ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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外伝:緑の帽子

 その日、ヤン・ウェンリーは、理事長室の隣にある「理事長秘書室」のソファで、小さくなっていた。目の前には、湯気の立つコーヒー。そして、笑顔の駿川たづなが座っている。

 

「……さて、ヤン・ウェンリートレーナー。今日お呼びしたのは他でもありません」

 

 たづなは、机の上に積み上げられた書類の塔を、とんとんと指先で叩いた。

 

「今月の、貴方のチームの経費精算書についてです」

 

 ヤンは、条件反射的に胃の辺りを押さえた。イゼルローン要塞の司令官だった頃、キャゼルヌ少将に小言を言われていた記憶が蘇る。事務処理と兵站の管理は、いつの時代も、どんな宇宙でも、現場の指揮官を悩ませる最大の敵だ。

 

「……言い訳をさせてもらえるなら、我がチームの構成員は、その、カロリー消費が激しくてね」

「ええ、存じております。皇帝、怪物、帝王、刺客、マッドサイエンティスト、そして混沌。……これだけのメンバーを抱えていれば、お茶菓子代が国家予算並みになるのも無理はありません」

 

 たづなは、にっこりと微笑んだ。だが、その目は笑っていなかった。

 

「ですが、この『ブランデー(V.S.O.P)』という項目は、お茶菓子には分類されませんよね?」

 

「……紅茶の風味付けだよ。香りを楽しむための、ほんの数滴さ」

「数滴にしては、ボトルの空くペースが早すぎるようですが?」

 

 逃げ道は塞がれていた。ヤンは観念して、天を仰いだ。だが、たづなは予想に反して、怒鳴ることも、却下印を押すこともしなかった。彼女は、手元の赤ペンを取り出し、流れるような手付きで書類を修正し始めたのだ。

 

「……今回は、『調理実習用アルコール』として処理しておきます」

「え?」

「貴方がストレスで倒れられては、学園の運営に関わりますからね。それに……」

 

 たづなはペンを走らせながら、ふと、窓の外に視線をやった。

 

 グラウンドでは、トウカイテイオーが元気に走り回り、それをナイスネイチャが追いかけ、遠くでゴールドシップが不明な踊りを踊っている。

 

「貴方が来てから、あの子たちは本当によく笑うようになりました。特に、怪我やプレッシャーに苦しんでいた子たちが。……その功績に免じて、これくらいの『必要経費』は、私がなんとかしましょう」

 

「……それはどうも。優秀な副官……いや、秘書官を持つと、指揮官は長生きできるという歴史的実例だね」

 

 ヤンは安堵の息を吐き、出されたコーヒーに口をつけた。苦い。だが、頭が冴える味だ。 彼は、書類を処理するたづなの手元を、ぼんやりと眺めた。

 

 早い。

 正確。

 そして何より、無駄がない。 ペンを走らせる指先、紙をめくる動作、視線の移動。その全てが、洗練された武術の演武のように美しい。

 

「……駿川さん」

「はい、なんでしょう?」

 

「君は、走らないのかい?」

 

 たづなのペンの音が止まった。室内の空気が、一瞬にして凍りつく。

 

 彼女はゆっくりと顔を上げた。いつもの穏やかな笑みはそのままに、しかしその瞳の奥には、底知れない光が宿っていた。

 

「……どういう意味でしょう? 私はただの秘書ですよ」

「そうかな。私の勘違いならいいんだが」

 

 ヤンは、気だるげに脚を組み替えた。

 

「君の歩き方は、独特だ。重心が全くぶれない。どんなに忙しく書類を運んでいる時も、足音がほとんどしない。……あれは、相当な訓練を積んだ兵士か、あるいは『誰よりも速く走るために最適化された肉体』を持つ者の動きだ」

 

 ヤンは、かつて見た、シェーンコップら「ローゼンリッター」の連中を思い出していた。彼らは普段、怠惰に見えても、肉体は常に臨戦態勢にあった。目の前の女性からも、同じ匂いがする。いや、それ以上か。彼女が纏っているのは、研ぎ澄まされた日本刀のような、静謐な覇気だ。

 

「君がその気になれば、ルドルフやブライアンでさえ、子供扱いで捻じ伏せられるんじゃないかな?」

 

 ヤンの爆弾発言に、たづなは数秒間、沈黙した。やがて、彼女はふっと力を抜き、クスクスと笑い出した。

 

「ふふっ……あははは。まさか、そんな」

「買い被りすぎかな?」

 

「ええ、買い被りです。私は運動不足の事務員ですよ。……ただ」

 

 たづなは立ち上がり、コーヒーのおかわりを注ぐために、ヤンの背後に回った。その移動速度たるや異様に速く、ヤンが瞬きをする間に、彼女は既にポットを手に取っていた。風すら起こさない、神速の移動だった。

 

「……ただ、昔少しだけ、走るのが好きだった時期はありましたけどね」

 

 彼女は、ヤンの耳元でそう囁き、カップに黒い液体を注いだ。

 

「ヤンさん。歴史家ならご存知でしょう? 『過ぎ去った時間は戻らないからこそ美しい』と」

「……ああ。全くだ」

「私は今、彼女たちが走る姿を見るのが好きなんです。そして、貴方のような方が、彼女たちの足を止めないように支えてくださっているのを見るのも」

 

 たづなは席に戻り、修正が終わった書類をヤンに差し出した。

 

「さあ、承認印を押しておきました。これを持って、早く戻ってあげてください。……今頃、ゴールドシップさんが貴方の部屋で、時限爆弾のような焼きそばを作っている頃でしょうから」

「……それは予言かね? それとも確定した未来?」

「『統計的推測』ですよ、魔術師さん」

 

 ヤンは苦笑し、書類を受け取って立ち上がった。この学園には、ウマ娘という怪物たちだけでなく、それを御する人間の中にも、底知れない古強者(ベテラン)が潜んでいるらしい。

 

「やれやれ。君のような人がいるなら、私の出番なんてないと思うんだがね」

「いいえ。私は幻ですから。……現実(いま)を走る子たちを導けるのは、貴方のような、泥臭い人間だけです」

 

 たづなは、深々と一礼して彼を見送った。

 

 ドアが閉まる。

 

 一人残された秘書室で、駿川たづなは、窓ガラスに映る自分の姿を一瞥した。そして、誰にも見えない速さで、スカートの裾をほんの少し持ち上げ、誰もいない部屋で、一歩だけステップを踏んだ。

 

 ――その一歩は、音よりも速く、影よりも軽かった。それはかつて、誰よりも速く駆け抜けた記憶の残滓か、それともただの秘書の嗜みか。

 

「……ふふ。ヤン・ウェンリー。油断ならないお方」

 

 彼女は愛おしそうに、グラウンドを見下ろした。そこには、いつものように猫背で歩くヤンの姿と、彼を見つけて全速力で突っ込んでいくハルウララの姿があった。

 

「よろしくお願いしますね。……あの子たちの、夢の続きを」

 

 緑の帽子を目深に被り直し、彼女はいつもの「有能な秘書」の顔に戻る。その正体が何者であるか──それは、トレセン学園の歴史の影に仕舞われた、秘密のページなのかもしれない。

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