ヤン・ウェンリーは、こめかみを指で押さえながら、デスクの下に身を潜めていた。
かつて、イゼルローン要塞の司令官室でさえ、これほど居心地が悪かったことはないだろう。
「……あの、ヤン・ウェンリートレーナーはいらっしゃいますか?」
「すみません、予約でいっぱいで……」
「一目だけでも!あの『マックイーンさんを復活させた魔法』について伺いたいんです!」
ドアの外から聞こえるのは、トレーナー室に押し寄せるウマ娘たちの声と、それを押し留めるライスシャワーの声だ。メジロマックイーンの劇的な復活劇。
それが「ヤン・ウェンリーの特殊な指導によるものだ」という、半分は真実で、半分は誤解が入り混じった噂が広まった結果、彼の元には「悩み相談」の行列ができていた。
「……やれやれ。私はいつから、『トレセン学園の母』になったんだ。そもそも今回、メジロのご令嬢には2,3言葉をかけただけで、本当に何もしていないんだぞ」
ヤンはデスクの下で、冷めた紅茶をちびりと啜った。
彼はただ、年金をもらいながら歴史の研究をしたかっただけなのだ。美少女たちの人生相談に乗るなど、荷が重すぎる。
「あー!トレーナーさん、そんなとこにいたの!かくれんぼ?」
突然、デスクの下にピンク色の顔がニューっと入ってきた。ハルウララである。
「シーッ!声が大きいよ、ウララ君」
「えへへ、ごめんね。でもすごいよ!外にね、行列できてるの!ラーメン屋さんみたい!」
「君ね……。その行列のせいで、私はトイレに行くことすらままならないんだが」
ヤンはため息をついて這い出した。このままでは餓死するか、膀胱が破裂するかの二択だ。戦略的撤退が必要である。
「ウララ君。君に極秘任務を与える」
「ごくひにんむ!?」
「そうだ。今から私はこの部屋から脱出する。君はその間、彼女たちの気を逸らしてくれ」
「わかった!気をそらすって、どうすればいいの?」
「何でもいい。『あっちにUFOがいた』とか『ゴルシが焼きそばを配ってる』とか」
「任せて!……あ、そうだトレーナーさん!これ!」
ウララは元気よく敬礼した後、くしゃくしゃになった紙をヤンに渡した。
「これ、次のレースの出走表!理事長さんが『ハルウララの次のレース、ヤン・トレーナーの手腕に期待する!』って!」
「……逃げ道を塞がれたか」
ヤンは紙を受け取り、天井を仰いだ。平和な隠居生活への道は、どうやら数万光年彼方にあるらしい。
■
それからしばらくして。とある地方交流戦(ダート1400m)。曇り空の下、ヤン・ウェンリーはパドックの隅で、担当ウマ娘に「奇策」を授けていた。
「いいかい、ウララ君。作戦名は『金魚のフン』だ」
「きんぎょのふん!」
ヤンは、先行逃げ切り型の4番のウマ娘を指差した。
「スタートしたら、あの子のお尻だけを見て走りなさい。抜かそうとしなくていい。ただ、ピッタリと背後にくっついて、ニコニコ笑い続けるんだ」
それは、相手のペースを乱し、スタミナを削り合わせる消耗戦術。だが、今日のハルウララは、いつものように
『わかったー!楽しそう!』
と即答しなかった。彼女は、少しだけ真剣な目で、4番の背中を見つめていた。
「……ねえ、トレーナーさん」
「ん?」
「あの子についていったら、『あそこ』に行ける?」
ウララが指差したのは、ゴール板の向こうにある、ステージのセンターだった。ヤンは一瞬、虚を突かれた。だが、すぐにベレー帽を被り直し、静かに答えた。
「……センターは難しいな。だが、その端っこ、ステージの上には立てるかもしれない」
「そっか!わかった!私、金魚のフンになる!」
その笑顔はいつものものだったが、ヤンは感じ取っていた。彼女の中の温度が、以前とは決定的に違うことを。
■
レース展開は、ヤンの読み通りだった。ウララという「笑顔の追跡者」に背後を取られた4番は、恐怖心からオーバーペースで暴走。つられた先行集団も総崩れとなった。
泥沼の消耗戦。足が止まるライバルたち。その脇を、ハルウララが抜けていく。
(……見えないなぁ)
走りながら、ウララは思っていた。泥が目に入るからではない。
この前見た、あんなにキラキラしていた光が、ここにはない。京都レース場で見た、マックイーンの背中。風をまとい、光を浴びて、遥か彼方を飛んでいった、あの美しい姿が、カケラたりとも見えてこない。
『マックイーンちゃん、かっこよかったなぁ』
『みんなが名前を呼んで、キラキラしてて、……すごかったなぁ』
――私も、あんなふうになれるかな。
その想いだけが、鉛のように重い足を前へと動かした。苦しい。息が切れる。でも、止まりたくない。あの光の中に、私も行ってみたい。
そして、ハルウララは走り切った。順位は――5着。
ギリギリ、「掲示板」に名前が載る順位。それは彼女にとって、キャリア最高の順位だった。
■
レース後のウイニングライブ。地方の小さなステージだが、照明が焚かれ、勝者が称えられる場だ。
5着に入ったウララは、ステージの端っこで、ぎこちなく踊っていた。
「やったー!トレーナーさーん!見てるー!?」
客席のヤンに向かって、ブンブンと手を振る。観客たちからは「あの子、5着であんなに喜んでるぞ」「可愛いな」と温かい笑いが起きていた。ヤンもまた、苦笑しながら手を振り返した。
だが。
曲が終わり、スポットライトが「1着のウマ娘」だけに絞られた瞬間。
―――ウララの笑顔が、ふと消えた。
彼女は、ステージのセンターで光を浴び、喝采を受ける勝者をじっと見つめていた。その瞳の奥に映っているのは、目の前の勝者ではない。あの日、京都のターフで見た、「世界で一番美しい友達」の姿だ。
まばゆい光。轟くような歓声。
マックイーンが立っていた場所。
マックイーンが見ていた景色。
今の自分の位置からは、そこはあまりにも遠く、そして眩しかった。
「……いいなぁ」
マイクに入らない、小さな呟き。泥だらけの拳が、衣装のスカートをギュッと握りしめる。
「マックイーンちゃん……いいなぁ……」
それは、ただの「羨望」ではない。「走るのが楽しい」だけだった少女が、初めて知ってしまった「悔しさ」と、焦がれるような「渇望」。
客席の陰で、ヤン・ウェンリーはその瞬間を見逃さなかった。彼は、飲みかけの紅茶を置き、深く息を吐いた。
(……罪なことをしてくれたものだ、メジロの御令嬢は)
知らなければ、幸せでいられたかもしれない。
「負けても楽しい」ままでいられたかもしれない。
だが、彼女は見てしまったのだ。本物の「勝者」の輝きを。そしてそれが、大好きな友達の姿であったことを。
ヤンは、ステージ上の小さな教え子を見つめた。その横顔は、いつもの「春風」のようなあどけなさを残しつつも、どこか、戦場を見据える「兵士」の鋭さを帯び始めていた。
■
帰りのバス。ウララは遊び疲れて、ヤンの肩で熟睡していた。寝言で、
「むにゃ……マックイーンちゃん……まてー……」
と呟いている。ヤンは、窓に映る自分の顔を見て、自嘲気味に笑った。
「……やれやれ。私の仕事が増えそうだ」
5着。それは勝利ではない。
だが、彼女の心に小さな火種がついた今、これからの戦いは「参加すること」が目的ではなくなるだろう。あの光に、一歩でも近づくために。大好きな友達の隣に、胸を張って並び立つために。
「……少し、メニューを見直すか」
不敗の魔術師は、ポケットから手帳を取り出した。そこには、紅茶の茶葉リストの隣に、びっしりと書き込まれた「ハルウララ育成計画(改)」があった。
バスは夕暮れの道を走る。
その先には、まだ誰も知らない、小さな奇跡の物語が続いていた。