雨が降っていた。窓ガラスを叩く無数の水滴が、まるで世界からのノイズのように、病室の静寂を侵食していた。
メジロマックイーンは、ベッドの上で膝を抱え、ただその雨音を聞いていた。リハビリの時間になっても、彼女はトレーニングルームに行けなかった。気を使った担当トレーナーが部屋に来て、ドア越しに優しく声をかけてくれたが、
「気分が優れませんの」
と短く返して追い返した。嘘ではない。メジロマックイーンの気分は、最悪だったからだ。
心が、泥沼に沈んだように動かないのだ。
(……トウカイテイオーは、今頃走っているのでしょうか)
ふと、親友の顔が浮かぶ。雨の中でも、あの無邪気な帝王はステップを踏んでいるだろう。泥を跳ね上げ、太陽のような笑顔で、『マックイーン、早く戻ってきてよ!』と叫びながら。
――その「純粋さ」が、今は猛毒だった。
彼女たちが待っているのは「ライバルのマックイーン」だ。完璧なスタミナと、優雅な走りでターフを支配する、メジロの最高傑作だ。
だが、今の自分はどうだ?怪我をした左足を庇い、無様に足を引きずっている。かつての走りのイメージと、現実の肉体のギャップに怯え、スタートラインに立つことすら恐れている。
「……こんな無様な姿で、彼女の隣には立てませんわ」
マックイーンは、自分自身に言い聞かせるように呟いた。最高であり、完璧でなければならない。
それがメジロの誇りであり、彼女のアイデンティティの全てだった。その柱が折れた今、彼女は自分が何者なのかさえ分からなくなっていた。
思考を遮断したくて、サイドテーブルのリモコンを手に取った。テレビをつける。ニュース番組は、有力ウマ娘たちの活躍を伝えている。見たくない。バラエティ番組は、今の心理状態には騒がしすぎる。
そうやってチャンネルを回し続け、そして、手が止まった。
テレビに映し出されていたのは、地方レース場の中継だった。雨の不良バ場。泥田のようなコース。華やかな中央のターフとは程遠い、過酷で、泥臭い戦場だ。
「……そういえば」
昨日のことだ。
トウカイテイオーが懇意にしているヤン・ウェンリーのところの「新人」が走ると、トレーナーが言っていたのを思い出した。
新人の名前は確か、ハルウララ。連戦連敗。才能皆無。あの稀代の戦略家が抱える、唯一の「汚点」とも言えるウマ娘だった。
マックイーンの唇が、わずかに歪んだ。暗い優越感と、自嘲が入り混じった笑み。
「……見てみましょうか。私よりも、惨めな敗北を」
それは、溺れる者が藁(わら)ではなく、沈んでいく石を探すような心理だった。自分より下の存在を確認することで、辛うじて自尊心を保とうとする、醜い衝動である。
マックイーンは、その醜さを自覚しながらも、画面から目を離せなかった。
■
レースが始まってみれば、ただ、悲惨の一言だった。
ゲートが開いた瞬間から、勝負は決していたと言っていい。他のウマ娘たちが水しぶきを上げて飛び出す中、ハルウララは、ワンテンポもツーテンポも遅れてスタートした。
「……遅いですわね」
マックイーンは冷淡に評価した。スピードが足りない。一歩一歩のフォームもバラバラ。泥に足を取られるたびに体勢を崩し、そのロスでどんどん離されていく。それは「競走」ですらなかった。マックイーンに言わせてみれば、ただの「移動」だ。
雨脚は強く、画面越しでもコースの劣悪さが伝わってくる。前を行くウマ娘たちが蹴り上げる泥の塊(キックバック)が、容赦なく後方のウララを襲う。顔面を直撃する泥。視界を奪う雨。
普通の神経なら、心が折れて走るのをやめてもおかしくない状況だ。
(……おやめなさい。これ以上走っても、何の意味もなくてよ)
マックイーンは、心の中で勧告した。
勝つ見込みは万に一つもない。ただ泥にまみれ、恥を晒し、体力を消耗するだけ。それは、今のマックイーンが最も恐れる「無意味な徒労」そのものだった。
だが。画面の中の少女は、止まる気配が無い。それどころか、ただただ、前を向いている。最後方。ポツンと一人になりながら、泥だらけになりながら、それでも懸命に手足を動かしている。
第3コーナー。第4コーナー。前のウマ娘たちは遥か彼方。観客の視線さえ、もう彼女には向いていないだろう。それでも、彼女の行き脚は止まらない。
「……なぜ?」
マックイーンの眉が寄る。理解できない。何が彼女を動かしている?名誉?プライド?だが、そんなものは、とっくに泥の中に消えているはずだ。
そして、ゴール。1着のウマ娘がゴールしてから、数秒、時間が経ってから、ハルウララはゴール板を駆け抜けた。圧倒的な最下位であり、間違いなく、歴史的大敗であった。
マックイーンは、ふぅ、と息を吐き、テレビを消そうとした。やはり、レースなどは見るべきではなかった。
敗者の惨めな姿など、今の自分には毒でしかない。そして、そんなもので自らの心を慰めようとしている自分の心の動きに、嫌悪の溜息を再び吐く。
その時だった。
『──やったあああ!』
実況の声でも、観客の悲鳴でもない。もっと澄んだ、場違いな声がスピーカーから響いた。
カメラが切り替わる。映し出されたのは、全身泥パックをしたかのように真っ黒になったハルウララの顔。
目と歯だけが白く輝いている。彼女は、まるでG1レースに勝利したかのように、両手を突き上げていた。
『トレーナーさーん!私、完走したよー!泥んこすごかったー!』
マックイーンの指が凍りついた。リモコンを取り落としそうになる。
「……は?」
思考が追いつかない。笑っている?この状況で?あんな無様な走りをして?
『楽しかったねー!次はもっと速く走るぞー!』
画面の端に、あのヤン・ウェンリーの姿が見切れた。彼はタオルを持って彼女を迎え、泥だらけになるのも厭わず、その頭を撫でていた。
叱責も、失望もない。そこにあるのは、『よく帰ってきた』という、戦友を労うような穏やかな空気だけだった。
「……狂っていますわ」
マックイーンの声が震えた。彼女の知る「勝負の世界」の常識が、音を立てて崩れていく。
負けたら悔しがるべきだ。
泣くべきだ。
己の不甲斐なさを呪うべきだ。
そうでなければ、「勝利」の価値まで軽くなってしまう。私たちが命を削って目指している頂(いただき)は、そんなヘラヘラした態度で挑んでいい場所ではない。
怒りが湧いた。……いいや、違う。これは嫉妬だ。負けてもなお、傷つかない心への。泥にまみれても、輝きを失わない魂への、どうしようもない嫉妬だ。
「間違って、います、そんなもの」
マックイーンは、画面の中の笑顔から目を逸らすことができなかった。
―――ハルウララが浮かべる笑顔は、メジロの最高傑作である自分が、いつの間にか失くしてしまったものを、あまりにも鮮烈に映し出していたからだ。
■
翌日から、メジロマックイーンの行動が変わった。彼女はリハビリの時間になると、「一人で集中したい」と言ってトレーナーを遠ざけ、しかしトレーニングルームには向かわなかった。
向かった先は、学園の裏手にあるダートコースが見下ろせる場所。そこにある木の陰から、彼女は「観察」を始めた。
ヤン・ウェンリーと、ハルウララの練習風景を。
「いっくよー!とー!」
ウララが走る。転ぶ。起き上がる。また走る。タイムは計っていないようだ。フォームの矯正もしていない。ヤンはベンチに座り、紅茶を飲みながら、時折何か声をかけているだけ。
(……あれが、練習?)
マックイーンには信じられなかった。メジロ家での厳しいトレーニング、科学的なデータ分析、極限まで肉体を追い込むストイックな日々。それらとは対極にある、これはただの「お遊戯」だ。
だが、マックイーンは気づいてしまった。転んで膝を擦りむいたウララが、
「いたた……でも、今の転び方かっこよかった?」
とヤンに聞き、ヤンが
「ああ、芸術点が高いな」
と返す。その時の、ウララの誇らしげな顔。
(……彼女は、恐れていませんのね)
走ることを。転ぶことを。そしてなにより、他人に評価されることを。
マックイーンは、自分の足を見た。治りかけている。走ろうと思えば走れるはずだ。
だが、怖い。
もし走って、タイムが悪かったら? フォームが崩れていたら?「メジロの最高傑作も地に落ちた」と囁かれたら?その恐怖が、彼女の足を鎖のように縛り付けている。
なのに、あの子は。誰よりも遅いくせに、誰よりも下手なくせに、誰よりも自由だ。
「……教えていただきたいものですわ」
マックイーンは、木の幹を強く握りしめた。爪が食い込む。
「どうすれば……貴女のように、そんなに笑っていられますの?」
それは、もはや「観察」の域を超えていた。救いを求める祈りに近かった。黄金の檻に閉じ込められた孤高の蝶が、泥んこ遊びをする野良犬の自由に焦がれるような、切実な渇望。
夕暮れが迫り、練習が終わる。ヤンとウララが帰っていく背中を見送りながら、マックイーンは決意した。
明日。
明日、あの子に近づいてみよう。
自分のプライドが許さないかもしれない。けれど、このまま檻の中で朽ち果てるよりはマシだ。あの「魔術師の汚点」の中に、もしかしたら、私が失った「希望」の欠片があるのかもしれない。
マックイーンは杖をつき、ゆっくりと歩き出した。その足取りはまだ重いが、昨日までの「停滞」とは違う、微かな「前進」のリズムを刻んでいた。