学園の片隅、朝霧が立ち込める早朝のダートコース。そこで行われていたのは、奇妙な二人三脚の練習風景だった。
「いっち、に!いっち、に!」
「……リズムが速いですわ、ハルウララさん。もっと優雅に、重心を意識して」
朝霧の中、ジャージ姿のハルウララと、トレーニングウェアを着たメジロマックイーンが並んで歩いていた。走ってはいない。競歩のような速度でのウォーキングだ。
だが、その空気は真剣そのものだった。
「マックイーンちゃんの歩き方、やっぱりすごいね!背中がピンとしてて、頭が動かないの!」
「当然ですわ。体幹のブレはスタミナのロスに繋がりますから。……貴女はもう少し、地面を蹴るのではなく『捉える』感覚を持ちなさい」
「とらえる?ガシッて?」
「ええ、まあ……そのようなものですわ」
マックイーンは苦笑した。本来なら、メジロの最高傑作である自分が、未勝利のウマ娘に指導をするなどあり得ない。時間の無駄だ、と言っていたかもしれない。だが、今の彼女にとって、この早朝の時間は何よりも得難い救いだった。
ウララは、マックイーンを「怪我人」として扱わない。「可哀想な悲劇のヒロイン」として腫れ物に触るようなこともしない。ただ、「すごい足を持つ友達」として、純粋な敬意と好奇心を向けてくれる。
その視線の中にいる時だけ、マックイーンは「勝たなければならない重圧」から解放され、純粋に体を動かす喜びを感じることができた。
「あはは!今のターン、失敗しちゃった!」
「ふふっ、貴女は本当に転ぶのが上手ですわね」
笑い声が霧の中に溶けていく。マックイーンの足取りは日増しに軽くなっていく。その回復速度たるや、医師も驚くほど。
だが、その「変化」を、周囲がどう受け取るかは別の話だった。
■
それから数日後の午後。
マックイーンは、専属トレーナーに呼び出された。彼は誠実で優秀な男だ。マックイーンの才能を誰よりも信じ、復帰のために献身的に尽くしてくれている。
だからこそ、彼の言葉は重かった。
「……マックイーン。最近、リハビリのメニューを勝手に変更しているようだね」
トレーナー室の空気は張り詰めていた。マックイーンは視線を落とした。
「……はい。早朝に少し、独自の調整を」
「それはいい。君が前向きになったことは嬉しいよ。だが……」
トレーナーは言い淀み、そして意を決したように告げた。
「君が、あのハルウララと関わっているという噂を聞いた」
マックイーンの肩が跳ねた。トレーナーは嘆息した。
「気分転換も必要だろう。だが、彼女と君とでは住む世界が違う。彼女は『負けること』に慣れすぎている。今の君に必要なのは、勝者のメンタリティを取り戻すことだ。
ぬるま湯に浸かって、牙を丸くしてはいけない。本来、他のウマ娘と仲良くする事は悪いことではないし、むしろ好ましいけれど………今回ばかりは、ね」
正論だった。
勝負の世界は非情だ。一瞬の油断、一瞬の甘えが命取りになる。あの優しく、楽しい時間は、今の自分にとっては、復帰を遅らせる「毒」になりうるかもしれない。
「……分かりましたわ」
マックイーンは、静かに目を伏せた。
「復帰戦に向けて、環境を整えます。……彼女とは、少し距離を置きます」
それは、誰に言わされたわけでもない。マックイーン自身が、勝つために選んだ選択だった。
■
夕暮れの裏庭。いつものベンチ。マックイーンは、ジャージ姿で走ってきたウララを待っていた。
「マックイーンちゃん!お待たせー!」
ウララの屈託のない笑顔。それが今は、鋭い棘のように胸に刺さる。マックイーンは拳を握りしめ、一度だけ深く息を吸い込んだ。
「……ハルウララさん。今日は、貴女にお話がありますの」
「ん?なあに?あ、もしかして新しいお菓子?」
ウララが隣に座ろうとする。マックイーンは、それを視線だけで制した。その拒絶の空気に、ウララが不思議そうに足を止める。
「私……」
マックイーンは口を開いた。別れの言葉を、言うつもりだった。『もう会えない』。どうせならば、『貴女とは住む世界が違う』などと冷たく突き放して、嫌われて、それで終わりにしようと決めていたはずだった。
「私は、貴女とは……もう……」
だが、言葉が出ない。目の前の純粋な瞳を見ていると、喉が焼けるように熱くなり、用意していた冷徹なセリフが灰になって崩れていく。
言えない。この子を傷つける言葉なんて、この子と離れるような言葉を、言えるはずがない。
「……っ」
マックイーンは唇を噛み締め、俯いた。沈黙が落ちる。カラスの鳴き声だけが、切なく響いていた。
そして、どれくらいの時間が経っただろうか。重苦しい沈黙を破ったのは、マックイーンではなく、ウララだった。
「……そっか。行くんだね?」
マックイーンが弾かれたように顔を上げる。ウララは、悲しむでもなく、怒るでもなく、ただ静かに微笑んでいた。
「え……?」
「わかるよ。だって今日のマックイーンちゃん、昨日までと全然違うもん」
ウララは一歩近づき、マックイーンの顔を覗き込んだ。
「すっごく、キリッとしてる。……テレビで見た、スタートラインに立ってる時の『速い子』の顔になってるよ」
「……っ」
マックイーンの瞳が揺れた。何も言っていないのに。突き放す言葉さえ言えなかったのに。この子は、迷いの向こう側にある「決意」だけを、正確に見抜いている。
「行かないでって言ったら、困るでしょ?」
図星だった。マックイーンは、震える声で答えるしかなかった。
「……はい。私は、行かなければなりません。貴女のいない、もっと遠くの厳しい場所へ」
「うん。わかった。行ってらっしゃい!」
ウララは、大きく頷いた。
「だって、そこがマックイーンちゃんの一番似合う場所だもん!私ね、ここで遊んでくれるマックイーンちゃんも好きだけど、風みたいに走るマックイーンちゃんの方が、ずーっと好きなの!」
引き止めない。縋らない。
それが、彼女なりの最大のエールだった。ウララは背中に隠していた手を出し、何かを差し出した。
「じゃあ、これ!お守り!」
シロツメクサで編んだ花冠だった。不格好で、少し泥がついている。よく見れば、四つ葉のシロツメクサも編み込んである。
「これね、マックイーンちゃんが一等賞とれるように作ったの!あげる!」
マックイーンの手が震えた。私は貴女を置いていくのに。何も言えずに立ち尽くしていただけなのに。
―――貴女は、まだ私に「祝福」をくれるのですか。
「……いただいて、よろしいのですか?」
「もちろん!マックイーンちゃんの足は、誰より速いんだから。走らなきゃもったいないよ!」
ウララは無理やりマックイーンの手に花冠を握らせた。
「がんばってね!私、遠くから応援してるから!レース、絶対に見るからねー!」
そう言いながら、走り去るウララ。マックイーンは、泥だらけの花冠を胸に抱き、その背中に深々と一礼した。気持ちは、言葉にならなかった。ただ、感謝の涙がこぼれ落ちそうになるのを、必死にこらえていた。
■
数週間後。
マックイーンは、ウララとの約束通りターフの上にいた。タイムは順調に戻りつつある。フォームも美しい。鬼気迫る集中力で、彼女はリバビリのメニューを消化していた。
だが、その表情は能面のようで、どこか張り詰めていた。先日のハルウララとの別れが、尾を引いているのは、明らかだった。
休憩中、ベンチで水を飲んでいると、隣にふらりと誰かが座った。
「……何か御用ですの?ヤン・トレーナー」
「いや、サボりだよ。君のトレーナーに見つかると怒られるから、盾になってくれ」
ヤンは悪びれもせず、紅茶の入った水筒を開けた。そして、独り言のように呟いた。
「……こっちの『小さな春風』も、相変わらずだよ」
マックイーンの手が止まる。
「『マックイーンちゃん、今頃すごいスピードで走ってるんだろうなー』と、毎日空を見上げてニヤニヤしている。自分の練習そっちのけでね」
「……そうですか」
「君が彼女を遠ざけた理由は聞かない。だが、トレーナーの立場から言わせて貰えば、競争ウマ娘として、実に、正しい判断だったと言わせて頂くよ。情に流されて共倒れになるより、よほどいい」
「随分と、薄情でいらっしゃるのね」
「事実だからね。今のハルウララと、メジロマックイーンでは走る世界が明らかに違う」
ヤンは、カップの湯気を眺めながら言った。
「だが。だからといって、そんなに悲壮な顔をして走る必要はあるのかね?眉間に皺を寄せて勝ったところで、彼女は喜ぶかな」
「……どういう意味です?」
「もっと単純に考えればいい、と言っているんだよ」
ヤンは肩をすくめた。
「彼女は、君に『メジロ家の悲願』やら、『メジロの最高傑作』やら、重たいものは全く期待していない。ただただ、『私の友達はこんなに速いんだぞ、すごいだろう』と自慢したいだけさ。
……それならば、君がやるべきことは、苦しむことじゃない。涼しい顔で、誰よりも速く駆け抜けてみせることだろう?」
ヤンは立ち上がり、ベレー帽を直した。
「君は英雄になる必要はない。ただの『良き自慢の友達』であれ。……その方が、気楽に走れるんじゃないかな」
それだけ言い残し、魔術師はヒラヒラと手を振って去っていった。
残されたマックイーンは、呆気にとられ、そしてふっと肩の力を抜いた。
(……単純に考えろ、ですか)
「……ふふっ。本当に、お節介な方たちですこと」
彼女はポケットから、シロツメクサの花冠を取り出した。これを見ると、不思議と力が湧いてくる。
そうだ。難しいことは何もない。背負うべきは、重圧ではない。この小さな期待だけでいい。
「……見せなければなりませんね」
マックイーンは立ち上がった。その顔から、悲壮感は消えていた。あるのは、女王としての自信と、友への愛だけ。
彼女は、胸元のシロツメクサにそっと触れ、遠くの空を見据えた。
「……ご覧あそばせ、ハルウララさん」
マックイーンは、微笑みを浮かべながら前を向き、優雅に一歩を踏み出した。
「貴女が愛してくれたこの足で……至高の『一等賞』を、証明してみせますわ」
決意を新たにメジロマックイーンは、いよいよ復帰へのターフへと向かう。
舞台は春の天皇賞。
そして、その先の未来で待つ、彼女との再会へ向けて。孤高の蝶は、今、静かに羽ばたいた。