ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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春風は誰がために吹く①

 ヤン・ウェンリーにとって、紅茶の温度というのは、宇宙の平和と同じくらい重大な関心事だった。

 

 熱すぎれば舌を焼くし、冷めすぎれば魂が萎える。適切な温度、適切な渋み、そして、ここが最も重要な事案だが、適切な量のブランデー。これらが調和した時、彼は初めて「仕事」という名の不条理な苦役に立ち向かう気力を得ることができるのだ。

 

 だが、今日の紅茶はひどく味がしなかった。淹れ方が悪いのではない。部屋の空気が、宇宙戦艦の重力が異常を起こしたかのように重苦しいからだ。

 

「……テイオー。いつまでそこで丸くなっているんだい?君がそうしていると、部屋の照度が下がった気がして、電気代を気にしてしまうんだが」

 

 ヤンが声をかけた先、部屋の隅にあるソファには、トウカイテイオーが突っ伏していた。いつもなら「ボクが一番!」「魔術師!遊ぼーよー!」と騒がしい、チーム・ヤンの太陽である。だが、その彼女が、ここ数日、借りてきた猫のように──いや、雨に濡れた捨て猫のように塞ぎ込んでいる。

 

 テイオーは、クッションに顔を埋めたまま、くぐもった声で答えた。

 

「……マックイーンの所に行って来たの」

「メジロマックイーン?と、いうことは、病院にかい?」

「うん。……でも、会ってくれなかった。ナースステーションで止められちゃった。『今は誰とも会いたくないそうです』って」

 

 ヤンは溜息を噛み殺し、カップを置いた。

 

 メジロマックイーン。

 

 「天皇賞」の制覇を至上命題とする、メジロ家の最高傑作。優雅にして冷徹なステイヤー。そして、トウカイテイオーにとって、魂を分かち合ったと言えるほどの無二の親友であり、いつか必ず越えなければならない最大のライバルである。

 

 その彼女を襲った、骨折という悪夢。

 

 ウマ娘にとって、脚の故障は死刑宣告に近い恐怖をもたらす。ましてや、一点の曇りもない走りを自らに義務付けてきた彼女にとって、自身の体が「不完全」になったという事実は、肉体的な痛み以上に精神を蝕んでいるのだろう。

 

「……仕方がないさ」

 

 ヤンは努めて平坦な声を出した。ここで安っぽい同情を見せることは、テイオーの為にも、マックイーンの為にもならない。

 

「怪我をした人間というのは、心が殻に閉じこもるものだ。他人の健康さや明るさが、刃物のように感じられることもある。特に君は……眩しすぎるからね」

 

 テイオーがガバッと顔を上げた。その瞳には涙が溜まっている。

 

「眩しいって、何だよ!ボクはただ、マックイーンに元気になってほしいだけなのに!『大丈夫、絶対治るよ』って、『また一緒に走ろう』って言いたいだけなのに!友達じゃんか!」

 

「その言葉が、今の彼女には一番辛いのかもしれない、と言っているんだ」

 

 ヤンは椅子を回転させ、窓の外へと視線を逃がした。秋の空は高く、澄み渡っている。走るには絶好の季節だ。だからこそ、走れない者にとっては残酷な季節でもある。

 

「『一緒に走ろう』という約束は、今の彼女にとっては『果たせないかもしれない借金』の督促状のようなものだ。……そっとしておいてやるのも、友人の務めだよ」

 

「そんなの……そんなのってないよ……」

 

 テイオーは再びクッションに顔を埋めた。

 

 ヤンは、それ以上言葉をかけなかった。彼自身の経験──イゼルローン要塞での激戦や、多くの部下を失った記憶が、教えていたからだ。

 

 絶望の底にいる人間に届く言葉など、他人は持っていない。

 

 そこから這い上がるには、自分自身で梯子を見つけるしかないのだ。

 

(……とはいえ、残酷なことだ)

 

 ヤンは心の中で毒づいた。

 

勝利。

 

栄光。

 

名誉。

 

 それらは美しい言葉だが、一度躓けば、その重さがそのまま落下エネルギーに変わる。言ってしまえば、ルドルフやテイオー、そしてマックイーンのような「エリート」たちは、常に断崖絶壁の縁を走っているようなものだ。

 

「……平和な隠居生活には、程遠いな」

 

 ヤン・ウェンリーは、すっかり冷めてしまった紅茶を啜った。

 

 

 消毒液の匂い。

 

 無機質な電子音。

 

 そして、窓の外から聞こえる、遠い歓声。

 

 メジロマックイーンは、病室のベッドの上で、自分の左足をじっと見つめていた。分厚い包帯と固定具。その下にあるはずの脚は、今はただの腫れ上がった肉の塊に感じられた。

 

(……汚らわしい)

 

 彼女は、心の中で吐き捨てた。実のところ、大まかな痛みは引いている。医師は「経過は順調だ」と言った。「復帰は可能だ」とも。担当トレーナーも、メジロ家のお婆様も、励ましの言葉をくれた。

 

 だが、彼らは分かっていない。

 

 復帰できるかどうかではない。以前と同じ、強い走りができるかどうか。問題はそこなのだ。

 

 マックイーンの脳裏に、あの日の光景がフラッシュバックする。ターフを蹴った瞬間の違和感。砕けるような衝撃。そして、自分を追い抜いていくライバルたちの背中。これまで自分が支配していたはずの景色が、一瞬で崩れ去ったあの感覚。

 

「……あんな無様な姿を、二度と晒すわけにはいきませんわ」

 

 彼女は呟き、サイドテーブルのリモコンに手を伸ばした。テレビをつける。学園のニュースチャンネルだ。画面には、トウカイテイオーが映っていた。先日のレースで見せた、重力を無視したような軽やかなステップ。天才的なレース運び。

 

 インタビュアーに囲まれ、「マックイーン、見てるー?ボク、待ってるからねー!」と無邪気に手を振る姿。

 

 マックイーンは、画面を消した。リモコンを握る手が、白くなるほど震えている。

 

 待っている?何を?傷ついた私が、無様な走りで君の引き立て役になるのを?

 

 黒い感情が胸の内に渦巻く。親友の成功を喜べない自分への自己嫌悪。そして、自分を置いて先へ進んでいく世界への焦燥。ここ(病室)は、時間の墓場だ。外の世界では時計の針が進み、新しいレースが始まり、新しい勝者が生まれる。私だけが、止まっている。

 

「……誰とも、会いたくありません」

 

 彼女は布団を頭まで被った。暗闇の中でなら、走れない自分を直視しなくて済む。

 

 メジロの最高傑作。長距離の支配者。

 

 そんな重たい称号を、すべて脱ぎ捨てて、ただの石ころになれればどれほど楽だろうか。

 

 ふと、窓の外から風の音が聞こえた気がした。秋の風。走れば心地よいはずのその風が、今のマックイーンには、彼女の居場所がないことを告げる死神の囁きのように聞こえた。

 

 

 同じ頃。トレセン学園のダートコースの片隅では、別の意味で「悲惨」な光景が展開されていた。

 

「うわああああ!」

 

 盛大な音と共に、ピンク色の小さな影が地面に突っ込んだ。顔面着地。見事なまでのヘッドスライディングである。

 

「……ハルウララ君。君の受身(うけみ)の技術は、芸術の域に達しつつあるな」

 

 コース脇でストップウォッチを持っていたヤン・ウェンリーが、呆れたように声をかけた。

 

「うー、痛くない!痛くないもん!」

 

 ハルウララは、泥だらけの顔を上げ、鼻血を拭いながら立ち上がった。ジャージは泥で汚れ、膝には新しい擦り傷が増えている。普通のウマ娘なら、心折れて泣き出すか、トレーナーに不満をぶつける場面だ。

 

 しかし彼女は、ニカっと白い歯を見せた。

 

「失敗失敗!石ころさんが『ここで転ぶと面白いよ』って言った気がしたの!」

「石と対話ができるとは、古代のシャーマンか君は。……まあいい。怪我はないね?」

「うん!私、丈夫だもん!」

 

 ヤンは、泥だらけの彼女にタオルを投げ渡した。

 

 ハルウララ。

 

 彼が気まぐれ──といよりは、ルドルフの策略と、彼女自身の持つ奇妙な磁場に引かれて──担当することになった、高知からの転入生。

 

 戦績は、連戦連敗。

 

 才能は、皆無。

 

 だが、彼女には一つだけ、皇帝にも帝王にもない「才能」があった。

 

「よし、今日の練習はここまでだ。君の任務は、風呂に入って泥を落とし、夕食の人参を残さず食べることだ。以上」

 

「えー!もう終わり?まだ走れるよ?あと100周くらい!」

 

「却下だ。過度な運動は、夕食の味を損なう」

 

 ヤンは適当な理由をつけて、彼女を制した。実のところ、ヤンは彼女に「勝つための猛特訓」を課していない。今の彼女に必要なのは、筋肉をつけることではない。「負け癖」によって心を摩耗させないことだ。

 

 ヤンの用兵思想において、敗北とは「次の勝利のための布石」でなければならない。だが、ウララの場合、敗北そのものを「イベント」として楽しんでいる節がある。それは、競争ウマ娘としては大きな欠点であり、しかし、ウマ娘としては最大の長所でもあった。

 

「ねえねえトレーナーさん!明日のレース、雨降るかなあ?」

 

 帰り道、ウララがスキップしながら尋ねてきた。

 

「予報では降るらしいね。……君にとっては吉報か」

「うん!泥んこレース楽しみ!泥がいっぱい飛んでくるとね、お祭りみたいでワクワクするの!」

 

 ヤンは苦笑した。明日のレースは、またしても格上の相手ばかりだ。普通に考えれば、勝ち目はない。泥を浴びて、後ろから数えたほうが早い順位でゴールするのが関の山だろう。

 

 ―――だが、彼女はそれを、屈託のない笑みを浮かべながら「お祭り」と呼ぶ。

 

(……勝利の呪縛に囚われた者と、敗北すら遊びに変える者。どちらが幸せなのかね)

 

 ヤンの脳裏に、病室にいるであろうメジロマックイーンのことがよぎった。

 

 完璧を、最高を求めるがゆえに、一度の亀裂で崩壊しかけている名剣。

 

 一方で、泥にまみれても、錆びることなく輝き続けるナマクラ刀。

 

 両者はあまりにも違う。住む世界が、見ている景色が違う。だからこそ、ヤンは思っていた。この二人が交わることなど、万に一つもあり得ないだろう、と。

 

「トレーナーさん、明日は何着になれるかなあ?」

「さあね。……だが、君が笑顔で帰ってくるなら、順位なんぞどうでもいいさ」

「えへへ、じゃあ一等賞の笑顔で帰ってくる!」

 

 夕焼けの中、泥だらけの少女と、冴えない中年男の影が伸びていく。それは、これから始まる奇妙な物語の、静かな序章だった。

 

 そして翌日。運命の歯車は、ヤンのあずかり知らぬところで、密かに、しかし確実に噛み合おうとしていた。

 

 舞台は、マックイーンの病室にある、一台のテレビモニターである。

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