ヤン・ウェンリーは、デスクの上に積み上げられたデータシートを睨みつけながら、渋い顔でブランデー入りの紅茶を啜っていた。
「これは……」
彼が睨みつけているそれは、ハルウララの身体能力データである。
「……実に、ひどいな」
天を仰いで、頭を掻く。率直な感想だった。
スピード、スタミナ、パワー、根性。どの数値も他のトレーナーが見れば、『即刻引退を勧告するのが慈悲』と判断するだろう。
チーム・ヤンの他のメンバー、たとえばシンボリルドルフが「戦艦」なら、ハルウララは「ゴムボート」だ。しかも穴が空いているかもしれないし、なんなら空気が入っていないのかもしれない。
「うららー、おちゃ、いれたよー!」
当の本人は、そんな深刻なデータなどどこ吹く風で、トコトコと新しい急須を持ってきた。ヤンはふと、彼女の手を見る。絆創膏だらけだ。転んでついた傷か、それとも不器用なりにお茶を入れる練習をして火傷をしたのか。
「ありがとう。……ハルウララ君」
「なーに?」
「来週のメイクデビューだがね。作戦を変更する」
ヤンはベレー帽を被り直し、ホワイトボードに向かった。そこには、複雑な数式やコース取りの図解……ではなく、たった一行、こう書かれていた。
『散歩に行こう』
「さんぽ?」
ウララが首を傾げる。
「そうだ。いいかい、今回のレースに出走する他のウマ娘たちは、皆優秀だ。血統もいいし、タイムも速い。だが、彼女たちには致命的な弱点がある」
ヤンは指示棒で、空中の見えない敵を叩く仕草をした。
「それは『経験不足』だ。初めてのレース、初めての歓声、初めてのゲート。緊張で視野は狭くなり、ペース配分など消し飛ぶ。彼女たちは皆、スタート直後からパニックに陥り、我先にと突っ走るだろう。これを軍事用語で『統制を欠いた突撃』と言う」
「とうせい……とつげき?」
「要するに、みんな『焦ってバタバタする』ということさ」
ヤンはニヤリと笑った。それは、イゼルローン要塞を無血占領した時のような、人を食ったような笑みだった。
「そこで君の出番だ。君は順位という概念に縛られていない。それが、他の誰にもない強力な武器になる」
ヤンはウララの目の前にしゃがみ込み、視線を合わせた。
「作戦名は『日曜日のピクニック』だ。
ゲートが開いても、慌てて飛び出す必要はない。周りが砂煙を上げて走っていったら、君は『お見送り』をするつもりで、ゆっくり走り出しなさい。
抜かそうとしなくていい。前を見なくていい。ただ、今日の晩ご飯のことでも考えながら、誰もいないコースを独り占めして走るんだ」
「えっ、でも、それだとビリになっちゃうよ?」
「構わない。……いいかい、真正面から挑んで玉砕するのは、勇気ではなく蛮勇だ。今の君がまともに走れば、周りのペースに巻き込まれて、本来の力さえ出せずに終わってしまうだろう。それは『敗走』だ。だが、私がハルウララ君に勧めたい作戦は、『転進』だよ」
ヤンは立ち上がり、窓の外のターフを見つめた。
「ま、つまり。最後まで元気なまま、自分の足でゴール板を駆け抜ける。それが今回の勝利条件だ。……できるかい?」
「うん!元気ならまかせて!私、走るのは楽しいから疲れないもん!」
ヤンは苦笑しながら、その頭を撫でた。
■
そして迎えた、メイクデビュー当日。
中山のダートコースは、良馬場とはいえ、砂埃が舞う乾燥した状態だった。
ゲート入り直前。他のウマ娘たちは、顔面蒼白だったり、武者震いが止まらなかったりと、ヤンの予想通り極度の緊張状態にあった。
その中でひとり、ハルウララだけが観客席に向かってブンブンと手を振っている。
「うららちゃーん!がんばえー!」
どこかの子供の声に、
「はーい!」
と返事までしている。ゲート係員が呆気にとられる中、ファンファーレが鳴った。
『各バ、一斉にスタート!』
ドッと湧き上がる歓声と共に、15人のウマ娘が飛び出した。凄まじい先行争い。誰もが『前に行かなければ負ける』という強迫観念に駆られ、オーバーペースで突っ込んでいく。砂煙が舞い上がり、視界を遮る。
そして、その遥か後方。砂煙が晴れた頃に、ポツンと一人のウマ娘が走っていた。
「あはは、すごい砂だねー!」
ハルウララである。
彼女はヤンの指示通り、集団から完全に離れ、マイペースを維持していた。実況が困惑する。
「おっと、一人だけ大きく離されている!これは……故障か?いや、走っている!ハルウララ、楽しそうだ!」
■
スタンドで見守るシンボリルドルフが、隣のヤンに尋ねた。
「……これが、君の策か?」
「策というほど大層なものじゃないさ。強いて言えば、安全地帯の確保かな」
ヤンは双眼鏡を覗きもせず、モニターを眺めていた。
「見ていてごらんよ。第3コーナー。……そろそろ、始まるかな」
その予言通りだった。
ハイペースで飛ばしていた先行集団が、一気に崩れ始めたのだ。息が上がり、足がもつれ、外に膨らむウマ娘たち。そこへ後続が突っ込み、接触や進路妨害が多発する。阿鼻叫喚の消耗戦。
その脇を。ハルウララが、トコトコと通過していく。
「あ、あの子、苦しそう……がんばれー!」
ライバルを応援しながら、自分は全く息を切らさずに走る。前方の集団は、泥沼の消耗戦で這うような速度になっている。対するウララは、体力満タンだ。相対速度の差で、ウララが少しずつ、しかし確実に『落ちてきた』ウマ娘たちを捉え始める。
『おーっと!最後方のハルウララ!バテた集団に追いついた!抜くか!?抜くのか!?』
「いっけー!うららー!」
「おお!?追いついてる!ハルウララ、頑張れー!」
いつの間にか、観客席の一部から声援が上がっていた。
圧倒的な強者が勝つのを見るのも面白い。だが、明らかに弱そうな子が、懸命に走り、バテたエリートたちを追い詰める姿は、判官贔屓(ほうがんびいき)の日本人の琴線に触れるのだ。
結果。
順位は、ブービー(最下位から2番目)。1着からは大差でのゴールだった。
だが、ゴール後の光景は異様だった。
勝ったウマ娘を含め、全員が全力を使い果たして地面に倒れ伏し、あるいは嘔吐している地獄絵図の中。ひとりだけケロッとした顔で、ウイニングランのように手を振っているピンクの髪のウマ娘がいた。
「トレーナーさーん!ただいまー!レース楽しかったー!!」
戻ってきたウララは、ヤンに飛びつかんばかりの勢いだった。ヤンはタオルで彼女の顔を拭きながら、満足げに頷いた。
「ああ、おかえり。無事の帰還、祝着だ」
「ねえねえ、私、勝てなかったけど……でも、一人抜かしたよ!すごいでしょ!」
「ああ、すごいとも。立派な戦果だ」
ヤンは、倒れ込んでいる他のウマ娘たちと、そのトレーナーたちの悲壮な顔を横目に見ながら、心の中で呟いた。
(彼女たちは『勝つこと』に命を懸けすぎた。その結果、負けた時のダメージが大きすぎる。次走へのリカバリーに時間がかかるだろう)
だが、ウララは違う。彼女は今日、レースの楽しさを知り、完走する喜びを知り、そして『一人抜く』という成功体験を得た。加えて、精神的なダメージはゼロに等しい。体力さえ許せば、明日にでもまた走れてしまう事だろう。
「今日のところは戦術的勝利か。とはいえ、完全勝利となるとこれは………長期戦になるな」
ヤンは独りごちた。
一戦一戦の勝率はゼロに近い。だが、彼女は決して戦場から退場しない。走り続け、経験を積み、いつか周囲が自滅したり、天候が味方したりする「千載一遇の好機」が来た時、彼女だけがそこに立っているかもしれない。
それは、イゼルローン回廊で銀河帝国の大軍を相手にしぶとく生き残り続けた、ヤン・ウェンリーの戦い方そのものだった。
「さあ、帰ろうか。今日はユリア……いや、君の好きな人参ハンバーグにしよう」
「やったー!トレーナーさん、大好き!」
西日に照らされた帰り道。
英雄と、不敗のウマ娘の背中は、どんな勝者よりも幸せそうに見えた。
だがヤンはまだ知らない。この「負けても笑っているウマ娘」の存在が、やがて、あるウマ娘の救いになることを。