ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

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春風は、誰がために吹く

 その日、京都レース場のパドックは、異様な熱気に包まれていた。メジロマックイーンの復帰戦。

「メジロの最高傑作」は、あの致命的な故障から立ち直り、本当に以前のような輝きを取り戻せているのか。観客たちの視線には、期待と、それ以上に大きな不安が混じっていた。

 

 だが、本バ場入場に現れた彼女の姿を見た瞬間、その不安はどよめきに変わった。

 

「……雰囲気が、違う」

 

 関係者席で見ていたトウカイテイオーが、ポツリと漏らした。以前のマックイーンは、氷の刃のような鋭さと、触れれば切れそうな緊張感を纏っていた。それは「完璧」を維持するための鎧だったのかもしれない。

 

 だが、今日の彼女は違った。

 

 ゆったりとした歩様。ターフの感触を確かめるように、愛おしむように踏みしめる蹄鉄。その表情は、悲壮な覚悟ではなく、待ちわびた恋人に会うような、静かな喜びに満ちていた。

 

「……良い顔だ」

 

 隣で紅茶、もちろん水筒持参である、を啜りながら、ヤン・ウェンリーが言った。

 

「気負いがない。勝たなければならないという義務感ではなく、走りたいという欲求が体を動かしている。……これなら、おそらくは勝てるだろうね」

 

 ヤンの視線は、マックイーンから少し外れ、一般観客席の最前列へと向けられた。そこに、警備員に注意されそうなほど柵に張り付いている、ピンク色の小さな影があった。

 

「マックイーンちゃん!きれいー!かっこいー!!」

 

 ハルウララだ。彼女は今日、自分のトレーニングもそこそこに、「どうしても見るの!」と駄々をこねて、ヤンにここまで連れてきてもらったのだ。

 

 彼女の声は、大歓声にかき消されて届かないかもしれない。

 

 だが、マックイーンはゲートに向かう直前、ふとスタンドの方を見上げ、微かに微笑んだように見えた。

 

 

 ファンファーレが鳴り響く。束の間、ゲートが開く。

 

 スタートは完璧だった。マックイーンは、水が流れるように自然に好位につけた。怪我の影響を感じさせない、滑らかなフォーム。いや、以前よりも力が抜け、ストライドが伸びているようにさえ見える。

 

(……見ていらっしゃいますか、ハルウララさん)

 

 マックイーンは風の中で思った。苦しくはない。足の痛みもない。あるのは、風を切る音と、心臓の高鳴りだけ。

 

 あの日、貴女は言いましたわね。

 

 『マックイーンちゃんの足は、風より速いぞって言ってる』と。

 『走ってると、生きてるって感じる』と。

 

(ああ、本当にそうですわ。私は今、生きています。メジロのためでも、名誉のためでもなく、ただこの瞬間の風になるために、私は走っている)

 

 第4コーナー。後続が仕掛けてくる。重圧がかかる場面だ。かつての彼女なら、「抜かせてはならない」と焦り、体を硬くしていただろう。

 

 だが今は違う。

 

(いらっしゃい。でも、私の風には追いつけなくてよ)

 

 マックイーンは、内なる「泥んこの友人」に語りかけるように、心のアクセルを踏んだ。

 

 先頭に立つ。独走。ターフの上を、孤高の蝶が舞う。

 

 それは、力任せの爆発ではなく、翼を広げて飛翔するような、優雅な加速だった。

 

「いっけえええええ!!マックイーンちゃぁぁぁん!!」

 

 スタンドの最前列で、ウララが飛び跳ねて叫んでいた。周りの観客が引くほどの大声だった。でも、彼女には見えていた。

 

 マックイーンの背中から溢れ出す、キラキラした光が。

 

「すごい!すごいよ!本当にかっこいい!行っけええええ!」

 

 ウララは泣いていた。

 

 あまりにも美しかったからだ。自分が憧れたメジロマックイーンが、約束通り、世界で一番すごい走りを見せてくれている。

 

 それが嬉しくて、誇らしくて、涙が止まらなかった。

 

 

 迎えたゴール。場内が割れんばかりの拍手と歓声に包まれる。

 

 終わってみれば、5バ身差の圧勝だった。

 

「おかえり!」

「待ってたぞ!」

 

 という声が降り注ぐ中、マックイーンは息を整え、空を見上げた。

 

 彼女は、ウイニングランもそこそこに、観客席へ近づいてきた。そして、ある一点で足を止めた。最前列で、顔をぐしゃぐしゃにして泣いている、いつも、泥だらけのウマ娘の前で。

 

 言葉はなかった。マックイーンは、胸に手を当て、深く、優雅に一礼した。それは、観客への感謝であると同時に、彼女にだけ分かる合図だった。

 

 ──約束は、果たしましたわ。私の走り、見ていただけて?

 

 ウララは、涙を拭って、満面の笑みで親指を立てた。泥だらけの、しかし、最高なサムズアップ。

 

 マックイーンもまた、堪えきれずに破顔した。女王の仮面も、名家の重圧も脱ぎ捨てた、ただの少女の笑顔で。

 

 その瞬間、二人の間には、いかなるG1タイトルよりも価値のある「絆」が結ばれていた。

 

 

 帰りの電車。遊び疲れた子供のように、ハルウララはヤンの隣で爆睡していた。よだれを垂らしながら、

 

「マックイーンちゃん……はやい……」

 

 と寝言を言っている。

 

 向かいの席に座るトウカイテイオーが、その寝顔を見ながら言った。

 

「……ねえ、魔術師。マックイーン、変わったね」

「ああ。強くなった」

 

「レースの後、マックイーンと話したんだ。そしたらね、『私、最高のコーチを見つけましたの』だって。誰のことだと思う?あのマックイーンに教えられるなんて、どんなすごいトレーナーなんだろう?何か知らなーい?」

 

 テイオーは不思議そうに首を傾げた。ヤンは、隣で寝息を立てている「最高のコーチ」に視線を落とし、苦笑した。

 

「さあね。きっと、常識にとらわれない、とんでもない変わり者なんだろうさ」

 

「えー、気になるよー!ボクも教えてもらいたいなー!」

 

 テイオーは嬉しそうに笑った。そして、ヤンは窓の外を流れる景色に目をやった。

 

(戦略とは、本来、論理と計算によって構築されるものだ)

 

 ヤン・ウェンリーは、眠っているウララの肩に自分の上着をかけてやった。

 

(だが、人の心という戦場においては、時として計算外の要素が戦局を覆す。

 

「勝ちたい」という執着が足枷になり、

 

「負けてもいい」という開き直りが翼になる。

 

そして、泥だらけの敗者が、黄金の勝者を救うこともある)

 

 この小さな春風は、これからも負け続けるだろう。何度も転び、何度も泥にまみれ、最下位を走り続けるだろう。

 

(……やれやれ。歴史というのは、やはり、教科書通りにはいかないな)

 

 だが、彼女が走る限り、その風は誰かの背中を押し、誰かの涙を乾かすかもしれない。それは、勝利の数だけでは測れない、彼女だけの「偉業」だ。

 

「……良い仕事をしたな、ハルウララ君」

 

 誰にも聞こえない声で、魔術師は呟いた。そして、明日の朝食の人参ハンバーグのレシピを考えながら、彼もまた、心地よい微睡(まどろみ)に身を委ねたのだった。

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