魔術師と、負けない太陽―前
トレセン学園のトレーナー室には、今日も今日とて馥郁(ふくいく)たる紅茶の香りが漂っていた。窓から差し込む午後の日差しは穏やかで、ヤンの目の前に書類の山さえなければ、ここは彼にとって理想的な隠居場所になり得ただろう。
もっとも、目の前に座る「皇帝」がいなければの話だが。
「……先日、例のパトロンと会食をした時にね。彼はこう言っていたよ。『私は一度たりとも、あの魔術師に勝てなかった』と」
シンボリルドルフは、優雅にカップを傾けながら、何気ない世間話のように切り出した。ヤン・ウェンリーは読んでいた歴史書から顔を上げ、心底困ったような顔をルドルフに向けた。
そして、最近購入したという、黒いベレー帽の位置を直した。
「買い被りだよ。彼──パトロン氏は、謙遜という美徳を少し過剰に持ち合わせているようだね。どちらかといえば私はただ、彼と、そのお仲間から逃げ回っていただけさ。言ってしまえば、私は負けなかっただけで、彼に勝ったわけじゃない」
「『負けなかった』か。彼のような完全無欠の覇者に対し、その言葉を使える人間は君しかいないよ。………それにしても、トレーナー君はやたらとベレー帽が似合うね?」
「ベレー帽とは少しばかり、縁、があるものでね」
「縁、か」
ルドルフは微笑むと、少しだけ声のトーンを変えた。それは、生徒会長としての、あるいはヤンの「共犯者」としての、真剣な響きを帯びていた。
「トレーナー君。君に、見てもらいたいウマ娘がいる」
ヤンは即座に、手で制するジェスチャーをした。
「お断りする。断固として。私の手元には既に皇帝、怪物、帝王、刺客、名脇役、マッドサイエンティスト、そして混沌がいる。これ以上は私のキャパシティを超えているし、私の平穏な年金生活への計画が破綻してしまう」
ヤンの担当ウマ娘たちは、いずれも一騎当千の強者揃いだ。これ以上の管理業務は、労働基準法違反だと訴えたいくらいだった。だが、ヤンの拒絶を無視して、ルドルフは続けた。
「模擬レースでは連戦連敗。いや、連戦連敗どころの話ではない。今のところ、勝てる見込みが万に一つもない」
その言葉に、ヤンは眉をひそめた。
「……勝てる見込みがない?なぜそんな娘がトレセン学園に?ここはエリート養成機関だろう?」
「高知からの転入生だ。実際、実技試験の結果は散々だった。タイムだけで言えば、万に一つもこの学園の敷居を跨ぐことは無かっただろう」
「なら、なぜ」
「面接だよ」
ルドルフは、楽しそうに目を細めた。その表情は、面白いおもちゃを見つけた子供のようでもあった。
「彼女は、どれだけ負けても、ニコニコと笑ってこう言ったそうだ。『私、走るの大好き!もっともっと走りたい!』とね。その底抜けの明るさと、走ることへの純粋な愛。面接官たちが心を打たれ、特例で入学を許可したという、極めて珍しいケースだ」
ヤンは溜息をつき、微温(ぬる)くなった紅茶を一口飲んだ。
「……精神論で飯は食えないよ、ルドルフ。それに、勝てないウマ娘を担当するのは、トレーナーにとっても彼女にとっても不幸なことだ」
「だろうね。だからこそ、君なんだ」
ルドルフは身を乗り出した。
「他のトレーナーなら、彼女を『勝たせよう』として潰してしまうかもしれない。あるいは、勝てない現実に絶望させるかもしれない。だが、君なら……君のその『眼』なら、彼女の中に別の何かを見出せる気がしてね。 ……トレーナー君。一度だけでいい。見てやってくれないか?」
ヤンは天を仰いだ。
皇帝陛下にここまで言わせて、断れる家臣がいるだろうか。いや、自分は家臣ではないのだが、どうもこの世界に来てからというもの、断りきれない損な役回りばかりだ、などとヤンは頭の片隅で思う。
「……やれやれ。見るだけだぞルドルフ。契約はしないからな」
■
グラウンドの片隅。そこに、ピンク色の髪を揺らす、小柄なウマ娘がいた。
「いっくよー!おー!」
彼女──ハルウララは、一人でスタートダッシュの練習をしていた。だが、ヤンの目から見ても、そのフォームは洗練されているとは言い難く、脚力も明らかに不足していた。中央のエリートたちの中に混ざれば、周回遅れになってもおかしくないレベルだ。
「……スペック不足だね。残酷だが、これが現実だ」
ヤンは淡々と評価を下した。戦略戦術以前の問題だ。兵站も火力も足りていない駆逐艦で、戦艦に挑むようなものだ。そして、次の瞬間。ウララは足をもつれさせて、盛大に転んだ。顔面からターフに突っ込む。
「……っと」
痛そうだ、とヤンが顔をしかめた時、彼女はガバッと起き上がり、顔についた泥を拭うこともせず、満面の笑みで叫んだ。
「えへへ、失敗失敗!」
その笑顔には、陰りというものが一切なかった。敗北への恐怖も、痛みへの萎縮も、才能への劣等感もない。
ただ、春の陽だまりのような、無防備な明るさだけがあった。
「…………」
ヤンは、無言でその姿を見つめ続けた。
「もう一回!次はもっと速く走るぞー!」
泥だらけになりながら、多数の擦り傷を作りながらも、そう明るく言い放つハルウララの姿に、かつて、彼が身を置いていた場所──イゼルローン要塞やヒューベリオンの艦橋を思い出す。そこには、死と隣り合わせの状況でも、軽口を叩き、毒舌を吐き、笑い飛ばす仲間たちがいた。
『どうせ死ぬなら、面白おかしく』
―――それは恐怖を隠すための仮面であり、理不尽な運命に対する、彼らなりの精一杯の抵抗だった。そうやって人は、正気を保つのだ。
だが、彼女はどうだ。
「いっくよー!よーい、ドンっ!」
彼女の笑顔には、虚勢がない。無理をして笑っているわけでも、恐怖を押し殺しているわけでもない。心底、転ぶことさえ楽しんでいる。
それは、ヤンが愛したあの「不貞腐れた連中」が持ち合わせていた強靭さの、さらに純粋で、無垢な結晶のように見えた。
(……ああ、そうか)
ヤンは、懐かしさと眩しさに目を細める。
「……トレーナー君?」
「……契約書を」
ヤンは短く言った。
「え?」
「契約書を持ってくるんだ、ルドルフ。私の気が変わらないうちにね。嗚呼……どうやら私は、とんでもない『戦略物資』を見落としていたらしい」
■
こうして、ハルウララは「チーム・ヤン」の一員となった。
『魔術師』が『未勝利のウマ娘』を担当するというニュースは学園中を駆け巡ったが、実際のトレーニング風景は、ある意味で予想通り、ある意味で予想外の惨状となった。
「よし、今日は併せだ。ブライアン、軽く流してやってくれ」
「……わかった」
ナリタブライアンが軽く加速するだけで、ウララはあっという間に置き去りにされる。その差は絶望的だ。
「次はテイオー」
「ボクのステップ、見切れるかなー?」
「わあ! テイオーちゃんすごい! 消えたみたい!」
トウカイテイオーについていこうとして、ウララは目を回して座り込む。
「次はライス」
「あ、あの……う、ウララさん、大丈夫……?」
「うん!ライスちゃん、ちっちゃいのに速いねえ!かっこいい!」
ライスシャワーが心配して振り返るほど、圧倒的な差が開く。
「最後、ネイチャ」
「あー、アタシ相手なら多少は……って、ごめんウララちゃん、やっぱ差がついちゃうわ」
「ネイチャちゃんも速いー!みんな速いー!すごいなー!」
全敗。
完敗。
圧倒的な実力差。
並のウマ娘なら、自信を喪失し、部屋に引きこもってもおかしくない状況だ。 だが、練習後のミーティングで、泥だらけになったハルウララは、キラキラと目を輝かせてヤンに言った。
「ねえねえ、トレーナーさん!みんなすごいね!あんなに速く走れるんだね!私、あんなすごい子たちと一緒に走れて、すっごく楽しかった!!」
その場にいた全員──ルドルフも、ブライアンも、テイオーも、ライスも、ネイチャも──が、言葉を失った。
彼女は、自分が「負けた」ことを悔しがるのではなく、他者が「速い」ことを心から称賛し、その場にいることの喜びを爆発させていたのだ。
ヤンは、冷めきった紅茶を一口すすり、静かに考え込んだ。
(……これは、異質だ)
戦術論において、敗北は忌避すべきものだ。敗北は死であり、損失だ。だが、彼女にとって『1着になれないこと』は、走るのをやめる理由にはならないらしい。
彼女の魂は、負けても傷つかない。擦り減らない。
―――それは、ある意味で、いかなる強敵も彼女を精神的に屈服させることはできないという、絶対的な「不敗」ではないか。ヤンはそう思いながら、口を開く。
「……ハルウララ君」
「なーに?トレーナーさん!」
「君の勝利の定義を、少し考え直す必要がありそうだね」
ヤンは、泥だらけの彼女の頭に、ポンと手を置いた。
「今まで私は、どうやって『レースで勝つか』、あるいはどうやって『負けないか』を教えてきた。だが君には……『負けても終わらない戦い方』を教えるべきかもしれない」
「よくわかんないけど、もっと走っていいってこと?」
きょとんとするウララに、ヤンはふっと力を抜いて笑いかけた。それは、かつてユリアン・ミンツに見せたような、保護者の顔だった。
「ああ。いいとも。君がその笑顔を失わない限り、君は誰にも負けていないのと同じだからね」
ヤン・ウェンリーの新たな、そして最も難解な研究テーマ。『ハルウララの生存戦略』が、ここに幕を開けたのである。