ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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春風は誰がために吹く③―トワイライト・ランデブー

 カラスが鳴きながら巣へ帰っていく時間。その日の夕暮れは、世界が燃え尽きる直前のような、鮮烈な茜色だった。

 それは、「光ある世界」の住人たちが活動を終え、「影ある世界」に生きる者たちの時間が始まる合図でもある。

 

 メジロマックイーンは、学園の裏手にある古びたベンチを目指して歩いていた。コツ、コツ、と松葉杖の音が響く。その音は、かつて彼女が響かせていた蹄鉄の音とはあまりにも違いすぎて、一歩進むごとに心臓を冷たい指で撫でられるような錯覚を覚えていた。

 

(……私は、何をしているのでしょう)

 

 彼女は自嘲する。わざわざリハビリを抜け出して、誰にも見つからないように、まるで罪人のように裏庭へ向かうなんて、と。

 

 だが、理由は明白だ。彼女に会うためだ。あの、「泥んこの敗者」に。

 

 マックイーンはあれから、テレビで見た、ハルウララの笑顔が脳裏に焼き付いて離れなかった。

 

 なぜ笑えるのか。なぜ走れるのか。

 

 その答えを知らなければ、自分は、もう、一歩も前に進めない気がしていた。それは、誇り高きメジロの令嬢が、藁にもすがる思いで選んだ、最後の巡礼とも言える旅路だったのかもしれない。

 

 

 裏庭の広場が見えてきた。普段は誰も使わない、雑草が生い茂る空き地。そこに、ピンク色の小さな影があった。

 

「あー!いたー!バッタさん待てー!」

 

 ハルウララだ。今日も今日とてジャージは泥だらけ。髪には枯れ葉がついている。彼女は走るフォームの確認でも、筋力トレーニングでもなく、ただの「虫取り」に興じていた。

 

 マックイーンは、木の陰で足を止めた。声をかけるべきか、それとも引き返すべきか。こんな泥遊びをしている娘に、私が求めている高尚な答えなどあるはずがない。そう理性が告げる。

 

 だが、その時。ウララがふと顔を上げた。そして、木の陰に立つマックイーンと目が合った。

 

「あ!」

 

 ウララの目が丸くなる。マックイーンは身構えた。侮蔑されるか?「怪我をして可哀想なお姉さん」と憐れまれるか?

 

「きれいなお姉ちゃん、みーつけた!!」

 

 返ってきたのは、予想の斜め上を行く歓声だった。ウララは捕まえようとしていたバッタのことなど瞬時に忘れ、マックイーンの方へ駆け寄ってきた。

 

「ねえねえ!お姉ちゃん、誰?転校生?それとも迷子?」

 

 至近距離で覗き込まれる。泥と汗と、太陽の匂いがした。マックイーンは後ずさりそうになるのを堪え、努めて冷静に──メジロの令嬢としての仮面を被って答えた。

 

「……いいえ。私はメジロマックイーン。ただ、少し散歩をしていただけですわ」

「マックイーンちゃんっていうんだ!名前もかっこいいね!私、ハルウララ!よろしくね!」

 

 ウララは泥だらけの手を差し出そうとして、自分の手の汚さに気づき、

 

「あ、ごめんごめん」

 

 とジャージで拭った。そのジャージも泥だらけなのだが。

 

「それで、お散歩なの?一緒に行く?あっちにね、すごい形の石があったよ!」

 

 あまりにも無警戒。あまりにも無邪気。マックイーンは、毒気を抜かれたように肩の力を落とした。この子は、私の「足」を見ていない。杖をついている私の「弱さ」を見ていない。

 ただ、「新しい友達候補」として見ている。

 

「……少し、疲れましたの。あそこのベンチで休ませていただけますか?」

「うん! いいよー!」

 

 二人は、夕焼けに染まるベンチに並んで座った。気品ある令嬢と、泥団子のような少女。

 

 世界で一番ちぐはぐな、トワイライト・ランデブーの始まりだった。

 

 

「マックイーンちゃん、お菓子食べる?人参クッキーあるよ!」

「いえ、結構ですわ……体重管理中ですので」

 

 ウララがポケットから出した、少し砕けたクッキーを断りながら、マックイーンはずっと聞きたかったことを口にした。遠回しな世間話など、純粋で、まっすぐなこの子には通じないだろう。だから、単刀直入に。

 

「……ハルウララさん。貴女、この前のレースで負けましたわね」

 

 ウララがクッキーを齧る手が止まる。

 

「うん!ビリだったー!みんな速かったなあ」

「悔しくないのですか?」

「んー?ちょびっとは残念だと思うよ?一等賞とりたかったなーって思うよ」

 

「なら!」

 

 マックイーンの声が、思わず強くなった。

 

「なら、なぜ笑えるのです?なぜ、あんなに楽しそうにしていられるのです!?」

 

 それは、マックイーン自身の心の叫びだった。勝てない自分は無価値だ。無能だ。生きて、走っている意味がない。その恐怖に、貴女はなぜ耐えられるのか。

 

 ウララは、きょとんとしてマックイーンを見た。そして、首を傾げて言った。

 

「え?だって、走るのって楽しいよ?」

 

 まただ。テレビ越しに聞いたのと同じ言葉。だが、直接聞くと、その言葉の響きは違って聞こえた。

 

「風がビューってなってね、心臓がトクトクってなって、地面がトントンってするの。私ね、走ってると『生きてるー!』って感じがするんだ!」

 

 ウララは手足をバタバタさせて表現した。しかし、その純粋さが、マックイーンの本心を炙り出す。

 

「ですが、勝てなければ、………負け続けることは、自分の無能さを証明し続けることではありませんの!?」

 

 少し強めに放たれた言葉。勝たなければ。メジロの悲願を。そのために、自分は居るのだから。

 

「一等賞になれなくても、一生懸命走ったことはなくならないよ?」

 

 マックイーンは息を呑んだ。

 

「昨日の私も、今日の私も、一生懸命走ったもん!」

 

 勝利という結果ではなく、「走った」という過程そのものを肯定する強さ。

 

「だから私は、いつもニコニコなの!」

 

 過去の敗北を「傷」ではなく、「生きた証」として積み重ねていく生き方。

 

「走ったことは、なくならない……」

 

「うん!それにね、トレーナーさんが言ってた。『君が笑って帰ってくれば、それが俺たちの勝利だ』って!だから私はね、勝ったの!」

 

 独自の理論。だが、そこには揺るぎない真実があった。

 

 マックイーンは、膝の上で拳を握りしめた。彼女は、自分がどれほど狭い世界──「1着以外は敗北」という思い込み──で生きてきたかを思い知らされた。

 

「……私は、怖いですわ」

 

 マックイーンは、ポツリと漏らした。一度口を開くと、止めどなく弱音が溢れてきた。見ず知らずの、この不思議な少女相手だからこそ、言えたのかもしれない。

 

「私は、皆様から『最強』であることを期待されています。でも、怪我をしてしまいました。……もし、治っても、以前のように走れなかったら?誰かに追い抜かれたら?そう思うと、足がすくんで、動けないのです」

 

 沈黙が落ちた。カラスの声だけが響く。ウララは黙って聞いていた。そして、クッキーを飲み込んでから、そっとマックイーンの足に視線を落とした。

 テーピングと包帯で固められた、痛々しい左足を。

 

「ねえ、マックイーンちゃん。ちょっと触ってもいい?」

「え……?」

 

 ウララは返事を待たず、泥だらけの手をジャージで念入りに拭いてから、そっとマックイーンの膝に触れた。温かい手だった。

 

「ここが痛いの?」

「……ええ。今は痛みはありませんが、心が痛むのです」

 

 ウララは、真剣な顔でマックイーンの足を見つめた。ふくらはぎの曲線。足首のバネ。今は痩せてしまっているが、そこには確かに「走るために研ぎ澄まされた」痕跡があった。

 

「……すごい」

 

 ウララが呟いた。

 

「すごい?何がですの?こんな、壊れた足……」

「ううん、違うよ。すっごくかっこいい!」

 

 ウララは顔を上げ、目を輝かせて言った。

 

「私ね、わかるの。速い子の足は、きれいな形してるんだよ!ライスちゃんも、テイオーちゃんもそう。でも、マックイーンちゃんの足はもっとすごい!」

 

 ウララは両手を広げた。

 

「なんかね、長い剣みたい!シュッとしてて、強そうで……立ってるだけで『私、風より速いぞー!』って言ってるみたいだよ!」

 

 マックイーンの心臓が、早鐘を打った。

 

 剣。風。

 

 それは、彼女が一番言われたかった言葉だったかもしれない。

 

『治りますか?』

『可哀想に』

 

 ………そんな慰めの言葉は聞き飽きた。彼女が欲しかったのは、今の、傷ついた状態の自分を、

 

『それでも美しい』

『それでも速そうだ』

 

 と肯定してくれる声だったのだ。

 

「私、いっつも負けちゃうから、速い子の背中見るの大好きなの。マックイーンちゃんが走ったら、きっとキラキラしてて、すごいんだろうなー!」

 

 純粋な憧憬。そこには「勝てるから好き」という条件はない。「メジロだから好き」という打算もない。ただ、その「足」が持つ機能美への、本能的な賛美。

 

 マックイーンの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。夕日に照らされて、涙が頬を伝う。

 

「……本当に?貴女は、この足を見て、そう思いますの?」

「うん!思うよ!私が保証するよ!」

 

 根拠のない保証。だが、今のマックイーンには、どんな医師の診断書よりも効く薬だった。

 彼女は泣きながら、笑った。

 

「……ふふっ。変な子。自分の成績も保証できないくせに」

「あはは、それは言わないでー!」

 

 

 日が沈み、空が群青色に変わっていく。トワイライトの魔法が解ける時間が迫っていた。

 

 マックイーンは涙を拭い、立ち上がった。杖をつく手には、来る時のような迷いはなかった。

 

「ハルウララさん」

「なーに?」

 

「私……怪我を治して、レースを走りますわ」

「ほんと!?」

 

「ええ。ですがまだ、全力では走れません。以前のような走りもできないかもしれません。でも……」

 

 マックイーンは、真っ直ぐにウララを見つめた。その瞳には、かつて「刺客」や「帝王」と対峙した時のような、強い光が戻っていた。

 

「貴女に見せてあげたくなりましたの。私の走りを。貴女が『かっこいい』と言ってくれたこの足が、嘘ではないことを証明するために」

 

 それは、彼女にとって初めての、「勝利のためではない」走りの誓いだった。誰かに勝つためではない。ただ一人の、泥だらけの友人に、夢を見せるための走り。

 

「うん!楽しみにしてる!約束ね!」

「ええ、約束ですわ」

 

 二人は指切りをした。細く白い指と、泥だらけの指が絡み合う。

 

「じゃあねー!トレーナーさんが『遅いと夕飯抜きだ』って怒ってるかも!」

「ふふ、それは大変ですわね。急いでお帰りなさい」

 

 ウララは手を振りながら、闇の中へ駆け出して行った。その背中は、どんな名ウマ娘よりも力強く、マックイーンの目には映った。

 

 一人残されたマックイーンは、夜空を見上げた。

 

 一番星が輝いている。

 

 彼女は杖を握り直し、一歩を踏み出した。その足音は、もはや「壊れた音」ではなかった。これから始まる復活劇の、力強い序曲だった。

 

(……見ていらっしゃい、ハルウララさん。そして、トウカイテイオー。私は帰りますわ。私の、貴女の愛する、ターフの世界へ)

 

 闇の中、孤高の蝶は、再び羽ばたくための準備を始めた。

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