ヤン・ウェンリートレーナーの短編集   作:灯火011

35 / 86
そして、麗らかなる芽吹き

 ヤン・ウェンリーは、こめかみを指で押さえながら、デスクの下に身を潜めていた。

 かつて、イゼルローン要塞の司令官室でさえ、これほど居心地が悪かったことはないだろう。

 

「……あの、ヤン・ウェンリートレーナーはいらっしゃいますか?」

「すみません、予約でいっぱいで……」

「一目だけでも!あの『マックイーンさんを復活させた魔法』について伺いたいんです!」

 

 ドアの外から聞こえるのは、トレーナー室に押し寄せるウマ娘たちの声と、それを押し留めるライスシャワーの声だ。メジロマックイーンの劇的な復活劇。

 それが「ヤン・ウェンリーの特殊な指導によるものだ」という、半分は真実で、半分は誤解が入り混じった噂が広まった結果、彼の元には「悩み相談」の行列ができていた。

 

「……やれやれ。私はいつから、『トレセン学園の母』になったんだ。そもそも今回、メジロのご令嬢には2,3言葉をかけただけで、本当に何もしていないんだぞ」

 

 ヤンはデスクの下で、冷めた紅茶をちびりと啜った。

 彼はただ、年金をもらいながら歴史の研究をしたかっただけなのだ。美少女たちの人生相談に乗るなど、荷が重すぎる。

 

「あー!トレーナーさん、そんなとこにいたの!かくれんぼ?」

 

 突然、デスクの下にピンク色の顔がニューっと入ってきた。ハルウララである。

 

「シーッ!声が大きいよ、ウララ君」

「えへへ、ごめんね。でもすごいよ!外にね、行列できてるの!ラーメン屋さんみたい!」

「君ね……。その行列のせいで、私はトイレに行くことすらままならないんだが」

 

 ヤンはため息をついて這い出した。このままでは餓死するか、膀胱が破裂するかの二択だ。戦略的撤退が必要である。

 

「ウララ君。君に極秘任務を与える」

「ごくひにんむ!?」

「そうだ。今から私はこの部屋から脱出する。君はその間、彼女たちの気を逸らしてくれ」

「わかった!気をそらすって、どうすればいいの?」

「何でもいい。『あっちにUFOがいた』とか『ゴルシが焼きそばを配ってる』とか」

 

「任せて!……あ、そうだトレーナーさん!これ!」

 

 ウララは元気よく敬礼した後、くしゃくしゃになった紙をヤンに渡した。

 

「これ、次のレースの出走表!理事長さんが『ハルウララの次のレース、ヤン・トレーナーの手腕に期待する!』って!」

「……逃げ道を塞がれたか」

 

 ヤンは紙を受け取り、天井を仰いだ。平和な隠居生活への道は、どうやら数万光年彼方にあるらしい。

 

 

 それからしばらくして。とある地方交流戦(ダート1400m)。曇り空の下、ヤン・ウェンリーはパドックの隅で、担当ウマ娘に「奇策」を授けていた。

 

「いいかい、ウララ君。作戦名は『金魚のフン』だ」

「きんぎょのふん!」

 

 ヤンは、先行逃げ切り型の4番のウマ娘を指差した。

 

「スタートしたら、あの子のお尻だけを見て走りなさい。抜かそうとしなくていい。ただ、ピッタリと背後にくっついて、ニコニコ笑い続けるんだ」

 

 それは、相手のペースを乱し、スタミナを削り合わせる消耗戦術。だが、今日のハルウララは、いつものように

 

『わかったー!楽しそう!』

 

 と即答しなかった。彼女は、少しだけ真剣な目で、4番の背中を見つめていた。

 

「……ねえ、トレーナーさん」

「ん?」

「あの子についていったら、『あそこ』に行ける?」

 

 ウララが指差したのは、ゴール板の向こうにある、ステージのセンターだった。ヤンは一瞬、虚を突かれた。だが、すぐにベレー帽を被り直し、静かに答えた。

 

「……センターは難しいな。だが、その端っこ、ステージの上には立てるかもしれない」

「そっか!わかった!私、金魚のフンになる!」

 

 その笑顔はいつものものだったが、ヤンは感じ取っていた。彼女の中の温度が、以前とは決定的に違うことを。

 

 

 レース展開は、ヤンの読み通りだった。ウララという「笑顔の追跡者」に背後を取られた4番は、恐怖心からオーバーペースで暴走。つられた先行集団も総崩れとなった。

 

 泥沼の消耗戦。足が止まるライバルたち。その脇を、ハルウララが抜けていく。

 

(……見えないなぁ)

 

 走りながら、ウララは思っていた。泥が目に入るからではない。

 

 この前見た、あんなにキラキラしていた光が、ここにはない。京都レース場で見た、マックイーンの背中。風をまとい、光を浴びて、遥か彼方を飛んでいった、あの美しい姿が、カケラたりとも見えてこない。

 

『マックイーンちゃん、かっこよかったなぁ』

『みんなが名前を呼んで、キラキラしてて、……すごかったなぁ』

 

 ――私も、あんなふうになれるかな。

 

 その想いだけが、鉛のように重い足を前へと動かした。苦しい。息が切れる。でも、止まりたくない。あの光の中に、私も行ってみたい。

 

 そして、ハルウララは走り切った。順位は――5着。

 

 ギリギリ、「掲示板」に名前が載る順位。それは彼女にとって、キャリア最高の順位だった。

 

 

 レース後のウイニングライブ。地方の小さなステージだが、照明が焚かれ、勝者が称えられる場だ。

 5着に入ったウララは、ステージの端っこで、ぎこちなく踊っていた。

 

「やったー!トレーナーさーん!見てるー!?」

 

 客席のヤンに向かって、ブンブンと手を振る。観客たちからは「あの子、5着であんなに喜んでるぞ」「可愛いな」と温かい笑いが起きていた。ヤンもまた、苦笑しながら手を振り返した。

 

 だが。

 

 曲が終わり、スポットライトが「1着のウマ娘」だけに絞られた瞬間。

 

 ―――ウララの笑顔が、ふと消えた。

 

 彼女は、ステージのセンターで光を浴び、喝采を受ける勝者をじっと見つめていた。その瞳の奥に映っているのは、目の前の勝者ではない。あの日、京都のターフで見た、「世界で一番美しい友達」の姿だ。

 

 まばゆい光。轟くような歓声。

 

 マックイーンが立っていた場所。

 

 マックイーンが見ていた景色。

 

 今の自分の位置からは、そこはあまりにも遠く、そして眩しかった。

 

「……いいなぁ」

 

 マイクに入らない、小さな呟き。泥だらけの拳が、衣装のスカートをギュッと握りしめる。

 

「マックイーンちゃん……いいなぁ……」

 

 それは、ただの「羨望」ではない。「走るのが楽しい」だけだった少女が、初めて知ってしまった「悔しさ」と、焦がれるような「渇望」。

 

 客席の陰で、ヤン・ウェンリーはその瞬間を見逃さなかった。彼は、飲みかけの紅茶を置き、深く息を吐いた。

 

(……罪なことをしてくれたものだ、メジロの御令嬢は)

 

 知らなければ、幸せでいられたかもしれない。

 

 「負けても楽しい」ままでいられたかもしれない。

 

 だが、彼女は見てしまったのだ。本物の「勝者」の輝きを。そしてそれが、大好きな友達の姿であったことを。

 

 ヤンは、ステージ上の小さな教え子を見つめた。その横顔は、いつもの「春風」のようなあどけなさを残しつつも、どこか、戦場を見据える「兵士」の鋭さを帯び始めていた。

 

 

 帰りのバス。ウララは遊び疲れて、ヤンの肩で熟睡していた。寝言で、

 

「むにゃ……マックイーンちゃん……まてー……」

 

 と呟いている。ヤンは、窓に映る自分の顔を見て、自嘲気味に笑った。

 

「……やれやれ。私の仕事が増えそうだ」

 

 5着。それは勝利ではない。

 

 だが、彼女の心に小さな火種がついた今、これからの戦いは「参加すること」が目的ではなくなるだろう。あの光に、一歩でも近づくために。大好きな友達の隣に、胸を張って並び立つために。

 

「……少し、メニューを見直すか」

 

 不敗の魔術師は、ポケットから手帳を取り出した。そこには、紅茶の茶葉リストの隣に、びっしりと書き込まれた「ハルウララ育成計画(改)」があった。

 

 バスは夕暮れの道を走る。

 

 その先には、まだ誰も知らない、小さな奇跡の物語が続いていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。