上等な茶葉を開けるとしよう」
「はい!お兄さま!」
魔術師の引退は、やはり当分先のことになりそうだった。だが、こんな熱いレースを見せられた後では、それも悪くないかもしれないと、彼は心の中で密かに思うのであった。