ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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春風は誰がために吹く④

学園の片隅、朝霧が立ち込める早朝のダートコース。そこで行われていたのは、奇妙な二人三脚の練習風景だった。

 

「いっち、に!いっち、に!」

「……リズムが速いですわ、ハルウララさん。もっと優雅に、重心を意識して」

 

 朝霧の中、ジャージ姿のハルウララと、トレーニングウェアを着たメジロマックイーンが並んで歩いていた。走ってはいない。競歩のような速度でのウォーキングだ。

 だが、その空気は真剣そのものだった。

 

「マックイーンちゃんの歩き方、やっぱりすごいね!背中がピンとしてて、頭が動かないの!」

「当然ですわ。体幹のブレはスタミナのロスに繋がりますから。……貴女はもう少し、地面を蹴るのではなく『捉える』感覚を持ちなさい」

「とらえる?ガシッて?」

「ええ、まあ……そのようなものですわ」

 

 マックイーンは苦笑した。本来なら、メジロの最高傑作である自分が、未勝利のウマ娘に指導をするなどあり得ない。時間の無駄だ、と言っていたかもしれない。だが、今の彼女にとって、この早朝の時間は何よりも得難い救いだった。

 

 ウララは、マックイーンを「怪我人」として扱わない。「可哀想な悲劇のヒロイン」として腫れ物に触るようなこともしない。ただ、「すごい足を持つ友達」として、純粋な敬意と好奇心を向けてくれる。

 その視線の中にいる時だけ、マックイーンは「勝たなければならない重圧」から解放され、純粋に体を動かす喜びを感じることができた。

 

「あはは!今のターン、失敗しちゃった!」

「ふふっ、貴女は本当に転ぶのが上手ですわね」

 

 笑い声が霧の中に溶けていく。マックイーンの足取りは日増しに軽くなっていく。その回復速度たるや、医師も驚くほど。

 

 だが、その「変化」を、周囲がどう受け取るかは別の話だった。

 

 

 それから数日後の午後。

 

 マックイーンは、専属トレーナーに呼び出された。彼は誠実で優秀な男だ。マックイーンの才能を誰よりも信じ、復帰のために献身的に尽くしてくれている。

 

 だからこそ、彼の言葉は重かった。

 

「……マックイーン。最近、リハビリのメニューを勝手に変更しているようだね」

 

 トレーナー室の空気は張り詰めていた。マックイーンは視線を落とした。

 

「……はい。早朝に少し、独自の調整を」

 

「それはいい。君が前向きになったことは嬉しいよ。だが……」

 

 トレーナーは言い淀み、そして意を決したように告げた。

 

「君が、あのハルウララと関わっているという噂を聞いた」

 

 マックイーンの肩が跳ねた。トレーナーは嘆息した。

 

「気分転換も必要だろう。だが、彼女と君とでは住む世界が違う。彼女は『負けること』に慣れすぎている。今の君に必要なのは、勝者のメンタリティを取り戻すことだ。

 ぬるま湯に浸かって、牙を丸くしてはいけない。本来、他のウマ娘と仲良くする事は悪いことではないし、むしろ好ましいけれど………今回ばかりは、ね」

 

 正論だった。

 

 勝負の世界は非情だ。一瞬の油断、一瞬の甘えが命取りになる。あの優しく、楽しい時間は、今の自分にとっては、復帰を遅らせる「毒」になりうるかもしれない。

 

「……分かりましたわ」

 

 マックイーンは、静かに目を伏せた。

 

「復帰戦に向けて、環境を整えます。……彼女とは、少し距離を置きます」

 

 それは、誰に言わされたわけでもない。マックイーン自身が、勝つために選んだ選択だった。

 

 

 夕暮れの裏庭。いつものベンチ。マックイーンは、ジャージ姿で走ってきたウララを待っていた。

 

「マックイーンちゃん!お待たせー!」

 

 ウララの屈託のない笑顔。それが今は、鋭い棘のように胸に刺さる。マックイーンは拳を握りしめ、一度だけ深く息を吸い込んだ。

 

「……ハルウララさん。今日は、貴女にお話がありますの」

「ん?なあに?あ、もしかして新しいお菓子?」

 

 ウララが隣に座ろうとする。マックイーンは、それを視線だけで制した。その拒絶の空気に、ウララが不思議そうに足を止める。

 

「私……」

 

 マックイーンは口を開いた。別れの言葉を、言うつもりだった。『もう会えない』。どうせならば、『貴女とは住む世界が違う』などと冷たく突き放して、嫌われて、それで終わりにしようと決めていたはずだった。

 

「私は、貴女とは……もう……」

 

 だが、言葉が出ない。目の前の純粋な瞳を見ていると、喉が焼けるように熱くなり、用意していた冷徹なセリフが灰になって崩れていく。

 言えない。この子を傷つける言葉なんて、この子と離れるような言葉を、言えるはずがない。

 

「……っ」

 

 マックイーンは唇を噛み締め、俯いた。沈黙が落ちる。カラスの鳴き声だけが、切なく響いていた。

 

 そして、どれくらいの時間が経っただろうか。重苦しい沈黙を破ったのは、マックイーンではなく、ウララだった。

 

「……そっか。行くんだね?」

 

 マックイーンが弾かれたように顔を上げる。ウララは、悲しむでもなく、怒るでもなく、ただ静かに微笑んでいた。

 

「え……?」

「わかるよ。だって今日のマックイーンちゃん、昨日までと全然違うもん」

 

 ウララは一歩近づき、マックイーンの顔を覗き込んだ。

 

「すっごく、キリッとしてる。……テレビで見た、スタートラインに立ってる時の『速い子』の顔になってるよ」

 

「……っ」

 

 マックイーンの瞳が揺れた。何も言っていないのに。突き放す言葉さえ言えなかったのに。この子は、迷いの向こう側にある「決意」だけを、正確に見抜いている。

 

「行かないでって言ったら、困るでしょ?」

 

 図星だった。マックイーンは、震える声で答えるしかなかった。

 

「……はい。私は、行かなければなりません。貴女のいない、もっと遠くの厳しい場所へ」

「うん。わかった。行ってらっしゃい!」

 

 ウララは、大きく頷いた。

 

「だって、そこがマックイーンちゃんの一番似合う場所だもん!私ね、ここで遊んでくれるマックイーンちゃんも好きだけど、風みたいに走るマックイーンちゃんの方が、ずーっと好きなの!」

 

 引き止めない。縋らない。

 

 それが、彼女なりの最大のエールだった。ウララは背中に隠していた手を出し、何かを差し出した。

 

「じゃあ、これ!お守り!」

 

 シロツメクサで編んだ花冠だった。不格好で、少し泥がついている。よく見れば、四つ葉のシロツメクサも編み込んである。

 

「これね、マックイーンちゃんが一等賞とれるように作ったの!あげる!」

 

 マックイーンの手が震えた。私は貴女を置いていくのに。何も言えずに立ち尽くしていただけなのに。

 

 ―――貴女は、まだ私に「祝福」をくれるのですか。

 

「……いただいて、よろしいのですか?」

 

「もちろん!マックイーンちゃんの足は、誰より速いんだから。走らなきゃもったいないよ!」

 

 ウララは無理やりマックイーンの手に花冠を握らせた。

 

「がんばってね!私、遠くから応援してるから!レース、絶対に見るからねー!」

 

 そう言いながら、走り去るウララ。マックイーンは、泥だらけの花冠を胸に抱き、その背中に深々と一礼した。気持ちは、言葉にならなかった。ただ、感謝の涙がこぼれ落ちそうになるのを、必死にこらえていた。

 

 

 数週間後。

 

 マックイーンは、ウララとの約束通りターフの上にいた。タイムは順調に戻りつつある。フォームも美しい。鬼気迫る集中力で、彼女はリバビリのメニューを消化していた。

 

 だが、その表情は能面のようで、どこか張り詰めていた。先日のハルウララとの別れが、尾を引いているのは、明らかだった。

 

 休憩中、ベンチで水を飲んでいると、隣にふらりと誰かが座った。

 

「……何か御用ですの?ヤン・トレーナー」

「いや、サボりだよ。君のトレーナーに見つかると怒られるから、盾になってくれ」

 

 ヤンは悪びれもせず、紅茶の入った水筒を開けた。そして、独り言のように呟いた。

 

「……こっちの『小さな春風』も、相変わらずだよ」

 

 マックイーンの手が止まる。

 

「『マックイーンちゃん、今頃すごいスピードで走ってるんだろうなー』と、毎日空を見上げてニヤニヤしている。自分の練習そっちのけでね」

「……そうですか」

 

「君が彼女を遠ざけた理由は聞かない。だが、トレーナーの立場から言わせて貰えば、競争ウマ娘として、実に、正しい判断だったと言わせて頂くよ。情に流されて共倒れになるより、よほどいい」

「随分と、薄情でいらっしゃるのね」

「事実だからね。今のハルウララと、メジロマックイーンでは走る世界が明らかに違う」

 

 ヤンは、カップの湯気を眺めながら言った。

 

「だが。だからといって、そんなに悲壮な顔をして走る必要はあるのかね?眉間に皺を寄せて勝ったところで、彼女は喜ぶかな」

 

「……どういう意味です?」

「もっと単純に考えればいい、と言っているんだよ」

 

 ヤンは肩をすくめた。

 

「彼女は、君に『メジロ家の悲願』やら、『メジロの最高傑作』やら、重たいものは全く期待していない。ただただ、『私の友達はこんなに速いんだぞ、すごいだろう』と自慢したいだけさ。

 ……それならば、君がやるべきことは、苦しむことじゃない。涼しい顔で、誰よりも速く駆け抜けてみせることだろう?」

 

 ヤンは立ち上がり、ベレー帽を直した。

 

「君は英雄になる必要はない。ただの『良き自慢の友達』であれ。……その方が、気楽に走れるんじゃないかな」

 

 それだけ言い残し、魔術師はヒラヒラと手を振って去っていった。

 

 残されたマックイーンは、呆気にとられ、そしてふっと肩の力を抜いた。

 

(……単純に考えろ、ですか)

 

「……ふふっ。本当に、お節介な方たちですこと」

 

 彼女はポケットから、シロツメクサの花冠を取り出した。これを見ると、不思議と力が湧いてくる。

 そうだ。難しいことは何もない。背負うべきは、重圧ではない。この小さな期待だけでいい。

 

「……見せなければなりませんね」

 

 マックイーンは立ち上がった。その顔から、悲壮感は消えていた。あるのは、女王としての自信と、友への愛だけ。

 

 彼女は、胸元のシロツメクサにそっと触れ、遠くの空を見据えた。

 

「……ご覧あそばせ、ハルウララさん」

 

 マックイーンは、微笑みを浮かべながら前を向き、優雅に一歩を踏み出した。

 

「貴女が愛してくれたこの足で……至高の『一等賞』を、証明してみせますわ」

 

 決意を新たにメジロマックイーンは、いよいよ復帰へのターフへと向かう。

 

 舞台は春の天皇賞。

 

 そして、その先の未来で待つ、彼女との再会へ向けて。孤高の蝶は、今、静かに羽ばたいた。

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