ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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皇帝と魔術師3―魔術師の紅茶と皇帝の道標

 日本ウマ娘史上初、凱旋門賞制覇。

 

 その栄光をその身に纏い、シンボリルドルフとヤン・ウェンリーは英雄として日本に凱旋した。空港は熱狂的なファンで埋め尽くされ、トレセン学園では史上最大級の祝賀会が催された。

 

 ルドルフはもはや単なる生徒会長ではなく、すべてのウマ娘が仰ぎ見る生ける伝説、道を照らす太陽そのものとなった。

 

 そして、その太陽を軌道に乗せた男、ヤン・ウェンリーの評価もまた、天元突破していた。『魔術師』『ターフの軍師』『世界一のトレーナー』。あらゆる賛辞が彼に贈られ、その指導法を学ぼうと、トレーナーやウマ娘たちが彼の研究室の前に列をなすのが日常になっていた。

 

 しかし、当の本人はといえば相変わらずで。

 

「……というわけで、今度こそ引退を受理していただきたいのですが」

 

「却下ッ!断固却下であるッ!」

 

 理事長室でのいつものやり取りを終えたヤンは、山のような取材依頼の書類をゴミ箱に放り込むと、自室にこもって紅茶をすする日々に戻っていた。

 

「やれやれ、英雄なんてものになると、プライベートな時間まで奪われる。これだから、歴史の表舞台に立つのは御免被りたかったんだ」

 

 彼は心底、これで自分の役目は終わったと信じていた。ルドルフを世界の頂点に立たせるという、途方もない面倒事をやり遂げたのだ。日本ウマ娘界隈の夢を叶えたと言っても良い。それならば残りの人生は、URAの庇護のもとで、歴史書と紅茶と昼寝に捧げられるべきだった、と。

 

 だが、ヤンが指導したのは、ただのウマ娘ではない。『皇帝』シンボリルドルフである。

 

 そんな簡単に辞められるような功績ではないし、歴史のあるウマ娘の血統からは注目され、引く手あまたであることもまた確かだ。

 

 

 凱旋から数週間。ルドルフは変わらずトレーニングを続けていたが、その走りに、ヤンは微細な、しかし見過ごすことのできない変化を感じ取っていた。

 

 それは以前のような、純粋な走る喜びから来る覇気ではない。まるで、何か重い責務を背負い、それに押し潰されそうになっているかのような、悲壮な気迫。

 

 世界の頂点に立った皇帝は、新たな悩みを抱えていた。

 

 彼女の最終目標は、個人の勝利ではない。『すべてのウマ娘が幸福に走れる世界の実現』。しかし、凱旋門賞制覇というあまりに偉大な金字塔が、後進のウマ娘たちにとって「高すぎる壁」として聳え立っているのではないか。自分の存在が、他者の夢や可能性を、かえって萎縮させているのではないか。

 

 その悩みは、皇帝の威厳と責任感からだろうか。彼女自身が、誰にも打ち明けることを許さなかった。

 

 

 ある日の午後、ヤンはルドルフをトレーニングから強引に引き上げさせ、二人きりのカフェテリアでヤンが自ら紅茶を淹れた。

 

「トレーナー君?まだメニューの途中だが」

「たまには休息も必要だ。それに、君の走りは見ていられない。まるで、終わらない戦争を一人で戦っている兵士のようだ」

 

 ヤンはルドルフの向かいに座ると、静かに語り始めた。

 

「歴史上、偉大すぎた英雄の話をしよう。彼はあらゆる戦いに勝ち、巨大な帝国を築き上げた。だが、その偉業が巨大すぎたために、誰も彼を継ぐことができず、彼の死後、帝国はあっけなく分裂し、民はかえって長い混乱に苦しむことになった」

 

 それは、ヤンなりの遠回しな問いかけだった。ルドルフは、カップを持つ手を止め、俯いた。雨が窓ガラスを叩き始める。誰もいないカフェテリアに、静かな時間が流れた。

 

 やがて、ルドルフは顔を上げ、絞り出すように言った。

 

「……トレーナー君。私はこの先、どこへ向かって走ればいいのだろうか」

 

 ついに、皇帝がその胸の内を明かした。

 

「凱旋門賞という、ひとつの頂点に立った今、私の走りは、誰かの夢を奪うものになってはいないだろうか。私が輝けば輝くほど、その光に目が眩み、諦めてしまう者がいるのではないか。だとしたら、私の目指していた覇道とは、なんと孤独で、空虚なものなのだろうか、なんて思ってしまってね」

 

 ヤンは、彼女の告白を静かに最後まで聞くと、おもむろに首を横に振った。

 

 

「皇帝陛下。君は、致命的な勘違いをしている」

 

 

 彼の声は、いつになく真剣だった。

 

「君が切り開いた道は、後進にとって『壁』などでは決してないよ。どちらかというと、道がない暗闇に灯された、『道標』だ」

「だが、道標は、時にあまりに遠すぎると、絶望を生まないか?」

 

 と、ルドルフが力なく返す。

 

「それでも、ないよりは遥かにいい」

 

 ヤンはカップを置いた。

 

「それにね、歴史の健全な発展というのは、いつだって次の世代が前の世代を乗り越えることで成り立っている。どんな偉大な記録も、いつかは破られる。どんな英雄も、いつかは忘れ去られる。

 ―――()()()()()()()。それが、進歩というものだ。君は、もしかして……誰かに追い抜かれることを、恐れているのかい?」

 

 その言葉は、雷のようにルドルフの心を貫いた。そうだ。自分は無意識のうちに「永遠不滅の皇帝」であろうとし、後進に己の背中を脅かされることを、恐れていたのかもしれない。

 

「君の仕事は、勝ち続けることじゃない。ましてや、孤独に君臨することでもない。君が君らしく、純粋に走りを楽しんでいる姿を見せ続けることだ。皇帝の本当の仕事とは、民の先頭に立って、楽しそうに未来への道を指し示すことじゃないのかな」

 

 その声は、穏やかだった。彼はふっと、いつもの面倒くさそうな笑みに戻った。

 

「まあ、君はもう十分に役目を果たしたさ。疲れたのなら、休めばいい。誰にも文句を言う権利はないよ。君が休むというのであれば、私も、ようやく念願の休暇に入れるわけだしね」

 

 ヤンの言葉に、ルドルフの肩からふっと力が抜けた。彼女を縛り付けていた「皇帝」という名の重い鎧が、少しだけ軽くなった気がした。彼女の瞳に、かつての純粋な輝きが戻っていた。

 

 翌日、ルドルフはヤンに一つの提案をした。

 

「トレーナー君、しばらく大きなレースから離れたいと思う。そして、学園の後輩たちのトレーニングを見て回りたい。私の経験が、誰かの道標の、小さな灯りになるかもしれない」

 

 それは、ルドルフが「君臨する皇帝」から「導く皇帝」へと、その在り方を進化させた瞬間だった。

 

「ああ、それがいい。賢明な判断だ」

 

 ヤンは心から安堵したように頷いた。

 

「それなら、私もようやく安心して余暇のプランを立てられる」

 

 数週間後。

 

 トレセン学園のグラウンドには、後輩の走りを優しく、しかし的確に見守るシンボリルドルフの姿があった。その姿は、孤高の皇帝ではなく、皆を導く頼れる先輩そのものだった。そして、その光景を少し離れた木陰のベンチから、一人の男が穏やかに眺めている。

 

 ヤン・ウェンリーは、熱い紅茶の入ったマグカップを手に、満足げにため息をついた。

 

 彼の『魔術』は、シンボリルドルフというウマ娘に、数多の勝利をターフにもたらした。だが、その最高の成果は、一人の少女が背負った重荷を下ろし、自分自身の足で、自分自身の道を、楽しんで歩き出す手助けができたことなのかもしれない。

 

 『もう、彼女の世界に自分の出る幕はないだろう』と魔術師は思う。

 

 ささやかな達成感と、これから始まるであろう退屈で平和な日々への期待を胸に、ヤンは微温になった紅茶を、ゆっくりとすすった。

 

 皇帝と魔術師の伝説は、一つの区切りを迎えた。

 

 だが、彼らがターフに刻んだ物語は、新たな世代へと受け継がれ、これからも続いていく。

 

 これは、そんな伝説の、ほんの序章の締めくくりである。

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